「知と愛」
(ナルチスとゴルトムント)

ヘッセ作/永野藤夫訳

ドットブック 243KB/テキストファイル 247KB

600円

父のすすめに素直に従って修道院に入ったゴルトムントは、ほぼ同年の若き先輩で思索の人ナルチスによって、その運命を予告される……「きみはここに留まるべき人間ではない」と。その予言どおり、ナルチスは修道院をあとにして、愛欲と放浪の暮らしに身を投じる。しかし彼が最後にたどりついたのは、やはりナルチスのいるところだった。「知」と「愛」を二人の人物に託して、その相克と吸引とを物語るヘッセ後年の代表作。
立ち読みフロア
 ゴルトムントがマリアブロン修道院学校に入学してから、一年以上たった。彼はもう何度も、庭の菩提樹や美しいカスターニエンの下で仲間とかけくらをしたり、ボール遊びをしたり、泥棒ごっこをしたり、雪合戦をしたりした。春になっていた。が、ゴルトムントはつかれて気分がわるかった。よく頭がいたくて、学校で注意を集中しているのが骨だった。
 その頃のある夕方、アードルフが彼に話しかけた。あの時、初対面からなぐりあい、この冬から、いっしょにユークリッド幾何をならいはじめていたあの生徒である。夕食後に廊下で遊んだり、生徒の部屋でおしゃべりをしたり、修道院のそと庭を散歩したりしてもよい休み時間だった。
 彼はいっしょに階段を下りながらいった。「ゴルトムント、面白いことがあるんだが。でも、君は模範生で、いつかきっと司教様になるつもりなんだからな――まず、友情を守り先生に告げ口をしない、と約束しろ」
 ゴルトムントはすぐ約束した。修道院の面目があれば、生徒の面目もあって、二つのものが時々一致しないのを彼は知っていた。世の習いとして不文律は成文法より強力だった。彼は生徒である限り学生の掟《おきて》と面目の観念から、まぬがれることはできなかっただろう。
 アードルフはひそひそ話しながら、彼を玄関から木立の下へつれていった。アードルフには何人かの立派な勇ましい友人があって、それが先輩の遺風をつぎ、自分たちは修道士ではないというわけで、夜に修道院をぬけだして村へ行くことがちょいちょいある、というのである。いっぱしの奴なら、やらずにはいられない、しゃれた冒険で、夜があけないうちにもどってくるというわけである。
「でも、門がしまっているよ」と、ゴルトムントが口を入れた。
「もちろん、あたりまえさ、そこが面白いところさ。抜け道からそっと入れるんだ。始めてじゃないよ」
 ゴルトムントは思い出した。「村へ行く」という言葉は、きいたことがあったが、それは、生徒たちが夜そっと抜け出て秘密の娯しみや冒険を色々やることで、修道院の規則では厳罰をもって禁じられていた。彼はびっくりした。「村へ」行くことは罪であり、禁じられていた。だが、だからこそ危険をおかすことが、「一人前の男」の間では生徒の名誉で、この冒険にさそわれることが、いわば栄誉であることを、彼はよく知っていた。
 彼はいやだといって、走りもどって、ねたかった。彼はひどくつかれて、げっそりしていた。午後ずっと頭がいたかった。が、アードルフの手前が、ちょっと気はずかしかった。それに、村には冒険につきものの、なにかすばらしく珍らしいことがあって、頭痛や憂うつやどんな疲れでも、忘れさせてくれるかもしれないのだ。それは世界への門出で、禁じられているのにそっとやるので、そうほめたことではなくとも、一つの解放、体験かもしれない。彼はためらったが、アードルフは説きふせようとした。彼は不意に笑いだし同意した。
 彼はアードルフといっしょに、もう暗くなっていた広い庭の菩提樹の間へ、そっと消えていった。庭の門は、もうその頃はしまっていた。友達は彼を修道院の水車小屋につれこんだ。そこは暗くて、たえず歯車がまわっていたから、誰にも気どられずにそこを抜けて行くのは何でもなかった。まっくらがりの中を窓をぬけ、しめってぬるぬるした板の積んである所へ下り、その中の一枚をぬきとり小川にかけて渡った。するとそこは、黒々と見えている森に通じる夜眼にも白い大道だった。万事が刺戟にとみ、神秘的で、大いに少年の気に入った。
 森のはずれには、もう仲間のコンラートがいた。長いこと待ったあげく、もう一人、大きなエーバーハルトがばたばたやってきた。四人の若者は森を通っていった。頭上で夜の鳥がさわいだ。星が二つ三つ、静かな雲間に明るくうるんでひかっていた。コンラートがだべり、ふざけ、他の者が時々いっしょに笑った。それでも、不安でおごそかな夜気が皆の上にただよっていた。彼らの胸はどきどきしていた。
 小一時間もあるくと、森の向うの村についた。もう村は寝しずまったようで、家の肋材《ろくざい》の見えている低い破風《はふ》が、夜眼にもほの白く見えており、燈火はどこにも見当らなかった。アードルフを先頭に、彼等はそっと黙って何軒かの家のまわりを廻り、生垣をこえ、とある庭に入り、やわらかい苗床にふみこみ、階段につまずき、一軒の家の壁に行きあたった。アードルフは雨戸をノックし、きき耳をたてていたが、またノックした家の内で物音がし、やがて燈火がぱっとついた。雨戸があいて、彼らは順に入っていった。そこは台所で、すすけた煙突があり、土間になっていた。かまどの上には小さな石油ランプがあり、細い芯がうすぐらく、ゆらゆらともえていた。そこにいたやせた百姓娘が、入って来た四人に手をさしだした。彼女のうしろの暗がりから長い黒いおさげの小娘が、もう一人でてきた。アードルフはおみやげに修道院の白パン半分と、何か紙のさいふに入れた物をもってきた。ぬすんだ香《こう》か、ろうそくのようなものらしいと、ゴルトムントは思った。お下げの小娘が、燈火も持たずに手さぐりで出ていって、しばらくすると、青い花模様のある灰色のつぼをもってきてコンラートにわたした。彼はそれを飲んで次にまわした。皆が飲んだ。強いりんご酒だった。
 うす暗いランプの光りにてらされて、小さなかたい腰かけにかけた少女たちを中に、彼らは車座になって土間に腰をおろした。ひそひそ話し、あいまにりんご酒をのんだ。アードルフとコンラートが話をはこんだ。時々、誰かが立ち上って、やせた娘の髪やうなじをなで、何かささやいた。小さい方はそっとしておかれた。多分、大きい方が下女で、小さい美しい方が娘だろうと、ゴルトムントは考えた。彼とは無関係なのだから、とにかく、どうでもよかった。どうせ、もう二度とはこないだろうし。そっと抜けだして、夜の森をあるくのは、すばらしく、珍らしく、刺戟にとみ、神秘的で、とにかくあぶなくはなかった。禁制のことではあるが、禁を破りながら、あまりくよくよしなくともよかった。だが、夜ここに少女をたずねたことは、禁制以上で罪であると、彼は感じた。他の者には、このことだってちょっとした女出入りかもしれないが、彼にとっては、そうではなかった。修道生活をし、禁欲を守る決心の彼には、少女と遊ぶことは許されていない。いや、二度といっしょに来まい。だが、彼の胸は、みすぼらしい台所の吊りランプのうす暗い光りの下で、不安げにどきどきしていた。

……ゴルトムントの最初の「幼い冒険」を描いた部分


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