アイリッシュ短編集

「もう探偵はごめん」

ウィリアム・アイリッシュ/稲葉明雄訳

ドットブック版 334KB/テキストファイル 172KB

500円

トムとディックとは無二の親友だった。同じ大学を出、同じアパートで暮らし、いっしょに美人の尻を追いかけ、いっしょに女から逃げ、ひとつの背広を着あう仲だった。ところが、ある夜、トムに幸福と不幸がいちどに訪れる。トムとマーシャの結婚祝賀パーティが、ホテルでひらかれた夜である。宴たけなわに、その夜社交界にデビューしたばかりの、うら若いマーシャの妹が変死をとげた。死因は誤って親指に突き刺さったバラの棘に毒が塗られていたためで、そのバラというのが、トムが婚約者に贈った花束の一輪だった! 警察の嫌疑はトムに向けられ、ディックは親友にかけられた見当違いな濡衣を晴らすため、素人探偵を買ってでた。この表題作の他、サスペンス派の巨匠アイリッシュの短編6編を収録。

ウィリアム・アイリッシュ(1903〜68) ニューヨーク生まれ。コロンビア大学でジャーナリズムを専攻したが、在学中から小説を書き始め、大学は中退。34年からミステリ短編を雑誌に書き始め、42年の長編「幻の女」で一躍サスペンス・ミステリの人気作家となった。哀愁味あふれる美しい文体から「サスペンスの詩人」と呼ばれたりする。本名コーネル・ウールリッチ名義で書いた作品も多い。

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 わたしは頭にのせたシルクハットを片目の上までずりさげて、そこに腰をかけ、調子っぱずれの鶯(うぐいす)のような彼の口笛をきいていた。彼はさっきからネクタイと格闘ちゅうだった。彼とマーシャとの婚約が各新聞にいっせいに報じられ、それを祝う祝賀パーティがマーシャの家の主催で、今夜パーク=アシュレー・ホテルでひらかれるところだった。
「あきらめるんだな」と、五度目に彼が結びなおしにかかったとき、わたしはそういってからかった。「何度やったって両はしがあわないよ」
 ふたたび電話が鳴りだした。
「また新聞記者かな」と、彼は不平そうにいった。しかし、歩いていって受話器をとったわたしの耳にひびいてきたのは新聞記者の口ぶりとはちがっていた。
「ねえ、ダーリン、あの話はほんとう? もしもほんとうだとしたら、あたくしに一番乗りでお祝いをいわせて──」
「おい、『ねえ、ダーリン』っていう電話がかかってきたが、ぼくがマーシャにお伺いをたててやるまで、でるのは待ちたまえ」
 わたしがそんな冗談をいえたのも、彼がけっしてそういうたぐいの男ではないからだ。われわれは一着の背広を共有していたころから、ずっと一緒に生活してきた。なにしろたった一着では、一人がそれを着て出かけるとなると、もう一人のほうは否や応でも部屋でベッドにもぐっている他なかったのだ。
 わたしは奥へ予備のハンカチをとりにいった。もどってきたときには、彼はすでに受話器を置いていた。
「なにも彼女からおめでとうをいわれなくても、こっちはじゅうぶん満足しているのにな」とエレベーターで降りながら、彼はわたしにいった。「さっきの電話、例のフォーテスキュウという女からだったのだ」
 一年ほど前になるが、彼女がちょっとした陰謀をめぐらした事件があった。彼がまだマーシャに会う以前のことだ。そのことがわかると、彼はとたんに彼女を避けだし、彼女から離れていった。まるで爆弾のような性格の女で、ギャングをやとって彼を殴らせようと計画さえした。もっとも、そうなればつきっきりで彼を看病してやれるという計算かららしかったが。彼はギャングのひとりの顎をたたき割り、もうひとりを一番街と五十丁目の角まで追いつめ、そこで人混みのなかに見失ってしまった。むろんトムにも、それが彼女の差し金であることを証明することはできなかったが、しかし、疑いはもった。やがて彼女のほうでも望みなしと諦めたのか、それきり音信が絶えた。そして、さっきの電話だった。
「おかしなことに」と、戸口でタクシーを待っているあいだも、彼は話しつづけた。「彼女、急に態度を変えてしまったよ。なにごとも神様のおぼしめしだと思うわ、とかなんとかいってね。どこまで本気かは疑問だが」
 タクシーのなかで、ふいに彼はぱちりと指を鳴らすと、いった。
「すっかり忘れていた! マーシャに贈る花を買っていかなくちゃ」
 われわれは花屋の前で車をとめ、彼は店のはいっていった。わたしは車のなかで待っていた。
「花は?」
 手ぶらで出てきた彼をみて、わたしはたずねた。
「特別の使いの者にもたせて、至急、とどけてくれるそうだ。ちょっとそのへんでは見かけないような素敵な紅薔薇だよ。《アメリカ美人》ていう種類のね。そろそろ彼女も蘭には飽きたころだろうから」
 パーク=アシュレー・ホテルに着いてみると、パーティはすでに、たいそう盛大をきわめていた。こんど新たに社交界にデビューする若い男女や、デビュー前の子供たちや、すでにデビューした連中で、ホテルは湧きかえっていた。プリンストンとダートマス両大学の学生もいれば、未亡人や遊び人たちの顔もみえ、さながら社交界という動物園だった。パーティ会場は二階にきめられていたが、人はあらゆるところに溢れていた。
 トムとわたしは、あとで朝食までのひとときを休むために、いっしょに部屋をひとつとった。そして、各自いっぱいずつハイボールを空けてから、敬意を表しに階下へおりていった。招待者の群のなかに母親とならんで立っているマーシャを、われわれは見つけた。
「ご自分のためのパーティなのに、すっぽかす気なのかしらって考えていたところよ」と、彼女は笑顔でいった。
「ぼくの贈った花、うけとった?」と彼はきいた。
 彼女は一瞬、ぽかんとした顔になったが、すぐに笑いだした。
「きっと興奮して名刺をつけわすれたのね! 夕方から、もう貨車に何台分もの花束がとどいているのよ」
「ぜったい見つけてみせるわ!」と甲高い澄んだ声がした。マーシャの妹が、興奮で眼をきらきら輝かせながら、そこに立っていた。「彼の趣味ならわかっているもの」
「紅薔薇だよ」
 助太刀する意味で、わたしはそっと耳うちしてやった。彼女はくるっと廻れ右をすると、部屋から駈けだしていった。
 トムはマーシャといっしょに踊りはじめた。わたしが喧噪のなかに足をふみいれようと身構えているところに、マーシャの妹が駈けもどってきた。
「みつかったようだね」と、わたしはいった。彼女は一本を自分の胸にとめ、もう一本、蕾を手にしていた。
「さあ、これはあなたにあげるわ」
 彼女はわたしの衿に手をのばすと、ボタン孔に長い茎をとおし、ぽきっと先を折ってみじかくした。
「痛っ!」
 ちいさく叫ぶと、とっさに彼女は親指を口へもっていった。
「ほら、薔薇にお返しされたね」
 わたしはにやりと笑っていった。
 わたしたちはダンスを始めたが、部屋を半分もまわらぬうちに、彼女のようすがおかしくなり、ぐったりとわたしにもたれかかってきた。ひどく疲れているみたいだった。顎に手をあてて仰向かせ、顔をのぞきこんだ。瞼がいまにも閉じようとしていた。
「疲れたわ」と、彼女はつぶやいた。「ディック──あたくし、もうこれ以上立っていられないわ──」
 突然、彼女のからだから力がぬけ、わたしが腰に腕をまわしていなかったら、その場にひっくり返るところだった。わたしは、半分ダンスをつづけているふうを装い、半分抱きかかえるようにして戸口までいった。だれも気づいた者はいなかった。気ちがいじみた新手のステップを踏んでいるぐらいに人は思ったかもしれない。部屋から連れだすと、すぐに両手で抱えあげ、最寄りのエレベーターまで歩いていった。彼女はひどく軽く、まるで空気を抱いているようだった。
「気分はどう?」わたしはそっと囁いた。「どこが悪いんだい? ディックじいさんが看病してあげようね」
 彼女はかすかに眼をあけた。そのあいだから細い三日月のような白目がのぞいた。
「ディックじいさんと小娘ジーンね」
 彼女はつぶやいた。そして、それきり完全に意識を失ってしまった。エレベーターの扉があいた。わたしは早口にいった。
「急いでこの人たちが部屋を借りている階へやってくれ! それから、医者をさがしてきてくれ!」
 プランター一家はその階をぜんぶ、借り占めているらしく、わたしは彼女をかかえて三部屋ほど通りぬけたあげく、ようやくベッドのある部屋にたどりついた。どこもかしこも花だらけで、一夜明けたらすぐ病院に早変わりできそうだった。見るからにでしゃばりそうな女が、斜めにかぶったレースのハンカチで片目を隠すようにして『バリフー』を読んでいた。
「さあ、スリラーはあとまわしにして」と、わたしは命令した。「このお嬢さんを寝かせるから手伝ってくれ」
 彼女は機械じかけの鼠のような声を発し、豪華な掛け布団を半分ほどはねのけた。
 銀白の山羊髭をたくわえた堂々たる恰幅の男が、ブリッジのカードを胸ポケットにつっこみながら、われわれのいる部屋にはいってきた。見取り図ももたずに迷わずにやってこられたのは、じつに不思議というほかはない。彼はタキシードのすそをさっとはねのけ、彼女のかたわらに腰をおろした。
「むこうをむいて」と彼はわたしにいい、彼女のドレスの肩紐をはずしにかかった。なにかわたしのエナメル皮の靴の上におちたものがあった。彼がなげすてた八重咲きの大輪の紅薔薇だった。わたしは靴でそれを蹴飛ばした。
「この子は死んでいる」と彼はいった。『スペードの3』というときも、この男はこれとまったく同じ調子でいうのだろう。ふたたびフランス人の女中が悲鳴をあげ、あわてて手で口をおおった。

……「もう探偵はごめん」冒頭より

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