「すばらしい新世界」

オールダス・ハックスリー/高畠文夫訳

ドットブック版 299KB/テキストファイル 248KB

700円

試験管内受精プラス「ボカノフスキー処理」によるガンマー、デルタ、イプシロン階級の創出、すべての階級に向けての厳密な条件反射学習と睡眠学習による行動と思考の動機づけ、家庭・一夫一婦制の廃止にともなう完全なフリーセックスの実現……その究極の目的は「共有・同一・安定」をモットーとする社会の建設であり、それはフォード紀元元年に開始された! SF史上に燦然と輝く古典であり、奇想と機知を縦横に駆使して描かれた「暗いユートピア」は、笑ってしまえる喜劇的未来記でもある。

ハックスリー(1894〜1963)英国の作家、批評家。典型的な知的名門に生まれ、才気煥発な諷刺小説、批評に腕をふるった。代表作はなんといっても本書だが、他に「恋愛対位法」「ガザに盲いて」「猿と本質」などがある。

立ち読みフロア

 たった三十四階のちぢこまったような灰色のビル。正面玄関の上に、「中央ロンドン人工孵化・条件反射教育センター」の表札。そして、ワッペン型の表示板の中には、世界国家の「共有・同一・安定」という標語。
 一階のだだっ広い部屋は北に向いている。ガラス窓の外は真夏で、部屋そのものも熱帯の暑さだ。それなのに、何となく寒々としている。荒々しい感じのうすい光がギラギラさし込んで、誰か実験衣を着た職員か、鳥肌《とりはだ》の立った青白い学者先生でもいそうなものだがね、とばかり、しきりに捜しまわってみる。だが、そこいらあたりで目にふれるものは、ガラス器具と、ニッケル器具と、実験室用の白衣だけだ。寒々とした雰囲気《ふんいき》と雰囲気が、互いに競い合っている。職員の上っ張りは白い。手には、死体のような青白い色のゴム手袋をはめている。光線はまるで凍りついたようにどんより曇っていて、今にも幽霊でも出て来そうだ。ただ、顕微鏡の黄色い鏡筒が光を反射しているところだけは、光が少し強くて明るい。そして、そのピカピカの鏡筒の上に幾重《いくえ》にも重なったバター色のすじをつけながら、作業台のずっと下までとどいている。
「そして、ここが」とドアを開きながら所長が言う。「受精室です」
 人工孵化・条件反射教育センター所長が部屋にはいって来たとたん、器具の上にかがみ込んでいた三百人の受精係りたちは、一心不乱に専念するため、いきなり、ほとんど息も立てないように静まりかえった。聞こえるものは、ただ、われを忘れてもらす独《ひと》り言《ごと》の鼻息と口笛だけである。
 新たに配属された、まだうら若い駆け出しの紅顔の研究生の一団が、おずおず、というよりはむしろ、こわごわと所長のおしりにくっついている。ひとりひとりがノートを持っていて、この大先生が何かおっしゃるたびに、死にもの狂いにそれをノートに書きなぐるのだった。大先生じきじきの御伝授とは。まさに願ってもないしあわせだ。新入り研究生をつれて、自分でいろいろな部門を案内してまわってやるのが、中央ロンドン人工孵化・条件反射教育センター所長の主義なのだ。
「ただ、みなさんに、一般的な概念をのみこんでいただくためなのです」というのが彼の口癖である。というのは、もし彼らが、自分の仕事をうまくやっていかねばならないものとすると、もちろん、ある一種の一般的概念を身につける必要があるからだ――とはいっても、彼らが、善良で幸福な社会の一員たらんとすれば、なるべく最小限の一般概念をもつに越したことはない。それというのも、御承知のように、「特殊」こそ、美徳や幸福にとって有益なものであるが、「一般」は、知的な見地からみれば、必要悪だからだ。社会の基幹《バックボーン》を構成しているのは、哲学者たちなどではなくて、糸鋸《いとのこ》引き職工や切手収集家たちなのだ。
「明日からは」と、所長は、多少おどかすように、しかもやさしく微笑してつけ加える。「実地の仕事にとり組んでもらいます。一般概論などにかかずらわっている暇はありませんからね。しかし、それまでは……」
 それまでは、ありがたきしあわせ、というわけだ。何しろ大先生じきじきのお言葉を、そのままノートにとれるのだから。研究生たちは、まるで気ちがいのように書きまくる。
 少し痩《や》せぎすだが、スラリと背が高く、姿勢のよい所長が、部屋のまん中へ出ていった。あごが長く、歯が大きく、こころもち反《そ》っ歯《ぱ》だが、しゃべっていないときは、ふっくらとした、への字形の赤い唇《くちびる》が、ぴったりとそれをおおっている。年配なのか、それとも若いのか? 三十歳か? 五十歳か? それとも五十五歳か? どうともいえない。それに、どうせ、そんな疑問は起こりっこなかった。フォード(ヘンリー・フォード。一八六三〜一九四七。アメリカの自動車製作者)紀元六百三十二年という、安定したこの時代になって、人に年齢《とし》をきいてみよう、なんて気持ちにはならないのだ。
「最初をはじめましょう」と所長が言うと、熱心組の研究生が、すかさず、ノートに、「最初をはじめる」と書きつける。「これらは」と彼は手を振って教える。「孵化器です」そして、絶縁ドアをあけて、番号札をつけた試験管がズラリと並んでいる棚《たな》が幾列にも連なっているのを、研究生たちにみせてやる。「卵子の今週の配給分で、保存温度は」と彼は説明する。「血液の温度です。それに対して、男性の精子のほうは」と、ここで彼はもう一つのドアをあける。「三十七度ではなくて、三十五度に保存しなければなりません。完全な血液の温度ですと生殖能力を喪失してしまいます」去勢していない雄羊でも、発熱帯でくるむと、仔羊を生まなくなる。
 相変わらず孵化器によりかかりながら、彼は、現代式受精法の簡単な説明を与える。その間、鉛筆が、読みにくい字を書きなぐりながらページの上を忙しく走っていく。もちろん、話は最初の外科的処置からはじまる「社会の安寧《あんねい》のために、自発的にこの手術を受けた場合には、給料六か月分に相当する額のボーナスが支給されることはいうまでもありませんが」と前置きし、切除された卵巣を生かしておいて、活発に発育させつづけるための技術にも多少ふれながら、話をつづける。話題は、最適温度、塩分、粘度へと移り、分離して成熟した卵子を保存する液のことにも及んだ。やがて、受けもち研究生たちを作業台まで連れてゆき、いろいろな処置法を実地見学させた――この液体を試験管から吸い上げる方法、吸い上げた液を、一滴ずつ、特に暖められた顕微鏡スライドの上にたらす方法、その液中の卵子を、異常の有無を確かめてから、数を計算して、多孔性の容器に移す方法(ここで、彼は研究生たちを案内して、その操作を観察させた)、この容器を、自由に泳ぎまわっている精子を含んだ暖かい溶液《ブイヨン》にひたす方法――彼の力説するところによれば、この溶液《ブイヨン》中には、最小限にみて、一立方センチメートル当たり十万という精子が集中しているという。それから十分後に容器を液から取りだし、中身を再び検査する方法、卵子が受精していない場合には、もう一度ひたし、さらに必要ならばもう一度ひたす方法、受精卵子を孵化器へもどす方法等々……そして、アルファーならびにベーター階級の人々の卵子は、確実にびんにつめられるまでは、そのまま孵化器の中に保存されるのに対して、ガンマー、デルタ、イプシロンなどの各階級の人々の卵子は、わずか三十六時間で再び取りだされ、ボカノフスキー処理を施されることになるのだ。
「ボカノフスキー処理法」と所長がくりかえすと、研究生たちは、小さなノートに書いたその言葉にアンダーラインを引いた。
 一個の卵子→一人の胎児→一人の成人……正常。しかし、ボカノフスキー処理を受けた卵子は、発芽し、増殖し、分裂する。八ないし九十六の芽となり、一つ一つの芽が完全な形の胎児となり、その一人一人の胎児が、一人前の大きさの成人となるのだ。以前には、たった一人しか人間を生みだせなかったのに対して、今では、九十六人の人間を生みだすことができるのである。なんとすばらしい進歩だろう。
「本質的にみれば」と、所長は結論する。「ボカノフスキー処理法は、発育の連続的な阻止より成り立っています。正常な発達を阻止すると、全く矛盾しているようですが、卵子は発芽することによって、これに反応するのです」
 発芽による反応。鉛筆が忙しく走る。

……冒頭より

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