「ニイルス・リイネ」

ヤコブセン作/山室静訳

ドットブック 243KB/テキストファイル 198KB

400円

イプセンやアンデルセンとともに知られるデンマークの作家ヤコブセンの代表作。愛とあこがれ、夢と希望に燃えて精一杯生きぬいたニイルス・リイネの心の遍歴を繊細華麗に描いて、リルケの絶賛を博した北欧文学の金字塔的作品。「北方の空に無比の美しい深い光をはなっている明星」と評する訳者山室静氏による推敲をかさねた名訳でおくる。
立ち読みフロア
  これほど、幼いニイルス・リイネの父と母とは異なっていたのである。そしてこの二つの親しい力は、それと知らずして、幼い知性がひらめきそめた瞬間から、この幼い魂の支配を争ったのであった。そして少年が成長するに従って、武器の選択はそれだけ豊かになって行ったので、戦いはそれだけいよいよはげしくなった。
 息子の性質のうち、それを通して母親が少年に影響を与えようとしたのは、彼の想像力であった。そしてこの想像力を少年はたっぷり持ってはいたが、それにしてもすでにずっと早い頃から、彼は母親の話してくれる童話の世界と現実の世界との間には、おそろしいほどの差別があることに気づいていたのである。なぜなら、幾度となくこんなことが起こった……母親が彼におとぎ話をして、主人公がどんな窮地に陥って行ったかを描いてみせた時、いよいよ狭まりながら彼と主人公の周りにひしひしと迫ってくる呪縛の環のようなこの苦境から、逃がれるすべも回り路も見いだすことができなかったとき……そう、実際にこんなことがしばしば起こったのだ、突然ニイルスは頬を母親のそれに押しあてて、両眼に涙を浮かベ、唇をふるわせながら、「でも、それはほんとうのことではないのでしょう!」とささやくのだったから。そして望んでいた慰めの言葉をきくと、彼は深い安堵の吐息をついて、さてそれから安心して話を終わりまで聴くのであった。
 しかし母親にとっては、この質問と安堵の色は少しも嬉しいものではなかった。
……
 夜の夢の形と響きとが白昼によみがえって、おぼろな姿と声とでわれわれの思想によびかけ、一瞬まさしくその音がきこえる時、何物かが実際に自分を呼んだのではないかと怪しむように……そのようにそのまぼろしにみちた未来の表象は、ずっとニイルス・リイネの少年時代を通してささやきつづけて、しずかに、しかし絶え間なく、この幸福な時代にも終わる時がある、いつの日かそれはもう失われるのだと思い起こさせるのであった。
 この意識が、自分の少年時代を残りなく味わいたい、全身でそれを飲みほして、一滴も……ただの一滴もあますまいという熱望をよび起こした。こうして彼の遊びには熱意がこもったが、この熱意は、時はあわただしく過ぎてゆくのに、自分には次々に押し寄せてくる波が足下に置いてくれる豊かな潮をせき止めるすべがない、という不安の圧力下で、真の情熱にまで高められた。だから彼は、もし休みの日が、何か……遊び友達やいい思いつきがないとか天気がわるいとかで、退屈なものになると、地に身を投げて絶望にすすり泣いたものだった。また、それがあんなにも彼が、いつも寝床につくのを厭がった理由であった。なぜなら、眠りには事件がなく、またまったく感情が欠けていたから。しかし、いつもそんなふうだったというのではない。
 時折りは疲れはてて、空想もすっかりしなえてしまう時があった。そんな時にはひどくみじめな気持になって、あの大きな夢に対して自分があまりに小さく哀れなものに思われるのだった。そう、彼には自分が卑しい嘘つきであり、不遜にもあの偉大なものを愛し理解するかのように装いながら、しかも実は、ただ小さなものばかりを感じ、ただ平凡なものを愛することができるばかりで、自分の中にはあらゆる卑しい願いや欲望が渦まいているのを感じるのだった。そう、時には卑しく生まれついた者の高貴なものに対する階級的憎悪を感じて、自分よりよく生まれついて、またそれを自覚しているそういう英雄たちに対して石を投げる者の仲間に、喜びをもって加わろうとさえしたのである。
 そういう日には、彼は母親を避け、卑しい本能に従うように感じながら、父親を探した。そして、父親の地上に縛りつけられた思想や夢ぬきの説明のすべてに喜んで耳を傾け、素直に心をうち開いた。そんな時には、父親のそばにいるのが心から楽しく、二人が似よりの人間であることが嬉しくて、これがあの夢想の塔の上から憐れみをもって見おろした同じ父親であることをさえ、忘れがちだった。もちろん彼の子供ごころに、そうしたことが、ここに言ったほどはっきりと映っていたのではない。それにしても、それはまだ生まれぬ、未完成でぼんやりした胎児の形であったにせよ、すっかりそこにあったのだ。それはまるで海底のふしぎな植物を、乳いろの氷をすかして見るようなものだった。その氷を砕くか、暗い世界に生きているものを言葉の照明の下に引き出せば、そういう結果になるであろう。この明るみの下で、いまわたしたちが見て理解するものは、もはやあのおぼろなものではないのである。

……
第二章より

購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***