「日本名城伝」

海音寺潮五郎

ドットブック版 386KB/テキストファイル 158KB

600円

城にもそれぞれ個性がある。岐阜城主はただ一人を除いてすべて非業の死をとげている、小田原城の歴史は震災史ともいうことができ、姫路城には女のからんだ秘話が多い。南は熊本城から、高知城、姫路城、大阪城、岐阜城、名古屋城、富山城、小田原城、江戸城、会津若松城、仙台城、北は函館五稜郭まで、12の名城にまつわる史話を歴史文学の第一人者 が縦横に語った興趣つきない作品。

海音寺潮五郎(1901〜77)鹿児島県伊佐郡大口村(現在の伊佐市)生まれ。本名は末富東作(すえとみとうさく)。国学院大学高等師範部国漢科を卒業後、中学教師を務めながら、創作をおこなう。1934年から歴史小説を発表しはじめ、36年「天正女合戦」と「武道伝来記」が認められて第3回直木賞を受賞。以後、歴史小説・史伝ものの第一人者となった。前者の代表作は「平将門」「海と風と虹と」「蒙古来たる」など、後者では「武将列伝」「悪人列伝」「西郷隆盛」(絶筆・未完)など。

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 天正十五年(一五八七)豊臣秀吉は九州を平定し、肥後を佐々(さっさ)成政(しげまさ)にあたえた。秀吉は平定を急いだのと、持ち前の腹の大きさから、地侍(じざむらい)の連中に、本領安堵の朱印状を乱発していた。だから、秀吉は成政に肥後をあたえる時、くれぐれもこのことを言いふくめた。
「地侍の連中を刺戟するようなことは避けよ。三年の間は検地もするな。民をいたわれ」等々。
 ところが、成政は信長麾下(きか)でも猛将の名の高かった男だ。秀吉が信長の後継者気どりで威勢隆々と上るのが癪にさわってならず、徹底的に反抗したので、秀吉の征伐をこうむって惨敗、いのちだけ助けられ、わずかに越中新川一郡をもらって秀吉のお伽衆(とぎしゅう)〔話し相手〕の身分でいること二年間だったのだから、おさえにおさえた覇気が胸に鬱積している。肥後の領主となるやバリバリやり出した。検地もやる。地侍をおさえつける。とり立てをきびしくして城の修理をやるという工合だ。
 ついに地侍連中は蜂起(ほうき)して一揆(いっき)をおこした。戦さの駆引きや武勇の何たるかを知らない百姓共の一揆ではない。武士の一揆だ。猛烈に強い。肥後周辺の大名らが鎮圧の手伝いに来てくれたが、ややもすれば押され気味のありさまだ。しかし、さすがは猛将佐々だ。どうにか鎮圧したが、秀吉は成政に落第点をつけていた。
「やつは時勢おくれの男じゃ。とうてい新時代の大名たるべき器(うつわ)ではない。ことにおれのくれぐれの訓戒にそむいたこと、そのままには捨ておけぬ」
 と、領地をとりあげ、その身は切腹の処分にした。
 その肥後を二つにわって、北半分を加藤清正に、南半分を小西行長にあたえた。清正は佐々の居城であった隈本(くまもと)城におり、小西は宇土を居城とした。
 この隈本城は、この地方の豪族らが次々に居住していた城で、場所は昔の国府の北郊であった。肥後には「クマ」と名のつくところが多い。南部に「球磨(くま)郡」があり、熊(くま)というところがあり、熊入(くまいり)、隈(くま)ノ庄、隈部(くまべ)、隈牟田(くまむた)とあり、隈府(わいふ)なども音読で、本来は「クマの府」だ。
 これはおそらく上古の熊襲(くまそ)のクマに関係があるのであろう。上古南九州に居住していた民族の、熊襲(くまそ)という名称は、その居住地からつけられたというのが、最も支配的な学説だ。つまり山間部族で、山の隈(くま)〔隅(すみ)っこの意〕に住んだり、山の背(そ)に住んだりしているからこう呼ばれたというのだ。肥後南部の球磨地方は山岳地帯だが、このへんは熊襲居住の中心地帯であったろうと考えられている。それから転じて、熊襲どもが住んでいるところは平地でも「クマ何々」というように呼ぶようになったと思われる。
 隈本などもそれで、肥後地方にいた熊襲族の中心地であったところから、「クマモト」と呼ばれたにちがいない。
 さて、清正は隈本城主になったが、間もなくはじまった朝鮮の役のために前後七年も朝鮮に行っていたので、城に手入れも出来ずにいたが、朝鮮の役がすんで帰国すると、二年後には関ヶ原役がおこった。
 この役には清正は九州にいたが、徳川方のために大いに働いたので、戦後は一躍して肥後全国の主(あるじ)となった。半国二十五万石だったのが、五十二万石になったのだ。
 そこで、大大名たるにふさわしい居城とすべく、普請にかかった。この工事は修理や建増しではなく新築であった。従来の地域を全部ふくんではいるが、それよりうんと広くして、茶臼山を中心とした。
 地名を隈本から熊本に改めたのもこの時である。「隈」の字は阜(おか)に畏(おそ)れると書く、武士の居城としておもしろくないというのであったという。その頃、
  熊本に石引きまはす茶臼山
   敵にかとうの城の主(ぬし)かな
 と狂歌するものがあって、一時の流行になったので、清正は喜んだという話がある。
 慶長六年(一六〇一)に着工、十二年に完成している。熊本城は、その石垣の築き方に独特なものがあって、日本の諸城郭中最も異色がある。江戸中期の肥前平戸の殿様松浦静山の著「甲子夜話(かっしやわ)」に、「肥後の石垣は高けれど、《こば》〔勾配〕なだらかにしてのぼるべく見ゆるまま、かけ上るに、四五間はのぼらるるが、石垣の上、頭上にくつがえりて、空見えず、そのままかけ下りしとぞ」とあるように、壁面が彎曲(わんきょく)しているのだ。
 一体、石垣の傾斜工合には、下げ縄〔垂直〕・たるみ〔緩勾配〕・はねだし、と三種類あるのだが、熊本のはこの最後の「はねだし」で、半弧形の積み上げ様式である。こういう積み上げは角錘形の石の狭い小口を壁面に出し、広い小口を奥の方に入れないと出来ない。普通の石垣とくらべるとおそろしく多量に石材がいるわけであるが、そのかわり堅固でもあれば、上述の通りよじのぼることも出来ない。城壁としては理想的なものである。
 この様式は、林子平の「海国兵談」によると朝鮮の城壁に多いとあるから、朝鮮役で、清正が学んで来たものであろう。朝鮮の築城法は昔から特殊なものがあったらしく、天智天皇の頃、唐との国際関係が険悪になった時日本では各地に築城しているが、そのうち長門の一城、筑前御笠(みかさ)郡の大野城、豊前築上郡の橡城(きのき)の三城は朝鮮人に命じて、朝鮮式に築かせている。
 清正のことを、当時の書物に「石垣つきの名人なり」と書いてある。朝鮮から彼自身が学んできたのでもあろうが、石工(いしく)を連れて来たのでもある。彼は瓦工、陶工なども連れてかえって来、熊本市の旧家福田家はその瓦工の子孫で、熊本築城に瓦を製し、代々扶持(ふち)をもらっていたという。

……「
熊本城――神風連――」巻頭より

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