「日本の祭」

柳田国男著

ドットブック版 291KB/テキストファイル 154KB

300円

「まつり」と「おまつり」の使い分け、むずかしそうな「祭礼」、暮らしのなかで出会うこうした言葉の端々から、歴史のなかで生き残ってきた「祭」の姿が徐々に姿をあらわす。全国に残る数多くの事例から、著者は古来の信仰生活の移り変わりを提示する。これから社会へ出てゆく大学生をまえに行なわれた講義で、「祭から祭礼へ」「祭場の標示」「物忌みと精進」「神幸(しんこう)と神態(かみわざ)」「供物と神主」「参詣と参拝」の6回からなっている。 

柳田国男(やなぎたくにお)(1875〜1962)現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれ。日本における民俗学の開拓者。東京帝大卒業後、農商務省にはいり、仕事の関係で各地を旅行、同時に早稲田大学で農政学を講義する。山地の民俗に興味をいだき『遠野物語』を著わすが、以降は幅広く各地の民俗を研究・調査、「方言」「昔話」「伝説」「童謡」などをテーマにした多くの著作を著わした。  

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祭から祭礼へ

 たとえばここに一つの問題がある。祭と祭礼と、この二つのものは同じか違うかということを答えなければならぬとする。そそっかしい人はむろん同じだと言うかもしらぬ。祭礼はマツリの気の利(き)いた表現だと、思っている人もたまにはあろう。ところがそのマツリの中には、実はなんとしてもサイレイとはいえないものが幾らもある。家を普請すれば棟上(むねあ)げの祭をする。井戸をさらえるとその後で井戸神様を祭る。こんなのは確かに祭礼ではない。もっと進んで言うと、家に気になることがあって占いに見てもらったとき、または何かの夢知らせがあって、先祖のマツリが足らぬと言われることがある。すなわち法事とか盆(ぼん)施餓鬼(せがき)とか、今は普通に仏教風の言葉を使っているものでも、日本語でいえばやはりマツリなのである。そうかと思うと他に一方のいわゆる祭礼でも、幟(のぼり)や掛け提灯(ちょうちん)にこそそう書いてはあるが、女や子供はたいていはマツリ、オマツリとしかいわない。東北地方などに行くと、まだサイレイという語のない村が多い。ただ若干のインテリだけが、たまたま大きな祭をゴシャレイなどというのを聴くのみである。文字に書けばこそ祭の礼だろうが、耳の日本語としては二つはまるでちがったものである。これを全然同じものだと、考えない人の方がもっともである。今の多数者の用法からいうと、祭礼はつまり祭の一種特に美々しく花やかで、楽しみの多いものと定義することができるかもしれぬ。あるいはもっと具体的に、見物というものが集まってくる祭が、祭礼であるといってもよいかもしれないが、それではまた見物とは何かということを、説明しなければならぬからめんどうになる。とにかくに祭礼はもと外国語だから古くからあったはずはないが、京都人の記録には鎌倉時代からすでにみえている。あるいは捜したらもう少し前から用いたかもしれぬが、これも最初からただ祭の別称ではなく、どうやら有名な御社(みやしろ)の大きなお祭だけに限ってそういったものらしく、すなわちほぼまた現在の用法に合するのである。
 三つほどの問題がこれに伴うて起こってくる。第一には、この祭礼という語が輸入もしくは新鋳(しんちゅう)せられるまで、土地土地では何という語をもってこの区別を言い現わしていたろうか。あるいは元は全くそういう区別の必要はなかったろうかということである。今日でも公けの文書の中には、気をつけて見ると祭礼という語はあまり使われぬらしい。その代わりには大祭という語がほぼ民間で祭礼というものの意味に用いられている。すなわち一年に何十何度とある祭典の中で、一つだけ大きなまた評判のものがあって、これを表向きには大祭といっている。あるいはこういう名称が古いころにもあって、元はオオマツリ、今はタイサイと呼ぶのではないか。これについての多少の心当たりは、マツリとオマツリとの区別である。女たちはもう混同しているだろうが、男にはこの二つを使い分けている人が今もおりおりはある。著しい例は奈良の春日若宮の十一月のお祭、これは必ずオンマツリと一般にいって、ただマツリという者はない。この敬語には意味があったかと思う。すなわち祭るのは自分たちでなく、政府領主貴(とおと)いかたがたがお祭りなされるからオマツリで、めいめいだけで祭るものをただマツリと呼んでいたのが、それでは紛らわしいので一方のごく少数のものを、祭礼と言い始めたのが元ではないか。現在も官祭私祭という差別を立てている人もあるらしいが、全国を見渡すと、こういうお祭りの使が立つような神社はわずかで、いわゆる祭礼のある御社の方はそれよりもずっと多いらしいから、ことによると本来は官私の別とは関係がなく、社ごとに大祭小祭の区別がまず存し、その大祭の方だけに、朝家官府が参与せられるの風が後に始まったのかもしれぬ。
 もしもその想像のごとくであるならば、しからば大小のちがい目はどういう点にあったろうか、ということが第二の問題になる。別の尋ね方をすると、新たに祭礼という名称を設けて、他の一般の祭と差別しなければならぬ必要はどこにあったろうか。年内の数多くの祭の中で、特にその一つだけを大祭にする土地が、だんだんと多くなってきた原因は何か。大ざっぱに言えば、むろん世の中の進みと答えられるだろうが、それがどういうふうに我々の祭の全体に影響しているか、ということが説明せられなければならぬのである。

 第三の問題はさらに根本的のものである。すなわち祭礼がまた一つの祭だとするならば、そうしてマツリが古くからの忘るべからざる日本語であるとするならば、その大小各種の祭にも必ず共通した大切な意味がなければならぬのだが、それはいずれの点に求むべきものであろうか。我邦(わがくに)の祭が時代の文化の影響を受けて、世とともに徐々に様式を改め、しかも各御社ごとに、それぞれ単独に発達して、外に現われた祭、ことに祭礼の形が互いにちがっているということは、いちだんとこの根本的な共通点を見のがすべからざるものにする。そうしてまた幸いにしてこの状態が、それを見つけ出すのに都合がよいのである。かりに仏教の信仰行事のように、一宗一派で制定し教育し、全国おそろいにきまっているものだったら、よほど確かな記録でもない限り、その一つ以前の形に復原することは難かったろうが、祭の様式は社ごとに古例があって、それが変遷の各段階を存し、また思い思いの改定が加えられている。我々は今まで馴れて怪しもうともしなかったが、同じ地方の祭または祭礼というものにも、こんなにもちがうかと思うほどの変化が見られる。これを一つの信仰の現われとして、少しも不審を抱かなかったのも、国民の持って生まれた確信の一例で、外から観(み)た者ならば疑う方があたりまえである。そういう状態のままではいつまでも置けぬだろう。
 それでこの三つの問題の中では、当然に第三のものに最も多くの力を入れなければならぬことになるのだが、その手段としては、やはり第二の問題を通って行く方が便利である。諸君の故郷の氏神様には、年に五十度七十度というほど、数多い祭があることを報告せられている御社もあるにかかわらず、通例マツリの概念として胸に浮かぶのは、小さなころに目を見張った「祭礼」の光景ばかりで、たまたま田舎をあるいて、これでもマツリだろうかと思うような、静かな質素な小社の祭を見ると、あれは信徒に力が乏しくて、よろず簡略を旨とし、ただ形ばかりを行のうているのだろうという想像も起こりがちだが、それは今一つ他の一面に、「祭礼」の方が後にいろいろの趣向を凝らし、新たな催し物などをつけ添えて、こういう花々しいものにしたのだろうという見方も成り立つので、実際はその方が多くは当たっているのである。
 実例によって話をする方がわかりがよいであろう。祭礼というとたいていの人が連想するのは提灯のさまざまで、たとえば飛騨(ひだ)の高山などの祭礼には、町ごとにおそろいの長い提灯を軒につるし、その模様がいかにも落ち着いていて、これをこそお祭気分と感じない者はないのだが、少し考えてみると蝋燭(ろうそく)はいつから日本にあるか、紙はいつから自由に供給せられ、これを割り竹の《ひご》を細く撓(たわ)めたものに貼りつけて伸縮を自在にし、桐油をこれに塗って雨に霑(ぬ)れても、破れぬようにするまでの技術は、いつのころから普及したか。この二つのものが合体しなければ提灯はなく、またそれ以前から我邦には祭はあった。現に今でも祭の夜に限って篝(かがり)を焚(た)き松明(たいまつ)の火を用い、そういう特徴をもって祭の名とするものも地方にはあるのである。

……「祭から祭礼へ」より


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