「ナイルに死す」

アガサ・クリスティ/西川清子訳

ドットブック 244KB/テキストファイル 194KB

500円

ハネムーンをエジプトに決めた大富豪の娘リンネットは、ナイル河の遊覧船で気持ちよい風を楽しんでいた。だが、そこには夫のかつての婚約者ジャクリ−ンの不気味な影が……はたして、乗り合わせたポワロの目の前でリンネットは殺される。そして殺人の連鎖反応。ジャクリーンにはむろん、文句なしのアリバイが……隔絶された船上を舞台にした難事件にいどむポワロ。

アガサ・クリスティ(1890〜1976)「ミステリの女王」の名を冠されたイギリスを代表するミステリ作家。ベルギー生まれの名探偵エルキュール・ポアロの登場する「 スタイルズ荘の怪事件」でデビュー。「ABC殺人事件」「三幕の殺人」「ハーゼルムアの殺人」など、ポアロもののほか、田舎住まいの詮索好きなおばあちゃんミス・マープルが登場するシリーズなど、膨大な作品を残した。

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 リンネット・リッジウェイ!
「あの女だ」
 こう言って、スリー・クラウンズという宿屋の主人、バーナビィ氏は相棒をつついた。二人は田舎者らしい目を丸くして、口をちょっぴりあけたまま、じっと見ていた。
 真赤な大型のロールス・ロイスがたった今、町の郵便局の前でとまったところだった。
 車からさっと降りたったのは、帽子もかぶらず、見たところ無造作らしい(らしい《ヽヽヽ》のは見かけだけに過ぎなかったが)ワンピースを着た一人の若い娘だった。金髪、横柄なところのある整った顔だち、見事な身体つき、ここ、モールトン・アンダー・ウォドではめったに見られないような女だ。
 女はつんとして、足早やに郵便局の中へ姿を消した。
「あの女だ」
 バーナビィ氏はもう一度くりかえした。そして、小声で感心したようにつづけた。
「あの女、何億という金を持ってるんだぞ。ここの屋敷に何百万もかけようとしているんだ。プールが出来るんだそうだ。それでイタリアふうの庭と舞踏室と家の半分がとりこわしになり、建て直しだとさ」
「町に金を落すだろうね」
 と、言ったのは、やせて貧相な相手の男だった。羨ましくてたまらないというような口調だった。
 バーナビィ氏はうなずいた。
「そうさ。町のためにはすばらしい事だよ、まったく」
 彼はこの点については、満足に思っていた。
「みんな、ガーンと目をさまされるぜ」
 と彼はつけ加えた。
「ジョージ様とはちとばかり違うね」
 と相手は言った。
「ありゃ馬のせいだよ。ちっとも運が向いて来なかったんだ」
 とバーナビィ氏は鷹揚に言った。
「ジョージ様はここのお屋敷をいくらで手放したんだい」
「大枚六万ポンドだとさ」
 やせた男はヒューと口をならした。
 バーナビィ氏は得意になってつづけた。
「噂によると、あの女は屋敷の手入れをすっかりすませるのに、あと六万ポンドつぎこむだろうという事だ」
「けしからん。あの女、どこからそんな大金を手に入れたんだ」
 と、やせた男は言った。
「アメリカからだとさ。あの女の母親がどこかの億万長者の一人娘だったんだ。まるで映画にでもありそうじゃないか」
 この時、例の女が郵便局から出てきて、車にのりこんだ。車が走り去ると、やせた男は目で女を追いながら、つぶやいた。
「まったくけしからんと思うよ。あんなに様子がよくてさ。金があって、おまけに姿がいいなんて、ぜいたくな話だ。あれほど金に恵まれていたら、美人になるには当らん。それなのに、あの娘ときたら、美人なんだから。無いもの無しとは、どうも不公平な気がする」



 デイリー・ブラーグ紙の消息欄所載の記事から。

 シェ・マ・タントに於て夕食をとっていた人びとに交って、リンネット・リッジウェイの美しい姿が見受けられた。ジョアンナ・サウスウッド嬢、ウィンドルシャム卿、ドビー・ブライス氏らと同席であった。人も知る通り、リッジウェイ嬢は、アンナ・ハルツと結婚したメルウィシ・リッジウェイの令嬢である。嬢は祖父のレオポルド・ハルツ氏から莫大な財産を相続することになっている。リンネット嬢は目下話題の中心になっており、遠からず婚約の発表があるものと取り沙汰されている。ウィンドルシャム卿は相当熱をあげているように見うけられた。



 ジョアンナ・サウスウッド嬢が言った。
「何もかもすっかり素晴らしくなるわね」
 ここはウォド・ホールのリンネットの寝室である。窓からは庭ごしに広々とした平地が眺められ、林が青い影を落している。
「まあ申し分ないでしょ」
 とリンネットは言った。彼女は窓に腕をもたせかけて、いきいきとはち切れそうな顔つきをしている。かたわらにいるジョアンナ・サウスウッドはやや影がうすれて見える。ジョアンナは二十七歳になるやせて丈の高い女性で、面長の利口そうな顔つきだが、眉毛は妙な形に抜いてある。
「ちょっとの間にずいぶんはかどったじゃない! 建築関係の人手は十分あって?」
「三人よ」
「建築家ってどう? 私は一人も知らないんだけど」
「あの人たちよくやってくれたわ。時どきやる事が実際的でないなと思うこともあったけど」
「早速あなたが自分でやり直せばいいわ。あなたときたら凄いやり手なんだから」
 ジョアンナは化粧台から一連の真珠をつまみあげた。
「これ天然真珠なんでしょう、リンネット」
「もちろんよ」
「そりゃああなたにはもちろんでしょうけど、大抵の人はそう行かないわ。ひどい養殖ものか、ウルワースの安物のことだってあるのよ。これ粒がとてもよく揃っていて、天然物とは思えない程だわ。目の玉がとび出るような値段でしょうね」
「悪趣味だと思って?」
「どういたしまして、――ほんとに見事だと思うわ。いったい、いくらぐらいなの?」
「五万ポンドぐらい」
「何という大金! 盗まれる心配はないの」
「大丈夫よ。いつでも身につけているし、それに保険がかけてあるんですもの」
「食事の時まで私にかけさせてね。いいでしょう? 身体がムズムズするわ」
「よかったらどうぞ」
 とリンネットは笑いながら言った。
「ねえ、リンネット、ほんとにあなたが羨ましいわ。あなたったら無いもの無しなんですもの。まだ二十歳で、何でも自分の思うようにする事ができ、お金はいくらでもあって、美人でピチピチしているんですもの。おまけに頭もいいんですからね。満二十一歳になるのはいつ?」
「六月よ。ロンドンで盛大な成人式のパーティを開くことになっているの」
「それからチャールズ・ウィンドルシャムと結婚するんでしょう。うるさいゴシップ記者たちが大さわぎしているわ。あの人、まったく夢中になっているわね」
 リンネットは肩をすくめた。
「どうかしら。私まだ誰とも結婚する気はないのよ」
「それがいいわ。結婚するとすっかり変ってしまうんですものね」
 電話のベルが鳴ったので、リンネットはそちらへ足をむけた。
「え? え?」
 召使頭の声がきこえてきた。
「ベルフォト様からでございます。おつなぎいたしましょうか」
「ベルフォト? そう、つないでちょうだい」
 カチリと音がして、はずんだ柔い声が伝わってきた。
「もしもし、リッジウェイさんでいらっしゃいますか。リンネット?」
「まあ、ジャッキイ! ずいぶんしばらくね」
「そう、とても、御ぶさたしてしまったわ。ねえ、リンネット、ぜひお会いしたいのよ」
「じゃ、ここへ来られない? 私の新しいおもちゃよ。あなたにお見せしたいわ」
「願ったりかなったりだわ」
「それじゃ、汽車か車にとび乗んなさいよ」
「そうするわ。おそろしくガタガタの二人乗りなのよ。十五ポンドで買ったんだけど、ずっと調子のいい事もあるわ。でも御機嫌屋なのよ。お茶の時間までに行かなかったら具合が悪いんだと思ってね。じゃさよなら」
 リンネットは受話器をおいて、ジョアンナの方へ戻った。
「私の古い友だちよ。ジャクリーン・ド・ベルフォトと言って、パリの学校で一緒だったの。とても運の悪い人でね。フランスの貴族出のお父さんは女を作ってかけ落ちしてしまうし、アメリカ人のお母さんは南部出身だったけど、例の株の暴落の時スッテンテンになってしまったのよ。ジャッキイも文無し同然で放り出されるという始末よ。あの人、この二年間どうやってきりぬけてきたのかしら」
 ジョアンナは真赤な爪をリンネットの爪磨きで磨いていた。そして、首をかしげてその仕上り具合を調べていたが、ゆっくりと口をきいた。
「ねえ、それ、うんざりしやしない? 私はね、友だちが不幸になったらあっさりつき合いをやめることにしているの。冷たいみたいだけど、結局あとの面倒がなくてたすかるわ。お金を貸して下さいとか、仕立物を始めましたとか、言われるにきまっているんですもの。とんでもない服を作らせられるのが落ちよ。さもなけりゃ、電燈の傘に絵をかきますとか、ろうけつ染のスカートを作りますとか言うことになるのよ」
「それじゃ、私がすっかり財産をなくしてしまったら、明日にも絶交する?」
「そうよ、絶交するわ。冗談に言っているんじゃないわよ。とんとん拍子に行っている人が好きなだけの話よ。みんな口に出して言わないだけで、大抵の人はそう考えているのよ。誰それは苦労したら気むずかしくて偏屈になってしまって、とてもつき合って行けないなんて言い方をしてますけどね」
「あなたってあきれた人ね」
「私は世間の人たちと同じようにお金がほしいだけよ」
「私はそうじゃないわ」
「そりゃそうよ。風采のいい中年のアメリカの受託人達が三カ月ごとに大したお手当を送ってよこすんですもの。さもしくなる事ないわ」
「ジャクリーンの事はあなた誤解しているわ。あの人は人を当てになんかしないのよ。何とかしてあげたいと思ってもさせてくれないんですからね。とても自尊心が強いの」
「何だってそんなに急いであなたに会いたがっているんでしょう。きっと何かしてもらいたいのよ。そのうちにわかるわよ」
「何だか興奮してはいるようだったけど」
 とリンネットは言った。
「ジャッキイったら、何かというとカッとなるくせがあって、一度なんか誰かをナイフで刺したことがあったわ」
「まあ、こわい!」
「男の子が犬をいじめていたの。ジャッキイがやめさせようとしたけどきかなかったのね。それでその子を引っぱってゆすぶったのよ。でも男の子がずっと強かったもんだから、あの人、とうとうナイフをとり出して、ぐさりとやってしまったのよ。凄いけんかだったわ」
「凄かったでしょうねえ。とてもいやな気がするわ」
 リンネットの小間使が室へ入ってきた。「すみません」と小声で言ってから、衣装だんすのドレスをとり出して、室を出て行った。
「マリー、どうしたの。泣いてたわ」
 とジョアンナはたずねた。
「あの子ったら、かわいそうに、エジプトで働いている人と結婚したがっていたのよ。そのことお話したことがあるでしょう? 相手のことがよくわかっていないようだったから、大丈夫かどうか確めてやろうと思ったの。そしたら、何と細君持ちだったのよ。おまけに子供が三人」
「あなたはまあ、たくさん敵を作るのね、リンネット」
「敵ですって」
 リンネットは意外だと言わぬばかりの顔をした。
 ジョアンナはうなずいて、タバコを一本とりあげた。
「そうよ。あなたはほんとにやり手だから。それも人の図星を指すのが実に見事なんですもの」
「あら、私には敵なんか一人もいないわ」
 とリンネットは笑った。


……第一章 巻頭より


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