「ナイン・テイラーズ」

ドロシー・セイヤーズ/平井呈一訳

ドットブック版 319KB/テキストファイル 307KB

800円

大晦日の夜、沼沢地方の小さな村に偶然立ち寄ったウィムジー卿は、蔓延する風邪に倒れた男の代わりに年越しの鐘をつく羽目におちいる。春を迎えたその小村に、ソープ家の当主サー・ヘンリーの弔いの鐘(九点鐘)が鳴り響いた。故人の希望により当主は亡妻と同じ墓に葬られることになる。ところが、墓を掘ると土中から無惨に顔を潰され、手首を切り落とされた見知らぬ男の死体が出てきた。死因は不明。老牧師の懇願で、警察署長ブランデルとともに事件の究明に乗り出したウィムジー卿は、ソープ家で過去に起こったエメラルドの首飾り盗難事件にたどりつく。英国が産んだ最高の探偵小説といわれる、セイヤーズ不朽の傑作。

ドロシー・セイヤーズ(1893〜1957)英国を代表する女流ミステリ作家で、黄金時代にはクリスティと人気を二分した。東部イングランドの沼沢地で育ち、オックスフォード大学では中世文学を専攻した。卒業後の数年間はロンドンの広告会社でコピーライターをしていたが、23年に「ピーター卿乗り出す」でミステリ作家としてデビュー。以後、この処女作に登場するピーター・ウィムジー卿を主人公にして、ほとんどの長篇と短篇を書いた。代表作「ナイン・テイラーズ」「毒」「死体を探せ」「大学祭の夜」など。しかし1940年にはミステリから手を引き、ダンテの「神曲」の翻訳に従事したが、「地獄編」「煉獄編」と完成し、「天国編」を途中まで完成した時点で心臓麻痺で死亡した。きわめて優れた、ミステリのアンソロジー編者としても知られている。

立ち読みフロア
第一段 鐘が鳴る

 鐘をあげるに先だち、またはあげる間、手綱は必ずしかと手に握り持つべし。これ初心者のつねに惑(まど)うところなり。手綱にて面(おもて)を打たれ、あるいは首を巻かれ、往々にして首吊るためしもあることなり。
  ――トロアイト『鳴鐘類聚(めいしょうるいじゅう)』

「こりゃあ、おい、ぶっ壊れたぞ!」とピーター・ウィムジー卿はいった。
 自動車(くるま)は、溝の中へ深く鼻づらをつっこみ、土手の上へ後部車輪をだらしなくのり上げ、むざんにも滑稽なざまで、エンコしていた。降りつもった雪の下の巣穴を自分で掘りわけ、必死になって、そこへもぐり込もうとでもしているような格好だった。降りしきる粉雪の中をすかし見ながら、ウィムジー卿は、ようやくのことで事故を起こしたいきさつがわかった。灯火のついていない、盲目の乞食みたいな狭い反(そり)橋が、暗い流れの川に直角にかかり、その橋をだらだらと下りると、そこが溝にそった細い道路になっている。東から吹きつける猛吹雪に、一寸先も見えなかったのと、すこし速力を出しすぎたためとで、橋を渡りきったとたんに、道路をはみでて低い土手を乗りこえ、その下の溝へもろに突っこんだものらしい。土手の下のまっ黒けな茨(いばら)のやぶが、ヘッドライトのギラギラした光芒の中に、寒々と胡散(うさん)くさそうに立ちはだかっていた。
 前後左右、どっちを向いても、ここは沼沢地(フェン)のまんまん中である。大晦日(おおみそか)の午後四時過ぎ。朝から降りやまぬ一面の雪は、鉛のような空に、チカチカした濡れた灰色の光を映していた。
「弱ったなあ、こりゃあ」とウィムジー卿は言った。「バンター、一体どこらへんまで来たんだ?」
 下僕のバンターは、さっそく懐中電灯の光で、地図をしらべだした。
「はあ、私考えますのに、リームホルトの国道はすでに過ぎまして、ただ今、だいたいのところ、フェンチャーチ・セント・ポールの近くにちがいないと存じますが……」
 といってるところへ、おりから降りしきる雪の中を、風にのって、教会の時を告げる鐘の音がいんいんと響いてきた。四時十五分過ぎの時鐘である。
「おい、しめたぞ!」ウィムジーは言った。「教会のあるところなら、ちっとは開(ひら)けているだろう。よし、歩いて行こう。そんなスーツケースなんか、そのままにしておけ。あとでだれかを取りによこせばいいさ。……ブルル、こりゃあ、めっぽう寒いぞ! きっとなんだな、キングズリイ〔十九世紀のイギリスの詩人〕のやつ、ぬくぬくと炉端で暖まりやがって、饅頭(マフィン)でも頬ばりながら、《北風よ吹け》とばかり、ふんぞり返ってるにちがいないぞ。見ろ、こっちはお前、自分が饅頭になりかねない始末だ。なんだな、こんど沼沢地方(フェン)でご招待にあずかるんだったら、せいぜい気をつけて、夏場にするこったな。でなきゃあ、汽車で来るこったよ。……教会は風上(かざかみ)にあるらしいな、どうも。そうだぜ、きっと」
 外套を頭からスッポリかぶり、ふたりは吹きつける風と雪に顔をそむけながら歩いて行った。道の左側には、黒くよどんだ溝川(どぶがわ)が、ほぼまっすぐに走っていた。切り立った土手の下には、執念深いような水がゆっくりと流れている。右手は低い生垣がとぎれとぎれに続き、そのあいだに、ポプラや柳の木立がところどころに立っている。二人は無言のまま歩いて行った。雪がしきりに瞼(まぶた)にぶつかってくる。人っ子ひとり見えない雪道を一マイルばかり来た時、行く手の溝川の土手のかなたに、見上げるような大きな風車がヌッと立っているのが見えた。が、そこへ渡っていく橋もなければ、灯火の影も見えない。
 そこからさらに半マイルほど行くと、やがて道しるべの立っているところへ出た。道はそこから右折している。バンターは懐中電灯で道標を照らし、一方のみを記してある文字を読んだ。――

《フェンチャーチ・セント・ポール道》

 ほかになんの標示もない。道路と溝川は、そこからさらに上(かみ)へと、たがいに肩を寄せあいながら、果てもない雪道のかなたへと没し去っていた。
「とにかく、お目当ては、フェンチャーチ・セント・ポールというわけだな」
 ウィムジーはそういって、道標のさし示す方向へと道をとって行った。おりから、またもや教会の時鐘が、こんどはさっきよりも近くなって、四十五分の時を打つのが聞こえた。
 人家の影もない寂しい雪道を、かれこれ数百ヤードもやってきた時、ふたりはようやく、この荒涼たる四面銀世界のなかに、はじめて人が住んでいる印らしいものを見つけた。道の左手の、すこしひっこんだところに一軒の百姓屋の屋根が見え、右手には煉瓦づくりの、まるで交番みたいな真四角な小さな建物があった。そこの軒先に、風にあおられてガランガラン鳴っている看板は、いわずと知れた居酒屋の印であった。店の前に、一台のシケた自動車が止まっており、階下の、赤いブラインドをおろした窓からは、灯火の影がチラチラ洩れている。
 ウィムジーは門口へ上がって行って、入口の戸をたたいてみた。戸は締まっていたが、錠はおりていない。「どなたかいませんかね?」と大きな声で呼ぶと、奥から中年の女が出てきた。
「まだ店は開けてねえだよ」と女はつっけんどんに言った。
「あの、すみませんがね、車が故障して困ってる者なんだけど、ちょっと中へ入れてくれませんか?」
「アレまあ、それはそれは。わたしゃまた村の衆かと思ったよ。自動車がこわれなすったですかい? それはまあお困りなこんだね。さあさあ、おはいんなせえまし。あいにく、こんなむせえ所でのし――」
「おかみさんや、なんじゃな? なにかあったのかの?」と奥で言った声は、おだやかな、学者めいた声であった。ウィムジーがかみさんのあとについて、小さなパーラーへはいって行くと、声の主(ぬし)というのは、もうだいぶ年配の牧師であった。
「なあにね、この旦那がた、自動車が故障しなすったそうだでね」
「ほう、それはまた――」と牧師は言った。「しかも、この雪にのう。なんぞわしにお力添えがでければよいが……」
 ウィムジーは、車が溝(どぶ)にはまり、車体を道まで引き揚げるのに、綱と人手がいるのだと説明した。
「いや、それはそれは。きっとそれは、フロッグ橋を渡ったとこじゃろうよ。あすこはまことに難所でな。ことに夜がいかん。ところで、さっそく何とかせにゃならんが、ともあれ、ここはわしにひとつ任せてな、おふたりとも村まで来さっしゃるがよい」
「はあ、ご親切さまにどうも」
「なに、それしきのこと。わしも今しがた、そろそろ家に帰ろうかいなと、そう思っとったところじゃ。あなたがたも、なんぞ暖かいものがほしかろう。お見受けするところ、さしてお急ぎでもないご様子じゃから、ま、今夜はな、わしとこへゆるりと泊って行かっしゃるがよいな。な、そうしなされ」
 ウィムジーは大いに感謝したが、でもせっかくのご厚意に甘えて、ご迷惑をかけては相済まぬからというと、牧師はいんぎんに、
「いやいや、こちらはかえって嬉しいくらいのものじゃ。こういう田舎におるとの、とかく話し相手もないによって、家内もわしともども、それこそ願ってもない仕合せじゃてね」
「でも、そうなりますと――」
「いやいや、けっこう、けっこう」
「いえ、そうおっしゃって下さるのはほんとに嬉しいのですが、じつは今晩のうちに車を引き揚げましても、ひょっとすると、車の心棒が曲がっておるかもしれませんので、鍛冶屋のご厄介になりそうなんでしてね。それで、できればですな、宿屋かどこかに部屋がござんせんでしょうか? まことにお恥ずかしい次第なんですが……」
「あんたな、失礼じゃが、そのことはもうお考えにならんといていただこう。なに、ふだんなら、ここのテバットのかみさんが喜んでお泊めして、もてなすところなんじゃが、あいにくとな、ご亭主が流感で寝こんでござるよっての。――いやはや、じっさい今度の流感には、みんなえらい目に会いましたわい。――のう、おかみさんよ、お前のとこも、今夜はちとつごうが悪かろうがの?」
「はい。なんせそういうわけだで、手がまわりかねますでのし。『赤牛屋(レッド・カウ)』には、ひと部屋ぐらいあるだどもよう」
「いやいや」と牧師は口早やに、「あそこも駄目じゃ。ドニントンのかみさんとこは、もう客が泊まっておるじゃて。まあさ、悪いことはいわんよって、わしとこへ来さっしゃれ。部屋はじゅうぶんある。余るほどある。ときに申し遅れたが、わしはヴェナブルズと申して、おわかりじゃろと思うが、当教区の教区長を勤める者でな」

……冒頭より

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