「ノートルダム・ド・パリ(上・下)」

ユゴー作/辻昶・松下和則訳

(上)ドットブック 1193KB/テキスト版 309KB
(下)ドットブック 899KB/テキスト版 222KB


各600円

パリにそびえるゴシック建築のシンボル、ノートル・ダム大聖堂をバックに、ジプシーの踊り子エスメラルダと、醜い鐘つき男カジモドをめぐって繰り広げられる中世歴史ロマン。ロマン派の巨匠ユゴーの代表作。「ノートルダムのせむし男」のオリジナル版。エキスパンドブック版には上に掲げたような19世紀の銅版画を多数(上下で計31点)収録した。

ヴィクトル・ユゴー(1802〜85) アルプスのふもとのブザンソン生まれ。詩人として出発したが、戯曲「エルナニ」で劇壇へ登場し、フランス・ロマン派の旗手となった。31年、長編「ノートルダム・ド・パリ」を発表。政治的には王党派からルイ・フィリップ支持へ移り、二月革命以後は共和派へ変わった。51年のナポレオン三世のクーデターに反対して国外追放となり、以後、第二帝政が崩壊する70年までフランスヘは帰らなかった。「レ・ミゼラブル」を含め「静観詩集」「海に働く人々」などの代表作は、この間に書かれた。帰国後、上院議員に選ばれたが、政治的にはあまり活躍せず、作品を書き続け、72年に発表した「九十三年」が最後の作品となった。

立ち読みフロア
  いまから三四八年六カ月と十九日まえのことだが、パリの市民は中の島(シテ)、大学区(ユニヴェルシテ)、市街区(ヴィル)をとりまく三重の城壁の中で、いっせいにガンガンと鳴りだした全市の鐘の音で夢を破られた。
  だが、一四八二年一月六日というこの日は、何かとくに歴史に残るような事件が起こった日ではない。朝っぱらからパリじゅうの鐘や市民たちの心をこんなぐあいに揺りうごかした事件というのは、べつにたいしたことではなかったのである。ピカルディー人やブールゴーニュ人が押しよせてきたわけでもなく、聖遺物(せいいぶつ)箱の行列がねり歩いたわけでもなく、ラースのブドウ園で学生が騒ぎだしたのでもなく、「まことに恐るべき国王陛下」が入城されたのでもなく、パリ裁判所で男や女の泥棒どもをずらりと並べて絞首台にぶらさげるというふうなことでさえもなかった。十五世紀によくあったように、けばけばしい身なりをし、馬の頭に羽根飾りをつけたどこかの国の使節の一行がだしぬけにやってきたというのでもなかった。こうした種類の騎馬行列はつい二日まえにひとつ来たばかりだ。フランス王太子とフランドルのマルグリット姫との婚礼とり決めの役目をおびたフランドルの使節の一行がパリに入城したのである。
  ブールボン枢機卿(すうききょう)は、やれやれ、やっかいなことだわい、と思いながらも、国王のご機嫌をとりむすぶために、フランドルの市長連からなるこのおのぼりさんの一団をもてなし、ブールボンの自邸で、「教訓劇、茶番、狂言などを存分に催して」彼らを楽しませなければならなかった。しのつく雨で、屋敷の戸口に張られた素晴らしいつづれ織りが、ぐしょぬれになっているというのに。
  一月六日、ジャン・ド・トロワが「パリの全市民が沸きたった日」と言っているこの日は、ずっと昔から御公現の祝日とらんちき祭りとが、ちょうど重なりあうようにできている日だった。
  この日には、グレーヴ広場でかがり火がたかれ、ブラック礼拝堂に五月柱が立てられ、パリ裁判所で聖史劇が上演される。まえの日になると、紫呉絽(むらさきごろ)の美しい陣羽織を着て、胸に大きな白い十字架をつけたパリ奉行(ぶぎょう)どのの役人たちが、辻々でらっぱを吹き鳴らして、祝日を触れまわったものだ。

……《第一編の一 大広間》より


購入手続きへ  (上) (下)


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***