「十月の旅人」

レイ・ブラッドベリ/伊藤典夫訳

ドットブック版 211KB/テキストファイル 110KB

600円

ブラッドベリの習作時代から円熟期にかけての作品のうち、これまで邦訳の短編集には未収録の10編を伊藤典夫氏が選んでまとめた作品集。発表年代は1943年から53年までの10年間にわたる。過去と未来の日々を繊細な感受性と豊穣な幻想のなかに描くファンタジー。

レイ・ブラッドベリ(1920〜2012)アメリカの作家。SF、幻想文学、ホラー、ミステリー、あるいはこれらが渾然と一体をなした多彩な作風で知られる。代表作に『華氏451度』『火星年代記』『たんぽぽのお酒』などがある。

立ち読みフロア
 わたしは、ここ、部屋の中央に横たわっている。わたしは怒ってはいない、苛(いら)だってはいない、気分を害してはいない。そもそも怒ったり苛だったり気分を害したりするためには、人は外からの刺激を神経に受けとめなければならない。神経は一瞬のうちに情報を脳に送る。そして脳は肉体のすべての部分にすばやく命令をはねかえす――怒れ、苛だて、気分を害せ! 睫毛(まつげ)よ、つりあがれ、眼をむきだせ、筋肉を動かせ! 瞳孔よ、ひらけ! 唇よ、まくれあがれ! 耳よ、赤らめ! 眉よ、しわを寄せろ! 心臓よ、高鳴れ! 血よ、わきたて! 苛だて、気分を害せ、怒れ!
 だが、わたしの睫毛はつりあがりはしない。わたしの眼は無彩色の暗い天井をうつろに見上げ、わたしの心臓は冷たく静まり、わたしの唇ははりをなくし、わたしの指から力は抜けている。わたしは怒らない。苛だちも、気分を害しもしない。そうしてよい理由は山ほどあるというのに。
 刑事たちがわたしの屋敷を闊歩してる。部屋をまわっては悪たいをつき、闇のなかでクラクションを鳴らし、露地で酒びんをラッパ飲みしている。記者たちがわたしの弛緩した体にむかってやつぎばやにフラッシュをたく。フラッシュ電球が電気的な粉末となって爆発している。隣人たちがあちこちの窓からのぞきこんでいる。わたしの妻はわたしから眼をそむけて椅子にすわっている。泣いているのではない、喜んでいるのだ。
 ここまで説明すれば、おわかりいただけるだろう。わたしには憤る理由があるのだ。だが、いかに努力しようと、わたしには腹をたてることも、いきまくことも、悪たいをつくこともできない。どこが反応するわけでもない。冷たい無重量感がわたしの全身をおおいつくしているだけ。
 わたしは死んでいるのだ。
 眠るようにここに横たわるわたしにとって、これらの人びとは灰色の夢想の断片にすぎない。くずれゆく屍体に群がる腐肉喰いのように、夜気にただよう熱い血のにおいに鼻をうごめかせる食肉獣のように、彼らはわたしのまわりを動きまわり、わたしの体からしたたりおちる血を飲んで、タブロイド新聞のページに刷りこむのだ。だが肉体から印刷機へと移される過程のどこかで、血は敬虔さの微塵もない黒色に変じてしまう。
 少量の血が、百万の輪転機をうるおす。少量の血が、一千万の印刷機を動かす化学物質となる。少量の血が、三千万の新聞雑誌記者の胸をときめかせるアドレナリンとなる。
 今夜わたしは死んだ。明日の朝わたしは、三千万の頭脳のなかでふたたび死ぬだろう。蜘蛛の巣にかかった蝿のように、たくさんの脚を持つ大衆にカラカラになるまで血をしぼりとられ、やがて新しい見出しに取ってかわられるにちがいない――

 女相続人、英公爵と結婚!
 所得税引きあげは必至!
 炭坑、ストに突入!

 わたしの頭上で輪をえがく禿鷹(はげたか)たち。検死官はなにげない手つきでわたしの臓器を調べ、ハイエナ記者たちは冷たくなったわたしの恋の思い出をほじくりかえしている。またそこにはファウヌスたちがいる、ライオンの人工心臓を持った山羊たちがいる。窓からおそるおそるのぞきこみ、しかし恐怖からは完全に隔離されて、食肉獣たちが部屋のなかを歩きまわり、たてがみに櫛を入れるのを見守っている。
 しかし、そのなかでもっとも抜け目のないのは、わたしの妻だろう。彼女は小柄で、しなやかな、浅黒い豹。椅子の模様が描きだす囲いのなかにおさまり、いかにも心地よさそうに尻尾をふり、体をなめている。
 人間世界をのし歩くライオンさながらに、いまわたしの真上に立ちはだかっている刑事は、分厚い唇をした男だ。万力のような唇に煙のたちのぼる長い葉巻をくわえ、その万力のすきまから琥珀色の歯をちらつかせてものを言う。そして、ときどきわたしの上衣に白い灰をおとすのだ。彼は話してる――
「とにかく彼は死んだ。で、事情をきこうと質問をはじめて、一時間、二時間、三時間、四時間これだけかかって何がわかった? なんにもだ! くそっ、こんなとこに朝までいられるか! おれは女房に殺されちまう! このところ夜中、家にいたことがないんだ。殺しばっかりおこりやがる」


……「灰の怒り」巻頭より

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