「置いてけ堀」―岡本綺堂巷談集

岡本綺堂作

ドットブック版 237KB/テキストファイル 113KB

400円

岡本綺堂といえば「修善寺物語」をはじめとする数々の戯曲と「半七捕物帳」で有名である。この捕物帳は、赤坂に隠居暮らしをおくる元岡っ引の半七老人を、明治期の若い新聞記者が訪れて昔の事件のはなしを聞くという趣向であるが、同じく若い記者が、旧幕時代に大屋さんだった大久保に住む三浦老人から、古い時代の町のうわさばなしを聞くというのが、12編の「三浦老人昔話」としてまとめられた本書である。「置いてけ堀」と「鎧櫃の血」は怪奇・ミステリーものであるが、旗本・御家人と町人が絡む大半の物語の中身は、市井の人間のさまざまな運命・出会いをいきいきと物語る。

岡本綺堂(1872〜1939) 劇作家としては、「修善寺物語」「番町皿屋敷」など、旧来の歌舞伎に近代的な感覚を盛り込んで、新歌舞伎運動を推進したことで知られる。だが、 欧米のミステリーにもあかるく、翻訳を手がけるとともに、日本最初の時代ミステリーといってもよい「半七捕物帳」を書く一方、江戸・明治期の暮らしを活写した多くの「読み物」「エッセイ」でも人気作家となった。

立ち読みフロア

「躑躅(つゝじ)がさいたら又おいでなさい」
 こう云われたのを忘れないで、わたしは四月の末の日曜日に、かさねて三浦老人をたずねると、大久保の停車場のあたりは早いつゝじ見物の人たちで賑っていた。青葉の蔭にあかい提灯や花のれんをかけた休み茶屋が軒をならべて、紅い襷の女中達がしきりに客を呼んでいるのも、その頃の東京郊外の景物の一つであった。暮春から初夏にかけては、大久保の躑躅が最も早く、その次が亀戸(かめいど)の藤、それから堀切(ほりきり)の菖蒲という順番で、そのなかでは大久保が比較的に交通の便利がいゝ方であるので、下町からわざわざ上(のぼ)ってくる見物もなかなか多かった。藤や菖蒲は単にその風趣を賞するだけであったが、躑躅には色々の人形細工がこしらえてあるので、秋の団子坂の菊人形と相対して、夏の大久保は女子供をひき寄せる力があった。
 ふだんは寂しい停車場にも、きょうは十五六台の人車(くるま)が列んでいて、つい眼のさきの躑躅園まで客を送って行こうと、うるさいほどに勧めている。茶屋の姐さんは呼ぶ、車夫(くるまや)は付き纏う、そのそうぞうしい混雑のなかを早々に通りぬけて、つゝじ園のつゞいている小道を途中から横にきれて、おなじみの杉の生垣のまえまで来るあいだに、私はつゝじのかんざしをさしている女たちに幾たびも逢った。
 門をあけて、いつものように格子の口へゆこうとすると、庭の方から声をかけられた。
「どなたです。すぐに庭の方へおまわりください」
「では、御めん下さい」
 わたしは枝折戸をあけて、すぐに庭先の方へまわると、老人は花壇の芍薬の手入れをしているところであった。
「やあ、いらっしゃい」
 袖にまつわる虻(あぶ)を払いながら、老人は縁さきへ引返して、泥だらけの手を手水鉢(ちょうずばち)で洗って、わたしをいつもの八畳の座敷へ通した。老人は自分で起って、忙しそうに茶を淹(い)れたり、菓子を運んで来たりした。それがなんだか気の毒らしくも感じられたので、私はすゝめられた茶をのみながら訊いた。
「きょうはばあやはいないんですか」
「ばあやは出ましたよ。下町にいるわたくしの娘が孫たちをつれて躑躅を見にくるとこのあいだから云っていたのですが、それが今日の日曜にどやどや押掛けて来たもんですから、ばあやが案内役で連れ出して行きましたよ。近所でいながら燈台下暗しで、わたくしは一向不案内ですが、今年も躑躅はなかなか繁昌するそうですね。あなたもこゝへ来がけに御覧になりましたか」
「いゝえ。どこも覗きませんでした」と、わたしは笑いながら答えた。
「まっすぐにこゝへ」と、老人も笑いながらうなずいた。「まあ、まあ、その方がお利口でしょうね。いくら人形がよく出来たところで、躑躅でこしらえた牛若弁慶五条の橋なんぞは、あなた方の御覧になるものじゃありますまいよ。はゝゝゝゝゝ」
「しかし、お客来(きゃくらい)のところへお邪魔をしましては」
「なに、構うものですか」と、老人は打消すように云った。
「決して御遠慮には及びません。あの連中が一軒一軒に口をあいて見物していた日にはどうしても半日仕事ですから、めったに帰ってくる気づかいはありませんよ。わたくし一人が置いてけ堀(ぼり)をくって、退屈しのぎに泥いじりをしているところへ、丁度あなたが来て下すったのですから、まあゆっくりと話して行ってください」
 老人はいつもの通りに元気よく色々のむかし話をはじめた。老人が唯(た)った今、置いてけ堀をくったと云ったのから思い出して、わたしは彼の「置いてけ堀」なるものに就いて質問を出すと、かれは笑いながらこう答えた。

 置いてけ堀といえば、本所七不思議のなかでも、一番有名になっていますが、さてそれが何処だということは確かに判っていないようです。一体、本所の七不思議というのからして、ほんとうには判っていないのです。誰でも知っているのは、置いてけ堀、片葉の芦、一つ提灯、狸ばやし、足洗い屋敷ぐらいのもので、ほかの二つは頗る曖昧です。ある人は津軽家の太鼓、消えずの行燈だとも云いますし、ある書物には津軽家の太鼓を省いて、松浦家の椎の木を入れています。又ある人は足洗い屋敷を省いて、津軽と松浦と消えずの行燈とをかぞえているようです。この七不思議を仕組んだものには「七不思議葛飾譚(かつしかものがたり)」という草双紙がありましたが、それには何々をかぞえてあったか忘れてしまいました。所詮無理に七つの数にあわせたのでしょうから、一つや二つはどうでもいゝので、その曖昧なところが即ち不思議の一つかも知れません。
 そういうわけですから、置いてけ堀だって何処のことだか確かには判らないのです。御承知の通り、本所は堀割の多いところですから、堀と云ったばかりでは高野山で今道心(いまどうしん)をたずねるようなもので、なかなか知れそうもありません。元来この置いてけ堀というにも二様の説があります。その一つは、その辺に悪(わる)旗本の屋敷があって、往来の者をむやみに引摺り込んで《いかさま》博奕をして、身ぐるみ脱いで置いて行かせるので、自然に置いてけ堀という名が出来たというのです。もう一つは、その辺の堀に何か怪しい主(ぬし)が棲んでいて、日の暮れる頃に釣師が獲物の魚をさげて帰ろうとすると、それを置いて行けと呼ぶ声が水のなかで微かにきこえると云うのです。どっちがほんとうか知りませんが、後の怪談の方が広く世間に伝わっていて、わたくし共が子供のときには、本所へ釣に行ってはいけない、置いてけ堀が怖いぞと嚇(おど)かされたものでした。
 その置いてけ堀について、こんなお話があります。嘉永二年酉歳(とりどし)の五月のことでした。本所入江町の鐘撞堂の近辺に阿部久四郎という御家人がありまして、非番の時にはいつでも近所の川や堀へ釣に出る。と云うと、大変に釣道楽のようにもきこえますが、実はそれが一つの内職で、釣って来た鯉や鮒はみんな特約のある魚屋へ売ってやることになっているのです。武士は食わねど高楊枝などと云ったのは昔のことで、小身の御家人たちは何かの内職をしなければ立ち行きませんから、みなそれぞれに内職をしていました。四谷怪談の伊右衛門のように傘を張るのもあれば、花かんざしをこしらえるのもある。刀をとぐのもあれば、楊子を削るのもある。提灯を張るのもある。小鳥を飼うのもあれば、草花を作るのもある。阿部という人が釣に出るのもやはりその内職でしたが、おなじ内職でも刀を磨いたり、魚を釣ったりしているのは、まあ世間体のいゝ方でした。
 五月は例のさみだれが毎日じめじめ降る。それがまた釣師の狙い時ですから、阿部さんはすっかり簑笠のこしらえで、《びく》と釣竿を持って、雨のふるなかを毎日出かけていましたが、今年の夏はどういうものか両国の百本杭(ぐい)には鯉の寄りがわるい。綾瀬の方まで上るのは少し足場が遠いので、このごろは専ら近所の川筋をあさることにしていました。そこで、五月のなかば、何でも十七八日ごろのことだそうです。その日は法恩寺橋から押上(おしあげ)の方へ切れた堀割の川筋へ行って、朝から竿をおろしていると、鯉はめったに当らないが、鰻や鯰(なまず)が面白いように釣れる。内職とは云うものゝ、もともと自分の好きから始めた仕事ですから、阿部さんは我を忘れて釣っているうちに、雨のふる日は早く暮れて、濁った水のうえはだんだんに薄暗くなって来ました。
 今とちがって、その辺は一帯の田や畑で、まばらに人家がみえるだけですから、昼でも随分さびしいところです。まして此頃は雨がふり続くので、日が暮れかゝったら滅多に人通りはありません。阿部さんは絵にかいてある釣師の通りに、大きい川柳をうしろにして、若い芦のしげった中に腰をおろして、糸のさきの見えなくなるまで釣っていましたが、やがて気がつくと、あたりはもう暮れ切っている。まだ残り惜しいがもうこゝらで切上げようかと、水に入れてある《びく》を引きあげると、ずっしりと重い。
 きょうは案外の獲物があったなと思う途端に、どこかで微かな哀れな声がきこえました。
「置いてけえ」
 阿部さんもぎょっとしました。子供のときから本所に育った人ですから、置いてけ堀のことは勿論知っていましたが、今までこゝらの川筋は大抵自分の釣場所にしていても、かつて一度もこんな不思議に出逢ったことは無かったのに、きょう初めてこんな怪しい声を聴いたというのはまったく不思議です。しかし阿部さんは今年二十二の血気ざかりですから、一旦はぎょっとしても、又すぐに笑い出しました。
「はゝ、おれもよっぽど臆病だとみえる」
 平気で《びく》を片付けて、それから釣竿を引きあげると、鈎(はり)にはなにか懸っているらしい。川蝦でもあるかと思って糸を繰りよせてみると、鈎のさきに引っかゝっているのは女の櫛でした。ありふれた三日月型の黄楊(つげ)の櫛ですが、水のなかに漬かっていたにも似合わず、油で気味の悪い程にねばねばしていました。
「あゝ、又か」
 阿部さんは又すこし厭な心持になりました。実をいうと、この櫛は午(ひる)前に一度、ひるすぎに一度、やはり阿部さんの鈎にかゝったので、その都度に川のなかへ投げ込んでしまったのです。それがいよいよ釣仕舞というときになって、又もや三度目で鈎にかゝったので、阿部さんも何だか厭な心持になって、うす暗いなかでその櫛を今更のように透して見ました。油じみた女の櫛、誰でもあんまり好い感じのするものではありません。ことにそれが川のなかから出て来たことを考えると、ますます好い心持はしないわけです。隠亡堀(おんぼうぼり)の直助権兵衛〔「東海道四谷怪談」で、鰻かきの直助権兵衛が掻きあげたべっこうの櫛を、わらで磨く場面〕という形で、阿部さんはその櫛をじっと眺めていると、どこからかお岩の幽霊のような哀れな声が又きこえました。
「置いてけえ」
 今までは知らなかったが、それではこゝが七不思議の置いてけ堀であるのかと、阿部さんは屹(きっ)と眼を据えてそこらを見まわしたが、暗い水の上にはなんにも見えない、細い雨が音もせずにしとしとと降っているばかりです。阿部さんは再び自分の臆病を笑って、これもおれの空耳であろうと思いながら、その櫛を川のなかへ投げ込みました。
「置いていけと云うなら、返してやるぞ」
 釣竿と《びく》を持って、笑いながら行きかけると、どこかで又よぶ声がきこえました。
「置いてけえ」
 それをうしろに聞きながして、阿部さんは平気ですたすた帰りました。


  ……「置いてけ堀」冒頭より


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