シリーズ「鎮魂の戦史」

「沖縄の最後」

古川成美著

ドットブック版 961KB/テキスト版 164KB

500円

長かった太平洋戦争の最後の戦場「沖縄」を私は「身代りの島」とよぶ。日本本土の身代りとなってくれた島だからである。幾十万の住民は、陸海空三面からの戦火にまきこまれたが、男女学生をはじめ、幾万の沖縄県民は終始兵士とともに勇戦して、この国土を死守した。しかもこの「身代り」は、戦後二十有余年を経過したいまも、なお沖縄に課せられている宿命である。…これは1967年、著者の「あとがき」に書かれた文章である。未曽有の悲劇をま のあたりにした一兵士が、戦場に散っていった民間人、将兵あわせて26万の人びとへの墓碑銘として書き下ろした、戦後史にのこるノンフィクション。

古川成美(1916〜)和歌山県生まれ。広島文理大史学科卒業。昭和19年(1944)高射砲大隊兵士として沖縄作戦に従軍、沖縄で終戦をむかえる。「死生の門」他の著作がある。
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運命の兵士

[青い果実]

 青い果実といえば、夏なら青リンゴか青ナシ、そのどちらであったのか、じつはいまもわからない。その正体は不明ながら、確かに青い果実の雨、いや虹というほうが当たっていよう、それを私は見たのである。
 ところは九州、鹿児島湾のほとり、ときは、昭和十九年八月四日のひるさがり、私は日本を離れる出征兵士のひとりとして輸送船那珂川(なかがわ)丸の甲板にいた。船は碇(いかり)をおろしていた。
 甲板には私を押しつぶすように無数の兵士が並び、おそらくは同じ思いで、すがりつくような目で、緑にかすむ鹿児島の町をながめていた。
 海面は凪(な)いで、その静けさにひきこまれるように、兵士は誰もじっとおしだまっていた。
 そのとき、桜島のほうから舷(ふなばた)が海にかくれるほど客を満載した渡し船が近づいてきた。客は学生の一団らしく、白線帽に白い上衣、その日焼けした一人一人の顔もわかるほどになったとき、彼らもまた私たちを、ただごとではない運命の兵士とさとったらしい。
 低い団平船からいっせいに「わあっ」と叫び声があがった。私たちを見あげて、けんめいに手を振り帽子をふる。
 と、そのなかのひとりが、なにか丸いものをつかんで投げた、青い一つの円球は弧線をひいて空に舞いあがり、私たちの目の前にきながら、船にはとどかずして海に落ちた。はっと気づいたように、ほかの学生も身をかがめて手に丸いものをつかみとり、「うおっ、うおっ」と叫びつつ、海にそそりたつ輸送船の甲板めがけて投げつける、たちまち、私たちの甲板と、海面すれすれの団平船との空間は、乱れとぶ丸いつぶてに満たされてしまった。
 つぶては、虹の輪をなして、青くほのかに陽に輝いたが、ついに一つとして私たちの手にはとどかなかった。青く丸いもの、それは桜島を訪ねた学生たちが、みやげに買った果物のようであった。果物は当時貴重な食料であった。
 故国を離れてゆく兵士と知って、「この心とどけ」とばかりかかごの中に一個もあまさず投げてくれた南国の美果は、みな海に落ちた。渡し船はそのまま、遠ざかり、歓声も消えていった。
 青い果実の虹、思えば、私たちは、その果実の一つ一つであった。澄みわたる空に、かわるがわる身を踊らせて、陽に輝くよと見る間に、海に落ちた果実。そのとき、噴煙をあげつつ、赤褐色の粗い山肌を海に映していた桜島のほとり、南に向かう輸送船が三十数隻、那珂川丸はそのうちの一隻として碇をおろしていたのであるが、この船団にむらがり乗っていた幾万の兵士は、そのほとんどがふたたび内地の土を踏むことができなかった。
 そして、どういう運命の糸にあやつられてか、ふしぎにも私は生き残った。
 青い果実の虹に暗示されていた運命をともにたどり斃(たお)れてゆく仲間を次々と見まもることになってしまった私は、仲間にかわり、この特殊な体験を、太平洋戦争のうちで最大の激戦となった戦闘の様相を、遺族の人びとと次代をになう国民になにをおいても語らねばならない。

 私は所謂(いわゆる)「大東亜戦争」のはじまった年、昭和十六年十二月に大学をでた。翌年三月の卒業が、戦争の急迫にともなってくりあげられたわけである。
 十七年二月一日、学徒兵として中部第二四部隊に入営したが、「教育要員」ということで学校勤めにもどされた。それから二年間、私はいまの高校生にあたる青少年の教育に身を打ちこんだ。
 初めての担任生徒は、初恋のひとと同じで忘れがたい。中学四年、五年、と二ヵ年持ち上がり、十八年の春に手塩にかけた生徒たちを卒業させたとき、私は気が抜けてしまって、あとの仕事が手につかなかった。教え子の多くは、陸士、海兵などの軍の学校に進み、少年飛行兵や船舶兵として、学窓からすぐに軍籍にはいるものさえいた。
 それにもかかわらず、「教育要員」とおだてられて銃後の安全な場所に身をおいているのは、たまらなく済まない気持ちであった。
 十八年の春から、私はかつて「青年将校」とあだ名された精悍さを失って、ややしょんぼりとして学校に勤めていた。
 大東亜戦争の戦況が形勢逆転して、悪化の一路をたどりはじめたのも、このころからである。
 この年二月、ガダルカナル島の放棄、五月にはアッツ島の守備隊が玉砕(ぎょくさい)した。十九年七月には太平洋のもっとも重要な基地サイパンを米軍に奪われてしまった。これにより、わが本土は、敵のB-29 爆撃機のためその思いのままの侵入にさらされることになる。
 さすがにその責めはのがれることができず、あれほど強引に国民をひっぱりつづけた東条首相も辞職し、その内閣はつぶれた。大本営が、どう表面をつくろおうとも、国民はもう敗戦を肌で知っていた。そしてそのおおづめが刻々と近づくことに身体の奥底でおびえていた。
 私に「赤紙」がきたのは、その東条内閣総辞職の日であった。その日、まだ十分になれ親しめない新しい生徒たちを連れて、紀州の海岸で海洋訓練にしたがっていた私は、召集令状のきたことを告げられて、深い息を吸った。
「ついにくるものがきた」と思った。
 海から上がるまえに、もう一度、首まで身体を海に沈め、なにも知らずに波にたわむれる生徒たちをゆっくりながめ、同僚にあとを頼んで一人家路についた。はじめて手にした赤紙は、想像していたより色は薄かった。
「七月二十日午前九時、福井県鯖江ノ連隊ニ入隊セヨ」
 教え子を戦場に送って、教壇にとどまるうしろめたさは、これで救われた。しかし、「勇躍して」という気持ちとはおよそ遠かった。戦局の暗さが私の心を重く圧した。
 紀州の村里を発つ日、伝え聞いた教え子と隣人たちは、行列を組んで私を送ってくれたけれども、その列からはもう歌声はわかなかった。日の丸の旗もふられなかった。
 駅を発つまぎわ、「昨日、東条内閣が総辞職をした」と知らされた。
 見送りの人びとの、私を見つめる目は、「気の毒に……」という思いだけを示していた。その夜、福井県武生(たけふ)の宿にとまった。夏の日中を汽車の中に過ごして、宿で飲む水の冷たさは、身にしみとおった。
 翌朝、雨にぬれて鯖江連隊の門をくぐった。アッツ島で玉砕した山崎部隊も、この連隊で構成されたという。入隊はしたが、任務も行き先もまったくわからない。召集兵ばかりではあるが、古兵はなれたもので、隊内を自由に動きまわって情報を集めてくる。
「フィリピンらしいぞ」
「いや、台湾という話だ」
「案外、内地勤務かもしれん。高知県のものが昨日よび集められたそうだ」
 そういう古兵たちの話を耳にしながら、私は兵舎の窓から毎夜南の空をぼんやりながめていた。真南の空には、さそり座のアンターレスがあやしいまでに赤い光をはなっていた。行き先はわからぬながら、支給される兵器装備で、任務のほうはあきらかとなった。
 独立高射砲第八十一大隊、球(たま)一二四二五部隊と隊の名称も決まった。私は高射砲隊、指揮小隊の算定班に入れられた。分隊長は浅野兵長、古兵には名古屋弁を使うものが多かった。
 三日、鯖江の兵舎にいて七月二三日の深夜、営庭に集合、降るような星空の下で、ラッパがむせび、悲愴な出陣式を終えた私たちは、いよいよ隊伍を組んで営門を出た。そとには、夜ふけをいとわず道を埋めるばかりの市民が待っていてくれた。熱誠あふれる歓送であった。「万歳」の声もところどころで起こったが、それは叫ぶよりも祈る響きをもっていた。
 両手を合わせて礼拝する老婆、目を見開いてとび上がる姿勢の青年、黒い夏羽織をつけた肩はばの広い老人、一人一人が懸命になにかを訴え、なにかを告げようとするおももちで、熱狂する群衆とはまったく別の、敬虔(けいけん)そのものの姿をしていた。老人の目にも、青年のひとみにも涙が湛(たたえ)えられていた。
 市民のその胸いっぱいの思いは、私たちの胸にそのまま通じた。
 骨組みの弱い身体にさまざまの装具をつけ、年寄りさえ交えた兵士たちは、さんさんと頬を伝う涙を伝うにまかせつつ、やや前かがみに、もくもくと市民の列の前をすぎた。

[輸送船]

 軍用列車は窓を開けさせなかった。鯖江(さばえ)を深夜に出て、外界と遮断(しゃだん)されたままであるが、どうやら汽車は私のもと来た道を逆に走っているらしい、懐かしかった。琵琶湖(びわこ)を通り、京、大阪を過ぎてゆくらしい。
 軍隊は、もっとも融通のきかぬ世界と思っていたが、あとで聞くと、将校や下士官たちは、ちゃんと家族知人に連絡をしておいて、途中停車時間の長い駅で、こっそり別れを惜しんだ幾幕かがあったようだ。
 こちらは貨車に入れられたウシのようにおとなしく席に着いていると、降りろといわれたところはもう九州の門司であった。紀州の田舎や、北陸の町とちがって、門司は活気あふれる町であった。戦争遂行のための基地としての活気である。至る所で、同胞の祈るような目に見送られ、鎧戸(よろいど)を降ろしたままの汽車で運ばれてきた私たちは、いつしか、「玉砕(ぎょくさい)はわが運命」と思いこんでいたが、門司の町は兵隊があふれ、なにか浮き浮きした気分にはずんでいた。そして、もう関西では流行からはずれた「轟沈(ごうちん)の歌」がここではまだ大っぴらに通用していた。

 轟沈、轟沈、凱歌があがりゃ、
 つもる苦労も、苦労にゃならぬ……

 行く町々で、かすれたレコードがバーやカフェから高くきこえていた。
 戦局が悪化して、轟沈されるのは、こちらの番になっていても、流行の波というのは、動きだすととまらない。池に投げこんだ石がおこす波紋のように、東京ではやり、大阪ではやり、そしていま、九州でこの歌が時代をはずれて歌われている。
 門司にちょうど一週間いた。船に乗ることはわかっていたが、その日がのびのびになった。海上安全の保証がつかめなかったからである。
 私たちの一つさきに出た船団は、奄美大島沖で四十数隻のほとんどをしずめられたという。
 門司駅では、私たちと生死を共にする火砲や弾薬、糧秣を貨車から積みおろし、それをまた一つ一つ埠頭(ふとう)の船に積みこんだ。起重機がたえずうなりつづけたが、仕事のほとんどは統制下にある人力ではたされた。「ピラミッドを造るエジプトの奴隷」それを思いうかべつつも、私は、軍隊特有の統制の成果が、一つの美にまで高められているのを知らされた。
 一般世間では放置されるか、幾日もかかる仕事が、命令一下、みるみるうちにかたづけられてゆく。港湾の荒仕事に身をおきながら、はじめひどく反発を感じた古兵たちの身の処し方に、自分が同化されてゆくのをおぼえた。
 沖仲仕仕事の合間には、「学科」があった。敵の潜水艦攻撃にそなえて、潜望鏡の見つけ方、報告の仕方、船を沈められた時の対処方法などである。
 そんなうっとうしい日課を坂の上の小学校の校庭などでくりかえして、夕方港におりてくる。すると街では、あいも変わらず「轟沈の歌」。まことに妙な気分であった。
 しかし、歌というものは重宝である。こうして、軍人と軍需品とではち切れそうな街で、ずれてはいても威勢のよい歌声を毎日聞かされていると、気が楽になって、「玉砕」の運命もそうわが身にさし迫ったことではないという錯覚にとらわれてしまう。
 いよいよ、明日は乗船ときまった夜、私は意中のひとに最後の便りを書いた。手紙の検問はきびしい。軍隊の行動を書いては没収どころか懲罰に処せられる。それでも、せめて、「行き先は南だ」とだけ知らせたかった。いろいろ考えたが、良心のとがめというのか、まともにそれを知らせることばがない。
 ついに、たとえ検問で一部を墨でぬりつぶされても通ずるように、二人がともに知っている愛誦の詩を葉書にしたためた。

 オリオンは肩にかかりて
 香を焚(た)く南国の夜
 茫(ぼう)として、こは夢ならじ
 パパイアの白き花ぶさ
 はた剣のうつつの冴(さ)えや
 郷愁は烟(けむり)のごとく
 こほろぎに思いを堪(た)えて
 はるかなり、わが指す空は
(大木惇夫)

 八月一日、真昼、四五〇〇トンの輸送船那珂川丸は、私たちを乗せ門司の岸壁をはなれた。海峡の潮流は、三十数隻の大型船にかきわけられて光の水脈(みお)を引き、本土と九州の濃い山の縁がこれを包み、戦時にしてはじめてみることのできる壮麗、豪華な光景であった。
 が、手すりにもたれ感慨にふける自由は、一兵卒にはない。
 船には内地と満州で急に編成された特科部隊が、つめこまれていた。高射砲兵、重砲兵、防疫給水班などそれぞれ車輌、器材を持ちこんで船倉と甲板はいっぱい。結局人間はその積み荷の上以外に身をおくところはない。「船腹の不足」が、もう底をついていたのであろう。

牢獄(ひとや)めく船の底いの
板敷きにござしきなめて
火薬庫のそばに寝(い)ねつつ
冥府(よみ)ならぬ暑さにむせて……

 と戦争勃発当時、輸送船生活の苦しさをある従軍詩人は歌ったが、状態はさらに悪化し、私たちはその地獄苦の船倉にさえはいれなくて、甲板の積荷の上に、拷問を受ける罪人のように露営するのである。
 毛布一枚支給され、漬物(つけもの)大根のようにぎしぎしと身を寄せて寝る。寝心地どころの話ではない。眠れぬままににごって重い頭を起こすと、帆綱がびゅっと風に鳴り、揺れるマストの後方に潮風にけむって黄色く張りついているのは、まさしく北斗七星である。
「やはり、進路は南だ」
 船の鉄板を、どおっ、どおっと怒濤がたたく。この薄い鉄板の下、暗い海の底に、いま、何隻の潜水艦がひそんでいるのか。燈火は管制され、外は完全な闇、奈落に向かってつき進む思いである。
 もちろん、昼も夜も魚雷攻撃にそなえて見張りが立つ。昼はよいが、夜中におこされ、奔馬のように頭をふる船首にしがみつき、黒い波濤が音をたてて流れ去るのを懸命に見つめていると、ふと白くあわだつ潮の一筋が目にからみつく。
「あっ、潜望鏡」
 と思わず叫ぶ。が、それは、おびえた目のまよいにすぎぬ。
 そうと知りつつ、またしても走る白い線に「あっ、潜望鏡」をくりかえす。
 夜明けが待ちどおしい。船はいっさいの燈火を消し、舷側で吸う煙草さえ禁じられ、ただ風と波の音だけの果てしなしの闇を縫う。夜明けは、そのさい心細さからひとときだけ私たちを救いだす。白みゆく海面に数条の煙が流れ、それを追って一つまた一つと僚船の姿を認める。
 たがいの間隔が縮められ、やがてもと通り整然と三十数隻の船団が組まれる。海を占める数量の力がわれわれの心を落ちかせる。しかし、それもつかの間、また不安が形を変えて身にまといつく。
 船団は雷撃よけのジグザグ航行をする。「く」の字方に進路をかえて、のらりくらりと洋上を行く。まことにけだるい航海である。
 私たちは、積み荷の上に張りつけられたかっこうで、ぼんやりなにかを待っている。
「なにか」。いつ、どこへつくのかわからぬまま、いつかはいまの状態から解きはなたれる。この檻(おり)の動物よりも不自然な生活から解放される。その「時」を待っていたのである。
 ふと気がつくと、まえを行く僚船が、その「く」の字形の航跡になにか黄色いものをひいている。一隻に一〇〇〇人、二〇〇〇人の兵士をつめこんで、小さな町くらいの世帯の船からは、当然またおびただしい排泄物が出る。
 貨物船に客が何千人では、その排泄の場所を取りえない。便所はやむなくトリ籠のように船の外側、つまり舷側に海に張り出して釣りさげられる。これにははじめどぎもを抜かれた。まんなかに穴を開けた箱が、ずらりと並んでブランコのようにゆれている。否も応もない。ほかにするところはないから、このブランコの綱につかまって、直接海に落としてしまうほかはない。軍隊のことは、すべて問答無用である。実行させれば、じきなれるという教育法である。どの船もみな両脇にこの空中便所をぶらさげて、その黄色い水脈(みお)を長くひいて蛇行をくりかえす。みつめていると、人間の生の営みが、しみじみとあわれであった。
 宙づりの便所にあらわな身をかがめることにさえ、いつしかなれてゆく自分があわれであった。

……冒頭より


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