「老人と海」

アーネスト・ヘミングウェイ/野崎孝訳

ドットブック版 196KB/テキストファイル 74KB

300円

舞台はキューバの港町とメキシコ湾流の広大な海、84日間も魚を釣り上げることができなかったサンチャゴ老人は、いままた使い慣れた舟の帆を張り、ひとり外海へと出かけてゆく。目指すは《まかじき》だ。…ついに大物がかかる、二日にわたる死闘のあと、老人はとうとう「わしの大きな魚」を引き寄せ、その姿を目にする。ヘミングウェイの代表作。

アーネスト・ヘミングウェイ(1899〜1961)  イリノイ州生まれのアメリカの作家。第一次大戦後、新聞記者としてパリに行き、パウンド、スタインなどとの交流のなかから『日はまた昇る』を完成、一躍「失われた世代」の代表作家となった。独特の簡潔な文体は、文学界のみならず、人々のライフスタイルに大きな影響を与えた。釣と狩猟を愛したことでも知られる。  

立ち読みフロア

 

 彼はメキシコ湾流に独り小舟を浮かべて魚を獲(と)る年老いた漁師であるが、一匹も釣(つ)れない日が今日で八十四日も続いていた。最初の四十日は一人の少年がいっしょだった。しかし、四十日たって一匹も獲れないのを知った少年の両親は、老人もとうとう完全なサラオになってしまったのだと言ってきかせた。サラオとはスペイン語で運に見放された最悪の状態をいう。
 それで少年は、両親の言い付けに従って別の舟に乗ったのだが、最初の一週間で立派な魚を三匹も獲った。老人が来る日も来る日も空(から)の小舟を操って戻(もど)って来るのを見るのが少年にはつらかった。その度に少年は手をかしに水際まで下りて行って、捲(ま)き束ねた釣綱(つりづな)や、箝(やす)に銛(もり)、それから帆柱に捲きつけた帆などを運ぶ手伝いをした。帆にはあちこちに粉の袋の継ぎが当っていて、これを帆柱に捲きつけたところは、永遠の敗北を象徴する旗印のように見えた。
 老人は痩(や)せこけていて、項(うなじ)には深い皺(しわ)が刻まれている。頬(ほお)には、熱帯の海の太陽の照り返しが原因の、皮膚癌(ひふがん)にも似た褐色(かっしょく)の斑点(しみ)ができていて、それが顔の両側にかなり下の方まで点々と連なっていた。両の手には、釣綱にかかった大魚を操ったときの、深くえぐられた傷の跡が残っている。しかし、新しいのは一つもない。みんな、魚などには縁のない砂漠(さばく)でみかける浸蝕作用の跡のような、古い傷跡ばかりであった。
 彼はどこもかしこも年寄りじみていたけれど、ただ眼(め)だけは別で、それは海と同じ色を湛(たた)え、明るくて、不屈の光を放っていた。
「サンチャゴ」少年は小舟を引き上げた波打際の斜面を登りながら老人に話しかけた「またいっしょに行っちゃ駄目(だめ)かなあ。お金はもう稼(かせ)いだんだ」
 少年に漁を教えたのはこの老人であった。そして少年は老人を慕っていた。
「駄目だ」老人は言った「おまえの舟には運がついている。あの仲間を離れちゃいかん」
「でも覚えてるだろう? 八十七日も不漁が続いた後で、今度は三週間もの間、毎日、でかい奴(やつ)を何匹も釣ったことがあったじゃないか」
「覚えてる」老人は言った「おまえが離れて行ったのはおれを疑ったからじゃないことぐらい分ってるよ」
「離したのは父さんなんだ。ぼくは子供だから、言うことをきかなくちゃいけないんだ」
「そうだとも」老人は言った「それがあたりまえだ」
「父さんには信念がないんだよね」
「うん」老人は言った「しかし、おれたちにはそれがある。そうだろ?」
「ああ」少年は言った「テラス軒でビールをおごらせてくれないかな? 道具はその後で運ぶことにして」
「いいとも」と老人は言った「おたがい漁師同士の仲じゃないか」
 二人はテラス軒に腰を下ろした。漁師たちの中には老人を笑い物にする者が少なくなかったが、老人は怒らなかった。ほかに、年嵩(としかさ)の漁師の中には、老人を見て気の毒に思う者もあった。しかし彼らは、そんな気配は色にも出さず、もっぱら潮流の具合だとか、綱を下ろした水位のこととか、このところ続いている上天気の話とか、その他彼らが目にしたいろいろなものを話題にして、つつましく語り合うばかりだった。その日上首尾だった漁師たちはとっくに戻っていて、釣り上げた《まかじき》の処理も終り、二枚の厚板いっぱいに拡(ひろ)げたその身(み)を一枚ずつ、二人の男が板の端を持って、よろめきながら倉庫へ運んで行った。ハヴァナの市場まで運ぶ冷蔵トラックが来るのをそこで待つのである。鮫(さめ)を獲(と)った連中も、獲物はすでに、入江の対岸にある鮫工場へ運びこんであった。そこで滑車装置を使って吊(つ)り上げて、肝臓を取り除き、鰭(ひれ)を切り落し、皮を剥(は)いだ末に、肉は細長く切って塩漬(しおづ)けにする。
 風が東から吹くときには、この鮫工場の臭(にお)いが港を越えてここまでも流れて来るのだが、今日は風が北に廻(まわ)り、それもやがては止んだので、臭いはかすかにそれと感じられる程度、テラス軒には明るく陽(ひ)が当って心地よかった。
「サンチャゴ」少年は老人の名を呼んだ。
「うん?」老人は応(こた)えた。しかし彼は、グラスを手にしたまま、遠い昔のことを考えていた。
「ぼく、明日のための鰯(いわし)を獲りに行ってもいいだろう?」
「いや。野球でもやりに行きな。おれはまだ漕(こ)げるし、投網(とあみ)はロヘリヨが打ってくれるさ」
「でもぼく、行きたいんだよ。おじいさんといっしょに漁ができないんだもの、何かで役に立ちたいんだ」
「ビールをおごってくれたじゃないか」老人は言った「おまえはもう一人前の大人だよ」
「一番最初にぼくを漁につれてってくれたのはいくつのとき?」
「五つのときだ。釣り上げた魚の威勢がよすぎて、おまえはあわや殺されそうになった。舟まで木端微塵(こっぱみじん)に砕きかねない奴だったからな。覚えてるかね?」
「うん、尻尾(しっぽ)をばたばたいわせて叩(たた)いてさ、舟の横木が折れちまったよね。棍棒(こんぼう)で魚をぶん撲(なぐ)った音もすごかったな。おじいさんはぼくを舳(へさき)の濡(ぬ)れた巻綱(まきづな)の上へぶっ飛ばしたじゃないか。舟全体がぶるぶる震えるみたいでさ、まるで木を伐(き)り倒すみたいにしておじいさんが棍棒で魚の奴をぶん撲ったあの音。そこら中に甘い血の臭いが立ちこめていたよね」
「それはおまえ、本当に覚えてるのかな? おれの話を覚えてるんじゃないのかい?」
「ぼく、みんな覚えてるよ、最初に連れてってもらったときのことからずっと」
 老人は陽焼(ひや)けした顔を向けて、頼母(たのも)しげにまたいとしげに少年を見つめた。

……冒頭より


購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***