「スペイドという男」

ダシール・ハメット/田中西二郎他訳

ドットブック版 180KB/テキストファイル 141KB

500円

「マルタの鷹」で颯爽と登場したサム・スペイドを主人公にすえた短編「スペイドという男」と、コンティネンタル探偵社の名なしの探偵「私」(コンティネンタル・オプ)が活躍する「クッフィニャル島の夜襲」「つるつるの指」「誰でも彼でも」「暗闇の黒帽子」「フェアウェルの殺人」の5編を収めたハメット短編集。

ダシール・ハメット(1894〜1961) 13歳で学校を離れ多くの下積みの職を転々としたあと、サンフランシスコのピンカートン探偵社にはいる。その経験をいかしてパルプ・マガジンに次々と短編を発表、「赤い収穫」「デイン家の呪い」でデビューし、「マルタの鷹」で最高のハードボイルド探偵小説作家としての地位を不動のものにした。

立ち読みフロア

 サミュェル・スペイドは電話器を横へおしやって、腕時計を見た。まだ四時にはちょっと間がある。彼は表の事務室にむかって、「おおい、お嬢さん!」と呼んだ。
 エフィー・ペラインが、チョコレートケーキを食べながら、はいってきた。
「シド・ワイズに知らせてくれ、きょうの午後の約束は守れないって」
 女秘書は食べ残りのケーキを口へおしこんで、人差し指と親指の腹をなめた。「それ、今週、三度目よ」
 笑うと、この男の顎(あご)と口と眉毛と、三つのVの字が、たてに長くのびる。「わかってる、しかしおれはこれから出かけて、人間ひとりの生命(いのち)を助けなきゃならない」電話の方へ顎をしゃくってみせて、「マックス・ブリスを脅迫しているやつがあるんだ」
 エフィーは笑った。「たぶんミスター・コンシェンス(良心)って名の男でしょう」
 うつむいて煙草を巻きかけていた彼は、顔をあげて彼女の顔を見た。「マックスについて、なにか参考になることを知ってるのかい?」
「あなたのご存じないことなんか、なにも知らないわ。あたしちょっと、あのブリスって男が弟をサン・クェンティン監獄へゆかせたときのことを考えていたの」
 スペイドは肩をすくめた。「あれは、あの男のやったことのなかでは、まだましな方さ」巻煙草に火をつけ、立って、帽子に手をのばした。「しかし、いまのところ、あの男は大丈夫だよ。サミュエル・スペイド事務所の依頼者は、みんな正直な、神をおそれる市民ばかりさ。ひけ時までにおれが帰らなかったら、帰っていいぜ」
 彼はノップ・ヒルにある高層のアパートメント・ビルディングへ行って10Kという番号札のドアの枠(わく)にとりつけてあるボタンをおした。ドアはすぐにあいて、皺(しわ)だらけな黒っぽい服を着た、強そうな、色の黒い男が顔を出した。頭はあらかた禿げていて、片手にグレーのソフトを持っている。
 その強そうな男は「やあ、サム、こんにちは」と言って、にやりと笑ったが、その小さな眼からは余分の鋭さが消えただけだった。「こんなところで何してるんだね?」
 スペイドは「こんにちは、トム」と言った。彼の顔は木彫りの面のようで、声も無表情だ。「ブリスはいるかい?」
「いるとも!」トムは唇の厚い両の口元をギュウと引き下げた。「そのことならきみが心配せんでもいいよ」
 スペイドは眉を寄せた。「ふうん、それで?」
 一人の男がホールにあらわれて、トムの後ろに立った。背丈はスペイドよりもトムよりも低いが、ガッシリした体格の男だ。角ばった赤ら顔で、短く刈りこんだ半白の口髭を生やしている。身なりもこざっぱりしている。黒の山高帽を、あみだにかぶっていた。
 スペイドはトムの肩ごしに、この男に話しかけた。
「やあこんにちは、ダンディ」
 ダンディは軽くうなずいて、ドアのところへきた。青い目がけわしく、さぐるように光っている。
「なんだ?」彼はトムにきいた。
「ブ、リ、スだよ、マッ、ク、スさ」スペイドは辛抱して、ゆっくり言った。「会いたいんだよ。むこうでおれに会いたがってるんだよ。わかったかい?」
 トムは笑った。ダンディは笑わなかった。トムが言った、「二人で会いたがったって、望みがかなうのは一人だけだ」そして、横目でダンディのほうを見て、だしぬけに笑いをやめた。面白くなさそうな顔をした。
 スペイドは顔をしかめた。「わかったよ」いらいらして、彼は言った、「ブリスは死んだのかい、それとも誰かを殺したのかい?」
 ダンディは角ばった顔をスペイドの前へ突き出して、下唇から言葉をおし出すように言った。「何で、そのどっちかだと思ったんだね?」
 スペイドが言った、「あたりまえじゃないか! おれがブリス氏を訪問して、警察の殺人犯課からきたお二人さんにドアのところで止められたんだ、それを、ただのラミイ博奕(ばくち)の邪魔をしてるだけだと、おれに考えろっていうのか?」
「おいおい、もうよせ、サム」スペイドからもダンディからも顔をそむけて、トムが不機嫌に言った。「死んだんだよ」
「殺されたのか?」
 トムはゆっくりと頭を上下に動かした。いま彼はスペイドの顔を見ていた。「いったいなんだと思って、きたんだ?」
 スペイドはわざと落ちついた調子で答えた、「マックスから今日の午後、電話がかかってきて――そうさな、四時五分前だった――電話が切れて、おれが時計を見たら、まだ一分か二分前だったよ――誰かつけねらってるやつがいる。おれにきてもらいたいというんだ。当人にとっては、ただごとではなさそうだった――いまにもやられそうだったんだ」彼は片手でちょっと頸(くび)をしめる真似をしてみせた。「とにかくそれでここへきたわけさ」

……「スペイドという男」冒頭

購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***