「オリエント急行殺人事件」

アガサ・クリスティ/古賀照一訳

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500円

深夜に雪で立ち往生したオリエント急行の寝台車内で、アメリカの老人ラチェットが殺害された。たまたま乗り合わせたポワロはいち早く事件を知らされる。どう考えても乗り合わせた12人の乗客以外には犯人はありえなかった。一人また一人としらみつぶしに状況を聞く調査がはじまる。だが、それぞれの乗客のアリバイは完璧だった。外の世界と断絶した緊迫した状況の中、矛盾する刺し傷とともにポワロの灰色の脳細胞は悩みに悩む。クリスティの代表作。

アガサ・クリスティ(1890〜1976)「ミステリの女王」の名を冠されたイギリスを代表するミステリ作家。ベルギー生まれの名探偵エルキュール・ポアロの登場する「 スタイルズ荘の怪事件」でデビュー。「ABC殺人事件」「三幕の殺人」「ハーゼルムアの殺人」など、ポアロもののほか、田舎住まいの詮索好きなおばあちゃんミス・マープルが登場するシリーズなど、膨大な作品を残した。

立ち読みフロア
  シリアの冬の朝五時であった。首都アレッポのプラットホームに、「タウルス急行」と鉄道案内に示されている列車が停車(とま)っていた。食堂車一輛(りょう)、寝台車一輛、客車二輛の編成である。
 その寝台車に通じるステップのそばで、一人の目もあやな制服姿の若いフランス陸軍中尉が、赤い鼻の頭とピンと上にカールした髯の両端だけをのぞかせて、あとは耳の上までマフラーでおおった小柄な男と話していた。
 凍付(いてつ)くような寒さだ。こんな時の、名士のお見送りは、ぞっとしない仕事だったが、デュボス中尉は男々(おお)しくつとめを果していた。優雅な言葉が、彼の唇から、洗練されたフランス語でもれてくる。彼も何が起こったのか、全然事情に通じないわけではない。もちろん、こうした場合の常で、いろいろ噂(うわさ)が流れているのだ。彼の将軍の機嫌が日増しに悪くなっていた。そんな時、このベルギー人がやって来た。英国からはるばるやって来たとのことである。それからの一週間は、奇妙に緊張した一週間だった。そのあと、いろいろのことが起こった。非常に有名な将校が一人自殺し、もう一人が退官した。突然、不安が解消し、警戒態勢が解除された。将軍は急に十年も若返ったように見えた。
 デュボス中尉は、将軍とこのベルギー人との会話をもれ聞いたことがあった。「あなたはわれわれを救ってくださったのだ」と将軍は感動して、白い大きな髯(ひげ)をふるわせながら言った。「あなたはフランス陸軍の名誉を救ってくださったのです。――あなたは流血の大事件を未然に防いでくださったのです! 私の願いを聞いてくださって、お礼の申し上げようもありません。それにわざわざ遠くから来てくだすって――」
 こう言われて、この異国人(その名をエルキュール・ポワロという)は「いや、私こそ昔、あなたに生命を救われたことを忘れることができません」という言葉をいれて、礼儀正しい挨拶(あいさつ)を返した。すると将軍は、これに対して、過去のあの事件は何も自分の功績ではないと挨拶を返し、さらに、フランスだとか、ベルギーだとか、光栄だとか、名誉だとか、そんなことを口にし、そして二人は互いに心から抱擁し合い、その会話を終えたのだった。
 デュボス中尉には、いったい何の事なのか依然として不明だった。ただ、タウルス急行で帰国するポワロ氏をお見送りする任務をおおせつかり、前途有望な若い士官にふさわしい熱意と情熱をもって、この任務を果しているまでのことだった。
「今日は日曜ですから」とデュボス中尉は言った。「明月曜の夕刻にはイスタンブールにお着きになれます」
 彼はもう何度もこのことを口にしていた。発車まぎわのプラットホームでの会話は、とかく同じせりふ(・・・)の繰り返しになり勝ちなものだ。
「そうですね」とポワロ氏が言った。
「そちらには、数日ご滞在のご予定でございますか?」
「ええ、そのつもりです。まだ一度も行ったことのない町なので、素通りするのは残念ですからね」ポワロはパチッと指を鳴らして答えた。「急ぎの用はないし――二、三日、観光客として滞在しますかな」
「聖ソフィア寺院はたいへん立派でございます」デュボス中尉はそう言ったが、実は彼はまだ見たことがなかったのだ。
 冷たい風がプラットホームを吹き抜けていった。二人は身震いした。デュボス中尉は、内緒でチラッと腕時計を見た。五時五分前――もう五分ぽっちだ!
 だが、彼は時計を見たことを相手に気付かれたような気がして、またあわてて話し出した。
「この季節には、旅行者はたいへん少なくなりますね」と彼は寝台車の窓を見上げて、言った。
「そうですね」とポワロ氏はあいづちをうった。
「タウルス山中で、雪にとじ込められるようなことが起こらないといいのですが」
「そんなことが起こるんですか?」
「ええ、起こりましたとも。今年はまだですが」
「そんなことにならないようにしたいものですな。ヨーロッパ方面の天気予報はよくないようだが」とポワロが言った。
「たいへん、悪いようです。バルカン方面は大雪だそうです」
「ドイツもそうらしいですな」
「でも」とデュボス中尉は、ことばが途切れそうになったので、急いで、「明晩には、七時四十分にコンスタンチノープルにお着きになれます」と言った。
「そうでしたな」とポワロは、その場しのぎに、口から出まかせに言った。「聖ソフィア寺院は、たいへんすばらしいそうですね」
「素晴らしいものだと思います」
 そのとき、ふたりの頭の上で、寝台車のブラインドがあき、若い女が外をのぞいた。
 メアリー・デベナム嬢は、先週の木曜日にバグダードを出発してから、わずかしか眠っていなかった。キルクークまでの汽車の中でも、モズールの宿でも、また昨日の夜汽車の中でも、ほとんど眠っていなかった。しかも今、寝室の暖房が熱すぎて眠ることができず、横になっているのにあきて、起き上がり、外をのぞいたのだ。
 ここはアレッポにちがいないわ。でも、もちろん、見るものなんてないにきまってるけど。うす暗い、長いプラットホームがあるきりだ。どこからかアラビア語でののしり合う声が聞こえてきている。窓の真下では、二人の男が、フランス語で話し合っている。一人はフランスの士官で、もう一人は大きな口髯をはやした小柄な男だ。彼女は思わず、ほほえんだ。こんなにしっかりと、厚いマフラーで顔を包んだ人は見たことがないわ。きっと外はひどい寒さに違いない。だから、汽車の暖房が、こんなにひどく熱いんだわ。彼女は窓を少し開けようとした。だが、ぴくりとも動かない。
 寝台車つきの車掌が、二人の男のところへやって来た。もう発車ですから、ご乗車下さいと注意した。すると小柄の男は、ちょっと帽子をとった。卵みたいに丸い頭だこと! メアリー・デベナム嬢は、心配ごとも忘れて、クスリと笑った。なんて面白い顔をした小男だこと。誰だってこの人を見たら笑っちゃうわ。
 デュボス中尉が別れの挨拶をした。前もって準備し、最後の瞬間までしまっておいたのだ。たいへん美しく、ねりにねった言葉だ。
 ポワロも負けずに美しい言葉で挨拶を返した。
「ご乗車ねがいます」と車掌がいった。
 ポワロはいかにも残念そうな様子で乗車した。そのあとにつづいて車掌も乗りこんだ。ポワロ氏は手を振った。デュボス中尉は敬礼した。汽車は、ガチャンと一揺れして、ゆっくり動き出した。
「やれやれ!」とエルキュール・ポワロ氏はつぶやいた。
「ブルルルル……」デュボス中尉は、急に寒さが身にしみてきた。……

「どうぞこちらへ」と車掌は芝居じみた身振りで、ポワロの荷物のきちんと整理された、きれいな寝室を指さした。
「お荷物はここに置いてございます」
 車掌の差し出した手はいかにも思わせぶりだった。エルキュール・ポワロはその中に小さく折りたたんだ札(さつ)を握らせた。
「ありがとうございます」車掌は、とたんにきびきびして、てきぱきと、「お客さまの御乗車券は私がお持ちしております。パスポートもどうぞ。お客さまはイスタンブールで下車なさるのでございますね?」
 ポワロはうなずいた。
「旅行客は多くないんだろうね?」
「はい、他にお二人だけでございます。――お二人ともイギリスの方で、お一人はインドからおいでの陸軍大佐、もう一人は、バグダードからいらしたお若いご婦人でございます。――ほかにご用はございませんでしょうか?」
 ポワロはペリー酒の小瓶を一本注文した。
 朝の五時に汽車に乗るなんて、全く不便なものだ。夜明けまでにまだ二時間もある。ポワロ氏は、昨夜ほとんど眠っていなかったし、むずかしい仕事を立派に果した安心感も手伝って、座席の隅に丸まって、眠りこんでしまった。
 目が覚めた時は、九時半だった。彼は熱いコーヒーを飲もうと思って、食堂車へ出かけていった。
 その時、食堂の客は一人きりだった。明らかに、さっき車掌から教わったあの若いイギリス婦人にちがいない。彼女はすらりと背が高く、黒い髪をして――おそらく二十八歳位かと思われる。食事をする様子や、コーヒーのお代りをする態度には、一種てきぱきした敏捷(びんしょう)さがあった。世間や旅行について豊かな知識を積み重ねている様子だ。汽車の中のこの熱さに適した、薄い黒の旅行服を着ているのだ。
 エルキュール・ポワロは、たいくつまぎれに、気づかれないように、そっと彼女を観察しはじめた。
 年こそ若いが、どこへ出ても、ちゃんとやっていける、節度を心得た才知ある女性にちがいない。目鼻立ちのととのった顔や、繊細で青白い皮膚の色も気に入った。きちんとウェーヴした艶のある黒い髪や、涼しい、個性的でない灰色の目も好ましかった。――だが、彼女は、いささかしっかり者すぎて、俺(おれ)のいう「可愛い女」ではないな、とポワロは判断した。
 しばらくして、別のお客が食堂へ入って来た。背の高い、四十代のやせぎすの男で、陽やけした顔のこめかみあたりに白髪が見えた。
「インドから来た陸軍大佐だな」とポワロは思った。
 男は若い女に軽く会釈(えしゃく)した。
「お早う、デベナムさん」
「お早うございます。アーバスノット大佐」
 大佐は立ったままで、若い女と向かい合った椅子に手をかけて、
「よろしいですか?」ときいた。
「どうぞ、おかけになって」
「じゃあ――長話で朝食のお邪魔はいたしませんから」
「はあ、どうぞ。私も長話にはお相手いたしませんから」
 大佐はその席に腰をおろした。
「ボーイ」と横柄(おうへい)な口調で呼んだ。
 彼は卵とコーヒーを注文した。
 彼は、ちょっとエルキュール・ポワロの方を見たが、すぐ関心のない様子で目をそらせてしまった。イギリス人の心の中を正確に読みとれるポワロには、大佐が「なんだ、外国人か」と思ったのが、分った。
 二人は、いかにもイギリス人らしく、ほとんどしゃべらなかった。ほんの二言三言、言葉を交わすと、やがて若い女は席を立ち、自分の部屋へ戻っていった。
 お昼にも、この二人はまた同じテーブルに坐って、ポワロを全く無視した。朝食の時よりは、二人の会話ははずみ、アーバスノット大佐はインドのパンジャプ地方の話をしたり、また時々、相手にバグダードのことを尋ねたりした。彼女がそこで家庭教師をしていたことが、それでポワロに判った。話しているうちに、二人は、いくたりかの共通の友人のあることを発見して、急に親しくなり、へだてがとれた。二人はトミーなんとかという老人やジェリーなんとかいう人物のことを語り合った。それから、大佐は、彼女に、まっすぐイギリスへお帰りなのか、あるいはイスタンブールで途中下車なさるのかと尋ねた。
「わたくしは、まっすぐ帰りますの」
「それは少し心残りじゃありません?」
「二年前この線を通った時、三日ばかりイスタンブールに滞在したことがありますものですから」
「ああ! なるほど。実は、まっすぐお帰りのほうがうれしいです。僕もそうなので……」
 と大佐はちょっと赤くなって、ぎこちなくおじぎのような恰好をした。
「大将、ちょっと変だぞ」ポワロは少しずつ興味をいだき始めた。「船旅と同じで、汽車の旅にも危険はあるもんだな」
 デベナム嬢は、それは結構ですこと、と平静に答えた。その態度には、自制の色が見えた。
 それから、大佐が彼女を寝室へ送っていくのを、エルキュール・ポワロは見送った。折りしも列車は、タウルス山脈の雄壮な風景の中に突き進んでいく。二人は肩を並べて通路に立ち、シリア峡谷を見おろしていた。とつぜん、若い女の口からため息がもれた。そのそば近くにきていたポワロの耳に、女の低いつぶやきが聞こえた。
「ああ、何て美しい! もしも――もしも――」
「何です?」
「もしもこれが、心から楽しめる身の上でしたら!」
 アーバスノットは答えなかった。彼の角ばった顎(あご)の線がちょっと厳しく、怒りを含んだように見えた。
「だから、あなたはこんなことに係り合いにならなきゃよかったんですよ」と彼はいった。
「シッ! お願い、黙って」
「ああ! 大丈夫ですよ」大佐は一瞬どぎまぎした視線を、ポワロへ投げかけてきた。それからまたつづけた。「しかし、僕は、あなたが家庭教師をしているのが好きじゃない――暴君のような母親や、うんざりする餓鬼(がき)どものことを考えると」
 彼女は、ほんのわずか晴れやかなひびきをたてて笑った。
「そんなふうにお考えになってはいけませんわ。虐待された家庭教師という神話は、もう大昔に打ち破られた神話です。子供の親のほうが、わたくしにいじめられやしないかと心配しているくらいですのよ」
 二人はそれ以上口をきかなかった。アーバスノット大佐は、感情を色に出したことを恥かしく思ったのだろう。
「どうやら、俺がここで観(み)ているのは、どうも奇妙な小喜劇のようだな」と何かを考えながらポワロはつぶやいた。
 このことは、実はあとになってから、思いあたる種となるのである。

……第一部冒頭

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