「オルヌカン城の謎」

ルブラン/大友徳明訳

ドットブック版 235KB/テキストファイル 222KB

500円

新婚のポールとエリザベートは、独仏国境ちかくに建つ、エリザベートの父の館(オルヌカン城)へと旅する。だが、館の中の閉ざされた一室で見せられたエリザベートの母の肖像は、忘れもしないポールの父親を殺した女の肖像ではないか! 苦悩にさいなまれるポールはエリザベートと別れ、おりしも勃発した第一次大戦の戦場へ。だが運命は再びポールを謎を秘めたオルヌカン城へと導く。謎のHERMの文字、ヘルマン参謀なる奇怪な人物、囚われのエリザベート、戦場を舞台にくりひろげられる冒険活劇。作者ルブランはルパンも登場させて、読者サービスも忘れない。
立ち読みフロア
「ぼくは、かつて、フランスの領土内で、彼と面と向き合ったことがあるんだ!」
 エリザベートは新妻のやさしさのこもった表情を浮かべて、そう話しかけてきたポール・デルローズをながめた。新婚の女性にとっては、自分の愛する夫のどのような言葉も、驚嘆の的になるのである。
「フランスの国内でドイツ皇帝のヴィルヘルム二世に会ったというの?」
「この目で見たんだ。あの出会いのときの状況は何ひとつとして忘れることができない。でもずいぶん昔のことだよ……」
 ポールは突然重々しい口調になった。そのときのことを思い起こすと、このうえなく心が痛むとでもいうように。
 エリザベートがいった。
「そのときのことを話して、ポール、いいでしょう?」
「いまに話してやるよ。なにしろ、ぼくは当時まだほんの子供だったけれど、その出来事はぼくの人生そのものにじつに悲劇的なかかわり合いをもつことになったものだから、そのときの経緯《いきさつ》をことこまかに打ち明けずにはいられない気持ちなんだ」
 ふたりは駅に降り立った。列車はコルヴィニーの駅に停まっていた。ここはローカル線の終着駅であるが、この支線は県庁所在地の町から始まって、リズロンの渓谷《けいこく》に達し、国境まであと六里という地点にある、ロレーヌ地方のこの小さな町の麓《ふもと》で終わっている。ヴォーバン〔フランスの軍事技術者、建築家〕は、この町に「想像され得るもっとも完全な半月堡《はんげつほう》」をめぐらせた、とその『回想録』のなかで語っている。
 駅はひじょうな混雑をていしていた。たくさんの兵士と多数の将校の姿が見られた。大勢の旅行者、一般市民の家族、農民、労働者、コルヴィニー近在の鉱泉場の湯治客たちが、プラットホームの、山とつんだ荷物のあいだで、県庁所在地へ向かう次の列車の出発を待っていた。
 その日は七月最後の木曜日、動員令が出される前の木曜日だった〔第一次世界大戦勃発の一九一四年七月のこと〕。
 エリザベートは心配そうに夫に身を寄せた。
「ああ! ポール」彼女は身をふるわせながらいった。「戦争にならないといいんだけれど……」
「戦争だって! 妙なことを考えるね!」
「でも、この人たちはみな逃げ出しているのよ。家族そろって国境から遠ざかろうとしているんだわ……」
「そんなことは戦争が起こる証拠にならないさ……」
「ええ、でもあなたは、さっき新聞で読んだでしょう。ニュースはひどく険悪《けんあく》だわ。ドイツは戦闘準備をしているのよ。すべて用意を整えたんだわ……ああ、ポール、私たちが別れ別れに暮らすようなことになったら……そしてあなたの消息が途絶《とだ》えるようなことになれば……それにあなたが負傷でもしたら……それから……」
 ポールはエリザベートの手を握りしめた。
「心配しなくともいいよ、エリザベート。そんなことは何ひとつ起こりはしない。戦争が勃発《ぼっぱつ》するには、誰かが宣戦布告をしなければならないんだ。ところで、あえてそんな憎むべき決定をくだすような、気違いや卑劣な罪人がどこにいるというんだい?」
「わたしは心配していないわ。それに、あなたが出発することになっても、きっと気持ちをしっかり持っていられると思う。でも……ただ、そういうことになったら、ほかの多くの人たちよりも、わたしたちのほうがつらいという気がするの。だって、そうでしょう? わたしたちは今朝、結婚したばかりなんですもの」
 きょうすませたばかりのこの結婚、いつまでもつづく深い喜びをこれほどまでに約束してくれるこの結婚のことを思い起こすと、エリザベートは、光線のような金色の巻き毛のために明るく輝いた、美しいブロンドの顔に、夫を完全に信頼する微笑みをすでに浮かべて、こうささやいた。
「今朝結婚したところなのよ、ポール。だから、わかるでしょう、このしあわせな気持ちをいつまでも持ちつづけていきたいの」
 群衆の中にざわめきが起こった。みんなは駅の周辺に群がっていた。ひとりの将軍がふたりの佐官を従え、一台の自動車の待つ駅の広場に向かって歩いていった。軍楽隊の演奏が聞こえた。駅前の大通りを猟歩兵の一大群がとおった。それから、砲兵隊に先導されて、十六頭の馬の一軍が巨大な大砲を曳《ひ》いていった。大砲の形は、どっしりとした砲架《ほうか》をつけているにもかかわらず、砲身がきわめて長いためにスマートに見えた。さらに牛の一群がそれにつづいた。
 赤帽が見あたらなかったので、ポールがふたつの旅行鞄《かばん》を手にしたまま歩道に立っていると、革のゲートルを巻き、緑色をした厚手のコールテンのズボンをはいて、角製《つのせい》のボタンつきの、猟用の上着を着込んだひとりの男がポールに近づき、鳥打ち帽をとりながらいった。
「ポール・デルローズさんでしょう? わたしは城の番人をしているものです……」
 男は精力的で実直そうな顔つきをし、皮膚は日光と寒さのためにこわばり、髪はすでに半白《はんぱく》だった。まったく気ままな地位におかれた年寄りの使用人に見受けられる、あの少しつっけんどんなようすをしている。十七年前からこの男は、エリザベートの父であるダンドヴィル伯爵《はくしゃく》のために、コルヴィニーの上手《かみて》にあるオルヌカンの広大な領地に住み、これを管理していた。
「ああ、きみがジェロームか」ポールは叫んだ。「よく迎えに来てくれたね。ダンドヴィル伯爵から手紙を受けとったわけだね。僕たちの召使いは城についたかい?」
「三人とも今朝つきました。旦那《だんな》様と奥様をお迎えするために、さっそく三人とも、家内とわたしの手伝いをして、城の中を少し片づけてくれました」
 ジェロームはあらためて、エリザベートに挨拶した。彼女はいった。
「するとわたしのことをおぼえているのね、ジェローム? ここに来たのはずっと以前のことなのに」
「エリザベートお嬢様が四歳のときでした。家内もわたしも、お嬢様が……それに伯爵様も、お亡くなりになったかわいそうな奥様のせいで、城におもどりにならないと知ったときは、深く悲しみましたよ。やはり伯爵様は、今年もこちらにお越しになるようなことはないのでしょうか?」
「そうだよ、ジェローム、こちらに見えることはないだろう。多くの歳月が流れたけれども、伯爵はいまでもひどく悲しんでいるからね」
 ジェロームは旅行鞄を手にとり、コルヴィニーで雇った四輪馬車にそれを積み、ふたりを先に出発させることにした。大きな荷物については、彼が農場の二輪馬車で運ぶことになった。
 天気は晴れていた。四輪馬車の幌《ほろ》が外された。
 ポールと彼の妻が乗りこんだ。
「道程《みりのり》はそれほど遠くありません」城の番人がいった。「四里ほどです……でも登りですよ」
「城はだいたい住めるようになっているのかね?」ポールがたずねた。
「もちろんです! いままでひとの住んでいた城と同じというわけにはいきませんが、それでもとにかく、ごらんになってください。やれるだけのことはしました。家内も、旦那様と奥様がお見えになるというのでとても喜んでいます! ……おふたりを玄関の階段の下でお迎えするはずです。おふたりが六時半か七時にはお着きになるだろうといつけておきましたから……」
「善良そうな男だね」馬車が出ると、ポールはエリザベートにいった。「でも話をする機会があまりないらしいな。いままでの埋め合わせにしゃべっている……」
 道は、コルヴィニーの丘を急傾斜でかけ登り、町の中心部にはいると、商店や公共建造物やホテルなどが両側にたちならぶメーン・ストリートと合流した。この日、そこはふだん見られぬ混雑ぶりをていしていた。道はそれからふたたび下りになり、ヴォーバンが築いた稜堡《りょうほう》をめぐるように走っていた。そしてそのあとプチ・ジョナスとグラン・ジョナスというふたつの要塞《ようさい》が左右にそびえる平野部を横切って、道はなだらかな起伏をみせながらつづいた。
 カラスムギ畑やコムギ畑のあいだをうねるように進み、頭上にドームをつくっているポプラ並木の陰の下につづく、この曲がりくねった道に馬車を走らせながら、ポール・デルローズがエリザベートに約束しておいた少年時代の出来事に話をもどした。
「さっきもいったように、エリザベート、この出来事は恐ろしい悲劇に関係があるんだ。それもごく密接な関係があるので、ぼくの思い出の中では悲劇とひとつになっている。いや、ひとつにならざるを得ないんだ。この悲劇は当時たいへんな話題にのぼったし、きみのお父さんは、きみも知っているように、ぼくの父の友達だったから、新聞でその事件を知ったというわけだ。きみのお父さんがきみになにも話をしなかったのは、ぼくがそのようにお願いしたからだよ。それにぼくは、自分の口からきみにその顛末《てんまつ》を話したかったんだ……ぼくにとってはとてもつらいこの事件の顛末をね」

……「一 犯罪が行なわれた」より

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