「オセロー」

シェイクスピア作/大山俊一訳

エキスパンドブック 554KB/ドットブック版 142KB/テキストファイル 102KB

400円

ヴェネチア陸軍に仕えるムーア人の将官オセローは、最愛の妻デズデモーナを伴ってキプロス島派遣軍司令官となってトルコとの戦いに出立する。だが、オセローが全面的に信をおく副官・旗手の野心家イァーゴーは部隊長のキャッシオーを失脚させ、ひいてはオセローをも破滅させようともくろんでいた。デズデモーナに対するオセローの盲目的な愛は、イァーゴーの画策に格好の手がかりをあたえた。
立ち読みフロア
【エミーリア】 旦那様は嫉妬深くはございませんか?
【デズデモーナ】 誰? 主人? そんな気持はあの人が生まれた所のお日様が、
みんな吸い取ってしまったらしいのよ。
〔オセロー登場〕
【エミーリア】 あら、旦那様がいらっしゃいました。
【デズデモーナ】 もうあの人の所を離れないわ、キャッシオーが
呼び戻されるまでは。あなた、ご機嫌いかが?
【オセロー】 いいよデズデモーナ。(傍白)おお知らぬふりをする難(むずか)しさ!
君はどうだ、デズデモーナ?
【デズデモーナ】 いいですわ、あなた。
【オセロー】 手を貸してごらん。これは湿ってるね。
【デズデモーナ】 まだ年もとっていませんし、悲しみも知りませんもの。
【オセロー】 これは実り豊かで、寛大な心をあらわしている。
熱い、熱い、そして湿っている。君のこの手は
自由からの隔離(かくり)、断食(だんじき)と祈祷(きとう)、
厳しい修行と敬謙な礼拝を必要としているという手だ。
それ、若い、汗だくの悪魔がここにいるからな、
よく謀叛(むほん)を起こすやつだ。これは実にいい手だ、
気前がいい手だ。
【デズデモーナ】 ほんと、そうおっしゃってもいいわ、
だって、わたしの心をさし上げたのはこの手ですもの。
【オセロー】 気が大きい手! 昔は心があって手をさし出したものだ。
ところが今の新しい流儀は手だけで、心は無い。
【デズデモーナ】 何のことをおっしゃってるのかしら。それより、例のお約束!
【オセロー】 何の約束かねお前?
【デズデモーナ】 わたしキャッシオーにここへ来るように使いを出しましたの。
【オセロー】 わしは悪い風邪をひいて鼻水が出て困っている。
お前のハンカチを貸してくれ。
【デズデモーナ】 さあ、どうぞ。
【オセロー】 わしがやったのをだ。
【デズデモーナ】 いま持っておりませんわ。
【オセロー】 持っていない?
【デズデモーナ】 ほんとうに持っていません。
【オセロー】 そりゃあいかん。
あのハンカチは、
さるエジプト女がわしの母親にくれたものだ。
その女は魔法使いで、人の心はたいていは読みとれた。
それがお袋(ふくろ)に言った、そのハンカチを身につけているあいだは、
お袋には魅力があって、親父(おやじ)の愛情を完全に
自分に惹(ひ)きつけておくことができる。だがもしそれを失くしたり、
あるいは人にやったりすると、親父の目は
お袋をうとましいものと見るようになり、親父の心は
新しい愛人を漁(あさ)るのだと。お袋は亡くなるとき、それをわしにくれた。
そしてわしが妻を娶(めと)るような巡り合わせになったときには、
それを妻にやれと言った。わしはそうした。だからくれぐれも注意して欲しい、
君のその大事な目と同じに、それを大切なものとして欲しいのだ。
それを亡くしたり、人にやったりすることはまさに身の破滅、
とりかえしのつくことではない。
【デズデモーナ】 そんなことってありますかしら?
【オセロー】 事実だ。あの布には魔法がかかっているのだ。
織ったのはさる巫女(みこ)……太陽が年ごとの軌道をめぐること二百度(たび)、
その年月をこの世の中で数え重ねたその巫女(みこ)が、
精霊乗り移り予言の力を身に受けて、それを織り上げた。
その絹を吐いた蚕(かいこ)の虫は清められて神に捧げられたものだ。
その糸を、熟達した秘法の名手が、乙女の心臓から絞った
魔の体液で染め上げたのだ。
【デズデモーナ】 まあ! ほんとうにそうなのでしょうか?
【オセロー】 正真正銘の事実だ。だからよく注意して欲しいのだ。
【デズデモーナ】 それならそのようなもの、いっそもらわなければよかった!
【オセロー】 何だと! どうしてだ?
【デズデモーナ】 どうしてそのようにぶっきらぼうに、急(せ)いておっしゃいますの?
【オセロー】 失くしたのか? もう無いのか、さあ言え、見失ってしまったのか?
【デズデモーナ】 神様、どうすればよいのでしょう!
【オセロー】 何と言った?
【デズデモーナ】 失くしはしません。
でも失くしたって別に……
【オセロー】 どうだというんだ?
【デズデモーナ】 失くしはしないと言ってるのです。
【オセロー】 じゃ取って来い、見せろ。
【デズデモーナ】 そりゃ見せられますわ。でも今は駄目です。
こんなふうにして、実はわたしのお願いをはぐらかすおつもりなんでしょう。
お願いです、キャッシオーをもう一度受け入れてあげてください。
【オセロー】 あのハンカチを取ってこい! 俺(おれ)は不安になってきた。
【デズデモーナ】 ねえ、あなたったら!
あんな立派な方は、またといるものではありません。
【オセロー】 あのハンカチだ!
【デズデモーナ】 お願い、キャッシオーのことをおっしゃって!
【オセロー】 あのハンカチだ!
【デズデモーナ】 あの方は一生涯あなたのためを思い、
それにすべてを賭(か)けて一すじに生きてきた方です、
いつもあなたと苦楽を共にして来た……
【オセロー】 あのハンカチだ!
【デズデモーナ】 ほんとうにあなたって悪い人。
【オセロー】 おのれ畜生!〔退場〕

……第三幕第三場より


購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***