「男の切れ味」(上)

小堺昭三著

ドットブック版 95KB/テキストファイル 51KB

300円

先の見えない時代に、男はいつ、どこで、どんな形で、自分の「切れ味」を発揮すればいいのか。時代と四つに組んだ稀代の切れ者たちの生きざまを描いたノンフィクション。副題「男論…先見力・着眼力・行動力の研究」。昭和を駆け抜けた作家、小堺昭三が、本巻では、坂本龍馬、三井の三野村利左衛門伊藤博文の3人を切る!

小堺昭三(1927〜95) 福岡県大牟田市生まれ。株式新聞社に勤めたあと、火野葦平に師事して作家をめざす。1961年に「基地」が芥川賞候補作に、同年「自分の中の他人」が直木賞候補にもなった。梶山季之の推薦で「週刊文春」のルポライターに転進。以後取材記者としての経験を生かしたノンフィクション小説に取り組む。 代表作は「けむりの牙」「西武VS東急戦国史」「明治の怪物経営者たち」「カメラマンの昭和史」など。

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坂本龍馬
……歴史を変える底力と世界を相手に事業する発想力をもったケタ違いの男

「とろこい」男

 土佐男には「いごっそう」、土佐女には「はちきん」が多い。「いごっそう」は異骨相と書き、反骨精神があって損得を抜きにして我を通す男のこと。「はちきん」は気性がはげしいが男には献身的で、よく働くし生活力も旺盛な女性たちを指しており、「はち」とは女の生理を意味する地方もある。
 それに南国だから男も女も血の気が多く、激しやすく反権力志向もつよい。のちに板垣退助や中江兆民が自由民権運動を起こして明治政府を批判し、幸徳秋水が無政府主義者となっていったのも反権力志向のあらわれであろう。個性的な宰相になった浜口雄幸と吉田茂もこの地の出身だ。
 土佐藩は、武士であっても身分差別が徹底していた。もともと豊臣秀吉に仕えた長宗我部(ちょうそかべ)家の所領だったが、関ヶ原の合戦で徳川家康に弓をひいたがために追放になり、山内一豊が六万石の遠州掛川より移封され、土佐二十四万石の大名に昇格したのである。
 そのときからサラリーマン士族にも差別がつけられ、長宗我部家は大企業の山内家に吸収合併された弱体企業みたいなもの。長宗我部系である土着の郷士(ごうし)たちは、山内家の家臣よりも軽んじられ、いくら有能かつ勇敢であっても、すべて平社員なみの下士および足軽にとどめおかれた。出世の道は閉ざされてしまい、禄高も低いため、着ているものも粗末で、生活は質素をきわめざるを得ない。
 対照的に、掛川よりついてきた家臣らは総じて管理職クラスの上士であり、どしどし出世してゆくし、街なかで無礼なる郷士を斬りすて御免にするも自由であった。また郷士たちは高知城への登城が許されず、城内へゆけるのは年に一度、正月元旦に藩主のご機嫌を伺うときだけとされてきた。食えない郷士たちは、その郷士株を裕福な町人に売却、さらに身分が低い地下(じげ)浪人になりさがってゆくしかない。
 こうした過酷な差別に代々、三百年近く耐えぬいてきた郷士・地下浪人階級の憤懣(ふんまん)とか劣等感とかが、風雲急をつげる幕末になって一挙に噴出した。ときの藩主は十五代目、たいへんな酒豪の山内豊信(とよしげ)(容堂)である。
 坂本家の先祖は、太郎五郎という農民だった。関西から流れてきて土佐国長岡郡殖田(うえだ)郷才谷(さいたに)村に住みついた、ということしかわかっていない。勤勉な一族だったらしく五代目が高知城下へ出てきて、「才谷屋」なる酒屋をオープンしている。そして、六代目が郷士株を買って帯刀できる身分になれた。さらに郷士としては三代目の坂本八平の次男として龍馬は、天保の大飢饉があった前年の、天保六年(一八三五)十一月に生まれている。
 いずれも「はちきん」である三人の姉がいて、彼女たちに可愛がられた少年時代の龍馬は、甘ったれの泣き虫で活発なところがなく、夜中に寝小便ばかりしていたとの記録がある。こういう愚鈍なのは「とろこい」と呼ばれ、おやじの八平は顔をしかめ、天を仰いで嘆いていたそうだ。
 十二歳にして母幸(こう)を失っている。十四歳になって小栗流の日根野弁治(べんじ)道場に入門、このころから「とろこい」龍馬が「そそくりもの」に変わってきた。ひょうきん者のことであり、剣士として一家を成すより、商人に近い天賦(てんぷ)があったようにもみえる。


……「坂本竜馬」冒頭より

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