「音なし源捕物帳」(巻一)

笹沢左保作

ドットブック 201KB/テキストファイル 79KB

300円

主人公の源太は両国の元町の居酒屋「春駒」の美貌の女将お小夜の情夫(いろ)である。図体ばかり大きくて、ドジで間抜けのうえに、着物の左袖を肩口のところで結んでいるという左腕の無い男であり、しかも顔一面、濃い無精髭(ひげ)におおわれている。これが源太の第一の顔。第二の顔として本所深川一帯を縄張りにしている岡っ引の回向院の文次郎の「下っ引」をひそかに務めている、そして第三の顔が、颯爽たる男前の左右両腕利きの《音なし源》なのだ…冴えわたるプロットと小気味よい殺陣で読ませる笹沢左保ならではのエンターテイメント。本巻には「光る闇」「夜桜の涙」「暗夜の花道」「鶴の八番」「《さ》の字殺し」の5編を収めた。

笹沢左保(ささざわ さほ、1930〜2002)東京生まれ、横浜で育つ。郵政省東京地方簡易保険局に勤務のかたわらミステリーを執筆、60年、初長篇『招かれざる客』で作家デビュー。61年『人喰い』で日本探偵作家クラブ賞を受賞、以後本格ミステリーの傑作・佳作を続々発表し、「新本格派の旗手」と謳われた。70年には、新・股旅小説と銘打たれた『木枯し紋次郎』シリーズで一大ブームを巻き起こし、多くの時代小説も著した。きわめて多作でありながら、つねに意欲的な試みを繰りかえし、生涯その人気は衰えることがなかった。

立ち読みフロア

 穏やかな正月だった。
 晴天が続き、風もそれほど強くない。寒さは厳しかったが、明るい日射しが終日降り注いでいた。霜どけの道も、すぐに乾いた。松が取れてからも連日、雲一つない青空を見せていた。
 江戸の人々は、穏やかな正月気分をたっぷりと、味わったはずであった。あまり正月が楽しくなかったのは、江戸で浅草の人々だけだったと言えるだろう。浅草では前年の文政二年の十二月二十五日に火事があり、大勢の人たちが焼け出されているからである。
 羽根つきの音も、聞かなくなった。獅子(しし)舞いも、姿を消した。まだ青空に凧(たこ)が浮かんでいるのは、子どもたちが正月気分の名残りを捨てきれずにいるからだった。
 江戸の人々の、新しい年の生活が始まっていた。働くと同時に、遊ぶことも忘れない。正月の松の内はひっそりとしていた盛り場も、俄然いつものように賑わい始めた。
 この文化・文政の時代で、江戸随一の盛り場はというと、それは両国であった。両国には江戸中の娯楽施設が、すべて集まっていた。誰もが両国へ足を向けた。
 隅田川に架かる橋を、この時代では四大橋と呼んでいた。永代(えいたい)橋、大橋、両国橋、それに吾妻(あずま)橋である。このうち本普請の橋は両国橋だけで、あとの三大橋はすべて仮普請の橋であった。
 元禄(げんろく)十六年の大火のとき、無数の避難者が橋を渡りきれずに死傷した。その教訓から幕府では、両国橋と大橋の間の川沿いに大幅な防火線を設けた。
 この隅田川沿いの幅広い空地が、大川端と呼ばれたところである。その後、両国橋の手前にも、火除地(ひよけち)が作られた。それが両国広小路であった。
 火の延焼を食いとめるための火除地だから、両国広小路に建築物を置くことは許されなかった。見世物小屋の仮設なども昼間だけであって、夜になればいちいち取り払わなければならない。
 せっかく、盛り場になった両国広小路だが、これは不便で仕方がない。それではというので、向(むこう)両国へ河岸を変えることになった。川向こうの両国である。
 つまり本所側へ、両国橋を渡った川向こうの両国だった。そこが回向院(えこういん)を中心として、江戸いちばんの盛り場両国へと発展したのであった。
 飲食店、見世物などが集まり娯楽の場所、歓楽街として凄まじいほどの繁盛ぶり、賑わいを見せていたという。
 その両国の元町の居酒屋『春駒(はるこま)』が、また評判の繁盛ぶりだったのである。もともと、凄まじいほどの盛り場という場所柄だから、客集めには不自由しなかった。
 それに加えて『春駒』には、評判になるようなタネが幾つもあったのだ。まず、感じのいい店である。ほかの飲み屋に比べて、二割は値段が安い。
 客ダネがばらばらで、あらゆる層の連中が飲みに来るから、かえって気楽に利用できる。そして女将(おかみ)のお小夜(さよ)が、江戸小町などと言われるほどの器量よしだったのである。
『春駒』は、縄暖簾(なわのれん)をくぐって薄暗い土間の席につく、といった類いの居酒屋ではなかった。間口が五間、九メートル以上ある店だから、かなり広かった。
 入口には、水色に白く馬を染め抜いた飾り暖簾が、掛けてあった。店の中は明るくて、小綺麗で粋な造りだった。正面に町火消し五番組『や組』の、矢じりに駒形の纏(まとい)が据えてある。飾り物であった。
 銘酒屋のように、いかがわしい酌女(しゃくおんな)は置いてない。二人の板前とお燗(かん)番の爺さん、ほかに五人ほどの若くて陽気な給仕女がいる。客に愛嬌を振りまくのは、もっぱら女将のお小夜であった。
 お小夜は二十七、脂の乗りきった女盛りである。もう一、二年もすれば、大年増と言われる年ごろだった。見れば見るほど、いい女という評判であった。
 確かに江戸広しといえども、めったにお目にかかれはしない美人である。粋で鉄火肌で、愛嬌があった。しかも、熟れきった身体(からだ)からは、匂(にお)うような色気を放っている。
 お小夜を目当てに来る客も、少なくはなかった。お小夜の形のいい尻に触れたり、煽情的な腰つきを掌で確かめたりする者もいた。だが、『春駒』の常連たちは、色気抜きでお小夜に接している。
 お小夜の美貌を肴(さかな)に、飲むだけで満足しているのだ。むしろ、お小夜の気性が好きで、常連になっている客が多かった。それにもう一つ、お小夜には男がいるということがあったからである。
 その男、源太という。
 お小夜と祝言を挙げたとは聞いていないので、夫婦でないことは確かであった。情夫(いろ)ということになる。いつの間にかお小夜の情夫になって、『春駒』に住みついたという男であった。
「お小夜さんにも、ああいう酔狂なところがあったんだなあ」
「まったくだ。お小夜ほどの女が、もったいねえみてえな話よ」
「人は好きずきと言うが、男と女ってえのはわからねえもんさ」
「お小夜さんほどの女なら、もっと色男で頼もしくって金もあるって野郎を、選(よ)り取(ど)り見取りじゃねえかい」
「どうして、あんな男がいいんだろう」
「蓼(たで)食う虫も、好きずきか」
「無類の床上手(とこじょうず)なんじゃあねえのかい」
「うん。野郎のお道具が、素晴らしく立派なのかもしれねえ」
「女の弱みは、そこにあるからなあ」
「夜、お床入りしてからの源太に、お小夜は惚れきっているんだろうよ。きっと……」
 最初のうち『春駒』の客たちは、岡焼き半分にしきりとそんな話題に花を咲かせたものであった。だが、そんなふうに言いたくなるのも、無理はなかったのだ。
 源太は二十九だという。図体ばかり大きくて、ドジで間抜けという感じであった。一見遊び人ふうだが、気の利いたことができるような男ではなかった。
 月代(さかやき)を伸ばしているうえに、ひどく無精(ぶしょう)ったらしいのである。顔一面に、濃い無精髭(ひげ)を伸ばし放題なのだ。いつも、デレッとした着流し姿でいる。
 着物の左袖を、肩口のところで結んでしまっていた。左腕が肩の付け根から、そっくりなくなっているのである。それで邪魔な左袖を、結んでいるのだった。
 片腕の源さんなどと、呼ばれていた。定職は、持っていない。一応、『春駒』の亭主ということになっている。その亭主が一日中、店で飲んでいるのである。
『春駒』で、客の相手をするのは、お小夜だけであった。それでは退屈する客もいるだろうと、源太はみずから話し相手を買って出ているのだった。
 つまり一日中、源太は店で客を相手に、飲んでいるのである。源太は気がいい男だし、相応の愛嬌もあって、話題が豊富であった。色気抜きの客たちにとっては結構、楽しくて面白い酒の相手になるのだった。
 べつに客の酒を、飲むわけではなかった。源太専用の朱色の銚子(ちょうし)があって、それを絶えず給仕女が運んで来る。銚子の中身は、客には出さない地酒だということだった。
 身体が大きいせいか、源太は酒が強かった。一日中飲んでいても、乱れるほどには酔わなかった。声は小さいし、終日店にいても目立たない源太であった。
 まあ、毒にも薬にもならない男だった。それでいて、酒の肴(さかな)にもなるし、退屈凌(しの)ぎには恰好(かっこう)の話し相手である。それに気がいいから、人に憎まれることがない。
 お小夜の情夫と知って岡焼き半分に反感を持つ男たちも、源太と話をしているうちに何となく心安い仲になる。気楽な飲み友だち、ということになるのだった。
 しかし、繁盛している『春駒』だけに、店での揉(も)め事は、どうにも避けられなかった。江戸いちばんの盛り場両国には、いろいろな人種が集まって来る。
 それに、酒がはいるのである。客同士の喧嘩(けんか)だと、表へ出ろということになる。だが、店の者に文句をつけての揉め事となると、そうはいかなかった。
 文政三年の一月十四日にも、『春駒』ではそうした騒ぎがあった。時刻は、間もなく暮れ六ッだった。両国界隈(かいわい)の飲食店の賑わいは、そのピークにさしかかっていた。
『春駒』の店内も、ほぼ満員であった。その店内のざわめきを打ち消すように、突然けたたましい音が響き渡った。広い店内が、シーンと静まり返った。
 中央の土間に、福寿草(ふくじゅそう)の鉢が叩(たた)きつけられたのである。砕けた鉢と、黄色い福寿草と泥が、土間に飛び散っていた。纏の脇(わき)の棚に、飾ってあった福寿草の鉢だった。
「ふざけるんじゃねえ」
 静寂を破って、途方もなく大きい罵声が、店の中央で聞こえた。
 いきり立つ男は、三人であった。いずれも人相のよろしくない連中で、無法者という看板をかけているような男たちだった。あまり、見かけない顔である。
 腕まくりをして衿元(えりもと)を広げ、彫り物や白い晒(さらし)を見せつけている。かなり酔っているようだが、足腰はしっかりしていた。徒党を組んでの、ならず者であった。
……「光る闇」冒頭

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