「音なし源捕物帳」(巻三)

笹沢左保作

ドットブック 211KB/テキストファイル 78KB

300円

 文政三年も、十月の末となった。
 現行暦だと、十一月の下旬である。蛇は冬眠にはいり、山茶花(さざんか)や寒菊が咲き、芝生が完全に枯れる季節であった。初冬から仲冬へ、近づく頃だった。
 江戸の名物でもある空っ風が、三日に一度は吹き荒れる。この時期の空っ風を、木枯しという。江戸の木枯しは、短時間に狂ったように吹くのであった。大江戸の人家の屋根を叩き、軒を煽って、路上を吹き抜ける。砂塵が舞い上がり、紙屑が競い合うように地上を滑ってゆく。看板が揺れて、木戸が忙しく開閉する。必ずどこからか、バタンバタンという音が聞えて来るものだった。…「木枯しの辻」冒頭

本巻には「賭けた浪人」「霜柱は笑う」「木枯しの辻」「湯治場の女」「凍った三日月」の5編を収めた。

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 女の惨殺死体であった。
 隅田川の土手下に、その死骸は転がっていた。竹町(たけちょう)之渡しと御厩(おうまや)河岸之渡しの中間あたりで、川向こうは浅草諏訪町であった。土手下の空地に、死骸は仰向けになって横たわっていた。
 枯れ草もなく、地面は一面が霜柱でささくれている。夜明けとともに、その死骸は発見された。たちまち数十人の野次馬が集まったが、霜柱を踏んで空地へはいり込もうとする者はいなかった。
 何も現場を荒すまいと、町奉行所の同心に協力しているわけではない。目をそむけたくなるような惨殺死体だと、遠くから見ても察しがついたためである。
 興味はあっても、死骸を近くからじっくり見るという勇気はない。誰もが、恐ろしいと思っている。それで野次馬は、眉をひそめて遠巻きにしているのだった。
 間もなく、三人の手先を従えて岡っ引が到着した。本所・深川という広い縄張りを持つ回向院の文次郎、密かにゲジゲシの文次郎と囁かれている嫌われ者の岡っ引である。
「どけどけ!」
「見世物じゃあねえんだ、間抜けめ!」
 二人の手先が、野次馬を怒鳴りつける。慌てて、野次馬たちが道をあける。そこを回向院の文次郎が、売り物の不機嫌そうな顔で通り抜けるのであった。
 股引に半纏、黒足袋に雪駄ばきである。でっぷりとした肥満体だが、それを寒そうに小さくしていた。十手を帯の前に差したままでいるのも、触れると冷たいからなのであった。鼻が赤くなり、吐き出す息は白かった。
 三人の手先を連れた文次郎が、初めて霜柱を踏み砕いて足跡を残した。町奉行所の同心は、姿を見せなかった。定(じょう)回り同心でも、常に待機しているわけではない。一定の時刻に各町の自身番を、何か異変はないかと回って歩く。それが定回り同心で、事件発生とうまくかち合わない限り、すぐには飛んで来ないものだった。
 夜が明けて間もない時刻に、定回り同心が巡回に来たりはしない。検死はもっと遅くなって、巡回に来た同心が死骸を運んだ自身番で行うことになる。
 いまは一切が、岡っ引に任されている。文政三年の十月末で、もう寒菊を見ることもなかった。初冬であったが寒気厳しく、毎朝の霜柱が珍しくなくなっていた。
「げ……」
 手先のひとりが、嘔吐感を催して慌てて死骸に背を向けた。あとの二人の手先も、青くなった顔をしかめていた。さすがに文次郎は、渋面を作っただけだった。
「ひでえ仏さんだ」
 文次郎は死骸の脇に、しゃがみ込みながら呟いた。二十一、二の年増であった。水商売の女と一目でわかるほど、垢抜けした美人である。粋な装(な)りをしているし、眉毛も剃り落していた。
 草履が脱げて、散らばっている。暴れたらしく、着物が乱れていた。衿(えり)が押し広げられていて、右の乳房がこぼれ出ている。小さな乳首の色がないのが、何とも無気味に感じられた。左の乳房は、なくなっていた。削ぎ落したというよりも、心の臓を突き刺して左の乳房をそっくり抉(えぐ)り取ったのである。ザクロのように弾(はじ)けた肉が血で固まり、白く肋骨が見えていた。
 ほかに右の袖と袂が、血の池にでも浸けたみたいになっている。右腕を、切断されているのだった。肩の付け根より十センチほど下のところで、右腕をそっくり斬り落したのであった。
 着物の裾が、特にひどく乱れていた。腰巻も赤い蹴出しも、左右にはねのけられている。白足袋をはいた脚が、腿の付け根から露(あら)わにされているのだった。
 剥き出しになった太腿の間を、文次郎は覗き込んだ。仕方がないというように、文次郎は手に息を吹きかけてから、十手を抜き取った。十手の先で、女の恥ずかしい部分に触れる。草むらを掻き分けてから、割れ目を軽く広げてみた。そこだけがまだ生きているように、濡れて光っていた。
 文次郎は、その液体が少量、流れ出るのを認めた。手先のひとりが、チリ紙を差し出した。そのチリ紙で十手の先端を拭いて、文次郎は立ち上がった。
「男の精が、残っていやがる」
 五十になろうという文次郎が、それが気に入らないとばかりに舌打ちをした。
「手籠めにされたってわけですかい」
 手先のひとり、松五郎が言った。松五郎は三十すぎで、文次郎の子分としては最古参である。小型文次郎というところで、松五郎も意地の悪い男であった。
「深い仲の男と女が、寒空の下でわざわざ睦み合うってことはねえだろうよ」
 文次郎は、死骸の顔に目を落した。
「それに仏は大分、暴れたようでござんすからね」
 松五郎は、若い手先たちを振り返った。二人の若い手先が戸板を置いて、顔をそむけながら死骸をその上に移した。
「この空地に引っ張り込んで、オモチャにしたんだろうよ」
 文次郎は、死骸があったところに立った。その部分にだけ、霜柱が見られなかった。人間の形に、当たり前な地面が残っている。右腕が投げ出されている形まで、霜のない地面として記されていた。
「そのあと心の臓と左の乳房を、抉って殺したんですね」
 松五郎が死骸に、蓆(むしろ)ををかけながら言った。
「下手人は恐らく、顔見知りだったんだろうよ。そんで手籠めにして、生かしておいたんじゃあ無事にはすまねえ。だから、楽しんだあとで、殺したってわけだ」
「それにしても、惨(むご)い殺しようじゃあござんせんか」
「憎さ百倍ってところだ。思いを遂げることができず、いつも相手には馬鹿にされていた。そういう男だったら、たっぷりと弄(もてあそ)んだあとで殺すってこともある」
「なるほど……。ですが、どうにも合点がいかねえことがありゃすね」
「何だい」
「右腕ですよ、親分」
「うん」
「何だってまた、右腕を斬り落したりしたんでござんしょう」
「そうだな」
「それをまたご丁寧に、下手人は持ち去っているんですからねえ」
「その辺に、捨ててねえかい」
「見当たりやせん」
「まあ、その辺の謎は仏の身許がわかりゃあ、解けることだと思うぜ」
 文次郎はそんなことを言って、逃げの手を打ったのだった。
「仏の身許なら、わかっておりやすよ」
 松五郎が、したり顔で頷いた。
「何だと……?」
「よく知られている顔だし、あっしだって何度か会っておりやすからね」
「いってえ、どこの誰なんだい」
「両国広小路の水茶屋《松風》の女で、お七ってんですよ」
「川向こうの水茶屋の女かい」
「へい」
「だったら、おれはひとっ走り行って来るぜ。仏は北本所の自身番へ、運んでおいてくんねえ」
 急に行動を思い立ったらしく、文次郎はそう言い付けると、さっさと歩き出した。水茶屋の女と聞いて、大いに興味が増したのかもしれなかった。
 だが、文次郎は両国橋を渡って、川向こうの広小路へ行く気配を見せなかった。大川に沿って両国橋まで行ったのに、文次郎は左に曲がって元町のほうへ向かったのだ。
『春駒』の前を、ゆっくりと歩く。丁度、左腕のない男が、表戸を片手ではずしているところだった。図体ばかり大きくて、間抜け面の源太が、チラッと文次郎のほうを見やった。だが、知らん顔で源太は、表戸を繰(く)っている。文次郎の姿には、気づいていないみたいだった。文次郎は続けて二回、咳払いをしながら『春駒』の前を通りすぎた。
……「 霜柱は笑う」冒頭

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