「音なし源捕物帳」(巻四)

笹沢左保作

ドットブック 212B/テキストファイル 77KB

300円

 年が明けると、文政四年であった。
 例年のことだが、正月というのは穏やかなものだった。風もなく、日射しが明るい。それに、静かである。華やかな賑わいはあっても、忙(せわ)しかったり 慌(あわ)ただしかったりはしないのだ。
 屋敷町にはいると、琴の音が聞えたりする。町人地では羽根つきの音と、娘たちの笑い声を耳にする。風がないせいか、江戸の空の低いところに幾つも 凧(たこ)が浮かんでいる。
 正月二日の宵になると、宝船売りが町を回る。このときだけの、商売であった。正月二日の夜は、初夢である。宝船の絵を枕の下に入れて寝ると、縁起のいい夢を見ることができるというわけだった。
「道中<T-R>双六(すごろく)おたから、おたから……」
 そういう売り声であった。…「罪なお年玉」冒頭

本巻には「赤い初雪」「罪なお年玉」「薮入りの留守」「死の初伊勢(はついせ)」「梅の声」の5編を収めた。

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 神隠しだ。
 大の男が三人も、神隠しに遭うはずはないだろう。
 では、なぜ煙みたいに消えてしまったのだろうか。
 店の金でも、持ち逃げしたのか。
 いや、そんな形跡もない。
 いったい、どこへ消えてしまったのだろうか。
 と、今夜はその話題で、持ちきりだった。ここ十日ばかり何事も起らず、誰もが話題に不足していたのである。ただ酒を飲むだけでは、面白くなかった。話を肴(さかな)にして、飲むのでなければ寂しくて仕方がない。
 両国元町の『春駒』には、そんな客ばかりが集まって来る。連中は最も庶民的な楽しみを、心得ているということになるのだ。酔って喋って、一日の疲れを癒やすのである。
 文政四年も、二月にはいっていた。その二月にはいってすぐ、恰好の話題が見つかった。つまり、事件が起ったのだ。それとばかりに『春駒』の客たちも、競ってその出来事を話のタネにしていたのであった。
 二月になれば、たちまち春めいた陽気になる。梅の花が咲き始めていたし、江戸の郊外に出れば雲雀の声も聞けるはずだった。話題になることさえあれば、酒がうまいときでもあった。
「ひとりは、深川今川町の上州屋の手代で、小三郎よ」
「今川町の上州屋は、葉茶屋だったな」
「小三郎って手代は、二十六になるってえじゃあねえかい」
「もうひとりは、深川材木町の川田屋の小番頭だ」
「木材問屋の川田屋か」
「川田屋の小番頭ともなりゃあ、かなりのやり手だろうな」
「そうよ。年はまだ三十一だし、もう十年も辛抱すりゃあ川田屋の大番頭ってところだろう」
「名は、小十郎だ」
「更にもうひとりは、深川元町の立花屋の手代だったな」
「そうだ。薬種問屋の立花屋の手代、それも筆頭ってところよ」
「名が小五郎で、年は二十八だ」
「何だい、小十郎、小五郎、小三郎って、名が揃っているじゃあねえかい」
「不思議じゃあねえよ。三人は、実の兄弟なんだからな」
「小十郎が三十一でいちばん上、次が二十八の小五郎、末が小三郎で二十六ってことなのかい」
「三人の兄弟が揃ってところは同じ深川でも、それぞれ違う商家に奉公しているってのが面白いだろう」
「そいつは、兄弟を揃えて奉公人にすることを、商家がいやがるからだぜ」
「兄弟の奉公人が腹を合わせて、悪事を企むことを恐れるのさ」
「いっそのこと、江戸のあちこちに散らばっちまえばいいのによ。同じ深川に寄っているから、気にもなるってわけじゃあねえかい」
「実の兄弟が、同じ土地に寄って奉公したがるってのも、人情じゃあねえかね」
「生まれは、どこなんだ」
「武州は日野(ひの)の在とか、聞いているぜ」
「もう三人とも、深川に住んで日は浅くねえんだろう」
「小十郎は川田屋に奉公して、十六年になるそうだ」
「だったら、深川っ子も同じじゃあねえのかい」
「小五郎が、立花屋に奉公して十三年、小三郎が上州屋に奉公して十年だ」
「三人が三人、しっかりと根をおろしたお店(たな)者だったんじゃあねえかい」
「だからこそ、三人揃って消えちまったことの謎が解けねえのよ」
「三人とも、昨日(きのう)の夜明けから、姿を消したんだったな」
「昨日、今日と二日も姿をくらましているなんて、お店者にできることじゃあねえ。また許されねえってことを、当の三人もよく承知しているはずだぜ」
「日野の在へ、帰っちまったわけじゃあねえだろうな」
「奉公人に、そんな勝手な真似が、できるかよ」
 と、そうしたことで、話は弾みっぱなしであった。
 源太も盃を舐めながら、客たちのやりとりに耳を傾けていた。顔は相変わらず、墨を塗りたくったように濃い無精髭で被われている。ドジで間抜けでウスノロでという看板通り、焦点の定まらない目が髭の中で笑っていた。左腕がないので、袖を肩のところで結んでいる。
 確かに奇妙な出来事だというふうに、源太はしきりと頷いていた。客たちの話しっぷりが乱暴で、とりとめがないから、尚更わけがわからなくなるのだった。
 木材問屋川田屋の小番頭の小十郎は三十一歳で、奉公してから十六年になる。薬種問屋の手代の筆頭、小五郎は二十八歳、立花屋に奉公して十三年になる。葉茶屋の上州屋の手代小三郎は二十六歳、奉公して十年になる。いずれも深川の商家に奉公している三人兄弟で、武州は日野の在の百姓家の生まれらしい。しかし、三人は深川っ子と変わらないほど、土地の者になりきっていた。
 三人が真面目で実直なことは、十年以上も奉公が続いているという事実で立証されている。小十郎は小番頭、小五郎は最古参の手代、小三郎は信用の厚い手代ということで、それぞれ将来のある身であった。
 もう少し辛抱すれば、必ずそれなりに報われる。奉公の軌道に乗ったわけで、いわば恵まれたお店者だったのだ。それに、思慮分別も十分な、商人のタマゴであった。
 兄弟が共謀して、店の金を持って逃げたりするはずはない。事実、そうした間違いは、犯していなかった。三人兄弟は自分の荷物も持たずに、消えてしまったのである。
 三人が姿を消したのは、同じ時刻だったと推定されていた。昨日の夜明け前の七ツ、午前四時に起きたら姿が見当たらなかったと、三軒の商家の奉公人たちが証言しているのであった。
 外部から何者かが、押し入った形跡はなかった。従って、強制的に連れ出されたわけではない。三人が三人とも、みずからの意志によって奉公先を出ているのだ。誘拐ではなくて、失踪したのである。
 二、三日でも無断で行方をくらますことは、許されないのであった。奉公先を追い出されるかもしれないし、主人の信用を失って昇進の望みを断たれることは間違いない。
 江戸を離れたりすれば、出奔ということになる。欠落(かけおち)者の扱いを受けて、一生を棒に振ってしまうのだった。目的もなく常人が、そんなことをするはずはなかった。
「実の兄弟で、奉公先が同じ深川にあるんだから、三人はちょくちょく顔を合わせていたんだろうな」
「三人が寄り合う場所は、深川佐賀町の千鳥橋長屋の大家(おおや)のところと決まっていたそうだぜ」
「佐賀町の千鳥橋長屋の大家ってのは、源兵衛って変わり者だろう」
「そうだ。もう五十に近いってのに、本所松坂町の剣術の町道場へ通っているという変わり種よ」
「どうして三人兄弟は、源兵衛の住まいに出入りしていたんだ」
「源兵衛の女房が日野の在の出で、三人兄弟の親と馴染みが深かったからという話だったな」
 客たちの話にも、次第に勢いがなくなっていた。謎の解きようもなく、さっぱりわからないとなると、自然に熱っぽさを失ってしまうのである。
「兄弟三人が無断で姿を消して、いってえどこへ行っちまったのか。たった一つだけ、その答になることがあるぜ」
 と、源太が初めて、口をはさんだ。その席にいた六、七人の客が、一斉に源太へ視線を集めた。だが、期待している顔は、一つもなかった。間抜けが何を言い出すかと、そういう興味を持った顔ばかりであった。
「言ってみねえな、源さん」
 客のひとりが、薄ら笑いを浮かべながら促した。
「千鳥橋長屋の源兵衛さんは去年の暮れに、お伊勢参りに行って来たばかりと聞いているよ。それで、三人兄弟は源兵衛さんに焚(た)きつけられて、お伊勢さまへお蔭参りへ行ったんじゃあねえのかな」
 締まりのない口のきき方で、源太はそのように言った。とたんに、客たちは驚いたように、ぼんやりと顔を見合わせた。次の瞬間、何人かが手を打ち鳴らし、膝を叩いていた。
「違いねえ!」
「なるほど……」
「こいつは、魂消(たまげ)たぜ!」
「源さんよ、おめえも根っからの馬鹿じゃあねえらしいな」
「岡っ引も、顔負けじゃあねえかい」
「たまには、誰も考え及ばねえようなことに、気がつくんだなあ」
 客たちは、口々に言った。源太は間抜けた顔で、ニヤニヤと笑っていた。

……「死の初伊勢(はついせ)」冒頭

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