「音なし源捕物帳」(巻五)

笹沢左保作

ドットブック 205B/テキストファイル 63KB

300円

 桜が散り果てると、もう新緑の候を人々は待ち受けるようになる。桜の花の美しさを楽しんだ者も、いつの間にか葉桜の緑に目を細めるようになるのだった。
 幼児たちが、土手の土筆(つくし)を摘んで家へ持ち帰る。大川端には、柳に燕の絵が見られた。ふと歩きながら、雨蛙の声を耳にしたりもするのである。
 だが、のんびりと初夏を待つ心境の、江戸の住人ばかりとは限らなかった。そうしたことには関心も向けずに、陰惨な執念にひたすら打ち込んでいる女もいた。
 たとえば子の刻参りに執念を燃やしている女であった。もちろん、どこの何という女が子の刻参りをしているのか、世間が知っているわけではなかった。
 子の刻参りは人知れずにやることであり、その姿を誰かに見られてはならないというのが鉄則になっているからである。そのためにも、子の刻という時刻を選んでいるのだった。…「子(ね)の刻(とき)参り」冒頭

本巻には「消えた花嫁」「甘い毒薬」「夜の花吹雪」「子の刻参り」の4編を収めた。

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 花便り――。
 桜がそろそろ蕾をふくらませる頃だとか、今年の花見はどこにするかとか、そんな噂や取り沙汰に、江戸っ子たちが浮かれ始める時期であった。四季を通じて、最も行楽の話に賑わうときである。
 だが、そんな中にあって、花見などには縁がないといった顔をしている男もいた。本所・深川という広い地域を縄張りとする岡っ引の、回向院の文次郎などはその最たるものであった。
 不機嫌と無愛想を絵に描いたような顔つきで、あたりを睥睨(へいげい)しながら歩いている。背は高くないが、横幅がある。胸を張っているのはいいが、ややガニ股であった。
 肥満体を、裾をはしょった着物と半纏で包んでいる。紺の股引に、黒足袋をはいていた。もちろん十手を、目につくように帯の前に差し込んでいる。
「苦虫を噛みつぶした上に、煎じ薬をたっぷりと飲んだって面(つら)だぜ」
「ゲジゲジが、歩いていやがる」
「寒気がするなあ」
 誰もが文次郎を遠くから見て、憎まれ口を叩きながら横を向く。徹底した嫌われ者だけに、文次郎は敬遠されると更に態度を硬化させるのだった。
「ちょいと、待ちねえ!」
 と、文次郎はいきなり、通りすがりの男を大声で呼びとめた。
「へえ」長い竹竿を肩に担いだ大男が、不安そうに立ちすくんだ。
「何を担いでいるんだい!」
 文次郎は大男を、怒鳴りっけた。
「へえ。見た通りの竹竿で……。垣根の腐っちまったところを、取り替えるんでござんすよ」
 大男は、ペコペコ頭を下げた。
「馬鹿野郎!」
 文次郎はいきなり、大男の頬に平手打ちを喰らわせた。
「すんません」
 大男は悲鳴を上げて、尻餅をつきそうによろけた。
「そんな長えのを引っ担いで、天下の往来を歩いちゃあ危ねえじゃあねえかい!」
 文次郎は、大男に怒声を浴びせた。無理難題の横車というやつである。そんなことを言われたのでは、竿竹売りは商売ができないし、荷車を引いても往来は歩けなくなる。
「間の悪いときに、ゲジゲジ野郎のそばを通りかかったもんだぜ」
「馬鹿だなあ」通行人たちが顔をしかめて、同情したり苛立ったりであった。
「両国の《春駒》の源太じゃあねえかい」
「道理で、間抜けていらあ」
「ドジで間抜けでウスノロでと、餓鬼どもに囃し立てられている源太だが、まったくその通りだぜ」
「文次郎にしてみりゃあ、いいカモを掴まえたってわけだ」
「源太をいじめて、溜飲を下げようって魂胆か」
 通行人たちは、道の両端に寄って囁き合っている。哀れなのは、図体ばかり大きくて、間抜け面をした源太であった。月代(さかやき)ばかりではなく、黒覆面をしているみたいに濃い無精髭が伸び放題であった。
 目がトロンとしていて、引き締まった顔にはさせなかった。左腕がそっくりないので、袖を肩の付け根のところで結んでいる。着物の着方も、まことにだらしがない。
「竹竿を、頭の上に乗せろ!」
 文次郎が、命令した。
「へえ」
 源太は長い一本の竹竿を頭の上に置いて、それを右手で押さえた。
「そうすりゃあ、人にぶつかることはねえだろう」
「へえ」
「そのまま、両国まで行くんだ」
「へえ」
「よおし、途中で肩に戻したりしねえように、最後までおれが見届けてやる!」
「へえ」
「さあ、歩きやがれ!」
 文次郎は十手で、源太の尻を叩いた。源太が慌てて歩き出し、文次郎はその横に並んで足を運んだ。誰も近づかなかったし、道の端を通行するようになる。
「明け方に、盗人(ぬすっと)の死骸が見つかってな」
 歩きながら、文次郎が声をひそめて言った。
「場所は、どこなんで……?」
 源太も、小声で訊いた。二人とも真直ぐ前を向いたままだし、唇をできるだけ動かさずに喋っている。端目には、二人が言葉を交わしているふうには見えなかった。
「南本所番場町だ。荒井町の四つ辻に、寄ったところなんだが……」
「すると、妙源寺の西側でござんすね」
「そうよ」
「どうして、盗人だとわかったんです」
「そりゃあおめえ、黒の着物の尻をはしょって草鞋ばき、黒いキレで盗人かぶり、それに鉤(かぎ)のついた麻縄をまるめて懐中にしていたんだから、どう見たって盗人よ」
「殺されたんですかねえ」
「背中を一突きした上に、締め殺したってところだ。首に紫色の、締め上げた跡が残っていたからな」
「なるほど……」
「日光御奉行所の入墨があったから、ただのネズミじゃあねえ」
「入墨者ですかい」
「ところが人相書が回ったり、お手配中で名を知られたりって盗人じゃあねえ。その上、野郎の懐中には、武州は熊谷の米問屋の手拭いがへえっていたのさ」
「すると、江戸者じゃあねえんですね」
「うん。何しろ、まだ新しい手拭いだったからなあ」
「いってえ、どこへ忍び込んで、何を盗み出したんでしょうねえ」
「何も、盗み出さなかったんじゃあねえのかな。野郎、金目のものは何一つ、持っちゃあいなかったんだ」
「盗み出す前に、見つかって殺されたんですかい」
「まあ、そうだろうよ。だが、どこに忍び込んだのかは、見当もつかねえ」
「逃げた盗人を、追いかけて殺したんだとすりゃあ、死骸のあったところの近くの家屋敷ってことになりやすがね」
「そいつがまた、いけねえんだ。死骸は道端に転がっていたんだが、そのあたりが血糊が見当たらねえのさ」
「へええ……」
「つまり、家屋敷の中で殺しておいて、死骸だけを運んで来て捨てたってわけだ」
「なるほどねえ」
「年は二十五、六。武州あたりの、博奕打ちの子分じゃあねえかって、定回(じょうまわ)りの旦那はおっしゃるんだが……」
「武州の熊谷へは、問い合わせねえんですかね」
「馬鹿野郎、お上(かみ)に手抜かりはねえやい。勘定奉行さまを通じて、関東取締出役(しゅつやく)さまへの使者が、とっくに江戸を出立していらあな。明後日には、何かわかるに違いねえ」
「それで、あっしのお役目は…」
「本所のどこでもいいから、あの家屋敷には盗人がへえったらしいってな噂話を掴むことだ」
「へえ」
 春の日射しが、心地よく暖かい。冬の陰気な暗さが嘘のように、空も地上も明るかった。雲雀の声が聞えて、ふと眠くなるような陽気であった。風もない。
 あと十日もすれば、桜が咲いて、風塵が強まる。大川を下る舟を眺めながら、土手にすわった子守りの少女が、居眠りをするのはいま頃であった。
 大川沿いに、大名屋敷を左に見て歩く。石原町からざっと五つの大名屋敷があり、御蔵橋を渡ってからも更に二つほど並んでいる。それをすぎると、横網町であった。
 横網町の次が小泉町で、すぐ回向院の前に出る。右側が元町で、その先に両国橋があるのだった。正午をすぎたばかりだが、回向院から両国橋にかけての人の往来は相変わらずであった。
「こいつは、殺された盗人が右手に握っていたもんだ。ほんの少量だが、定回りの旦那からもらって来たのさ。おめえにも、拝ませてやるぜ」
 文次郎が丸めたチリ紙をへ素早く源太の懐中へ押し込んだ。前方に、『春駒』が見えていた。店の前に、姿のいい女が立っている。お小夜であった。源太の目は、お小夜の柳腰へ向けられていた。
「いいか、今後とも竹竿はそうやって持ち歩くんだぞ!」
 怒声を張り上げて、文次郎がいきなり源太の腰のあたりを蹴飛ぱした。不意を衝かれて源太は転倒し、竹竿を振り回す恰好になった。その竹竿に足を払われて、文次郎が仰向けに引っくり返った。


……「甘い毒薬」冒頭

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