「音なし源捕物帳」(巻六)

笹沢左保作

ドットブック 207B/テキストファイル 77KB

300円

 豆やあ……
 枝豆え……。
 と、枝豆売りの声が、遠くから聞えて来る。この枝豆売りの声が、夏の訪れを実感として知らせるのである。夏を迎えた江戸の夜の風物詩の一つであり、去年のあの頃から一年がすぎたのかと、江戸っ子たちを感傷的にさせる声でもあった。
 まだ宵の口であって、両国元町の『春駒』も客が押しかける前の静寂の中に沈んでいた。この、ほんの三十分間が『春駒』の店の静けさを、しみじみと感じさせるときだったのだ。
 昼間の静寂とは、異質なものであった。店の中は、昼間のように明るかった。客を迎えるべく用意万端が整っていて、暖簾が夜風に揺れ、店内の飾りものが一様に光っている。
 店の奥には突き出し、各種の肴がいつでも需要に応じられるように取り揃えてある。酒の燗の準備もできているし、給仕女たちがタスキ姿も甲斐甲斐しく待機していた。
 それでいて、店には人影がない。そういう三十分間で、嵐の前の静けさに似ている。緊張感を伴いながらも、何となくのんびりとしているのである。…「 長屋の賭け」冒頭

本巻には「斑らの蝶」「盗まれた片腕」「長屋の賭け」「飛ぶ稲妻」「笛の女」の5編を収めた。

立ち読みフロア
 雲一つない青空、という晴天続きであった。このところ、江戸のその青空を魚が泳いでいる。一年に一度、端午(たんご)の節句の前後半月間に見られる空の魚である。
 晴天続きは、願ってもないことであった。雨が降り出せば、鯉幟(こいのぼり)をおろして家の中へ取り込まなければならなかった。どうやら今年は、そうした煩わしさもなく、手間が省けそうだった。
 夜間も取り込まずに、鯉幟をそのままにしておく家が多かった。夜になると風が鎮まるので、気にかけずともすむのである。紙の鯉幟はともかく、布製であれば夜露の影響が殆どない。
 昼間は風が強く、どの鯉幟も水平に泳いでいる。大きな商家になればなるほど、立派な鯉幟が目立っていた。陰の気を払うために、ショウブやヨモギを軒下に差している家が多かった。
 節句ともなると、人出が大変であった。特に男子の節句だから、その喜びが家の外へ出る。家の中での祝いに賑わう女子の桃の節句とは、まるで対照的であった。
「ちょいと、ぶらぶらして来るか」
 縁側で足の爪を切りながら、源太はそう呟いた。住まいの中にいて日射しを浴びていると、汗ばむくらいの陽気であった。
「待っておくれな」
 鏡台の前にいるお小夜が、源太の独り言を聞いて振り返った。
「おめえも、一緒に行くかい」
 ハサミを投げ出すと、源太は顔中を被っている濃い無精髭を撫で回した。
「当たり前じゃないか。折角の休みなんだもの」
 お小夜が甘えて、鼻にかかった声を出した。今夜一晩だけ、『春駒』は休業するのである。珍しいことだが、節句に一日ぐらいは休まないと、板前や給仕女たちに気の毒だったのだ。
「だったら、早くしねえな」
 源太は、着物の前を改めた。しかし、そんなことをしても、様子のいいお哥兄(あにい)さんになるはずもなかった。無恰好で、だらしのない着流し姿に変わりはないのだ。
 鏡台の前を離れたお小夜の姿は、また逆に艶(あで)やかすぎた。粋で色っぽくて、惚れ惚れするようないい女である。これほどの年増は、広い江戸にもざらにはいない。
 そうした源太とお小夜が連れ立って歩くのだから、まるで釣り合いがとれなかった。夫婦には見えない。源太が一歩遅れて歩けば、姐(ねえ)さんと三下の子分ということになる。
「どっちを見ても、五月幟(さつきのぼり)じゃあねえかい」
 源太が歩きながら、空を見渡した。ドジで間抜けでウスノロの源太が前を行き、半歩遅れてお小夜がそれに寄り添って歩く。五月幟とは、もちろん鯉幟のことである。
「でもさ、その五月幟に何てえ悪戯(わるさ)をするんだろうねえ」
 お小夜が言った。
「緋鯉の目の玉を、矢で射るってえ例の騒ぎかい」
「そうさ」
「そう言えば、もう何軒になるんだ」
「昨日までの三日間に回向院の近辺で、中津屋さん、高野屋さん、越中屋さん、松崎屋さん、美濃屋さん、黒田屋さん、それに土佐屋と七軒の商家が、やられているんだよ」
「商家ばかりか」
「狙われるのは、奉公人が十人はいるという商家に限られているみたいだね」
「鯉幟を立てるくれえだから、伜(せがれ)がいねえってはずはねえだろう」
「伜も娘もいるって商家ばかりだよ」
「何のつもりかはわからねえが、こいつはただの悪戯じゃあねえな」
 源太は、結んである左袖の揺れを、押さえるようにした。誰もが単なる悪戯と見ているのだが、このところ奇妙なことが流行しているのだ。
 何者かが鯉幟の緋鯉の目玉を狙って、矢を射かけるのであった。矢は正確に鯉の目玉を貫いている。しかし、矢羽根まで抜けないので、矢は通過せずにそのまま鯉幟に引っかかっていた。
 半弓の矢であった。半弓は長さ二メートル二十五センチの大弓の半分しかなく、一メートル十センチほどの長さであり、すわっていても射ることができる。
 その半弓の矢であって、手製ではないが粗末なものであった。矢羽根も鷲、鷹、鴇(とき)のものではなく、雑羽(ぞうは)と呼ばれている安物であった。
 だが、矢筈(やはず)もしっかりしているし、矢尻は鋭利な金属でできていた。武具屋で買い込んだ稽古用の弓と矢を、使っているのに違いなかった。
 両国回向院の周辺の商家七軒が、同じ矢で緋鯉の目玉を射られているのである。三日間にわたり、早朝の人目につかない時刻を選んで、射ているようだった。いったい何のために、そのようなことをするのか。誰もが腕を組み、首をかしげてしまう。何の得にもならないことだし、無意味な悪戯としか考えようがないのである。
「五月幟の鯉の目を的にして、弓矢の稽古をしているんじゃないのかねえ」
 お小夜が言った。
「空を泳いでいる鯉の目の玉を、寸分の狂いもなく射抜いているんだろう。余程、弓が達者なやつでねえと、とてもできねえ芸当だぜ。そんなやつが今更、他人さまの五月幟で弓の稽古をするとは思えねえ」
 源太はまた、トロンとした目で鯉幟を見上げた。
「そうかねえ」
 お小夜は指先で、頬をつっ突くようにしていた。真下に近づいて、矢を射かけるのではなかった。他の家の裏庭などに立ててある鯉幟を、外の路上から射ることになる。
 距離もかなりあって、斜め下から射らなければならない。しかも、的は絶えず風に煽られ、躍っている鯉幟で、緋鯉の目玉を正確に射抜くのだから、それはもう芸当というものだった。
「おれの知り合いに、弓矢の乙吉って野郎がいた。板前崩れの遊び人だが、こいつが滅法、弓がうまくてな」
 源太は言った。
「弓矢の乙吉って遊び人かい」
 お小夜が、妙に感心したように頷いた。
「目をつぶって、飛んでいる雀を射落すくらいの腕前だった。名人だってんで、弓矢の乙吉と呼ばれるようになったのさ」
「いまでも、知り合いってことかい」
「とうの昔に、離れ離れになっちまったよ。おれが上州長脇差の修業中の頃で、乙吉ってのはおれの弟分だった」
「江戸者かい」
「江戸無宿だったから、そうだろうよ。板前らしく、気風(きっぷ)のいい野郎でね」
「板前って言えば、うちの善さんが暇をくれってことなんだけどさ」
「そいつはまた、どうしてなんだ」
「洲崎の兄さんの店を、手伝いたいそうなんだよ」
「だったらまあ、仕方がねえだろうな」
「だって、お前さん。善さんほどの板前になると、ちょっとやそっとじゃ見つからないんだから……」
「店のことに、おれが口出しはしねえって約束を、おめえのほうが取り付けたかったんじゃあなかったのか」
 源太はそう言って、えヘヘと笑った。善さんというのは、『春駒』の煮方の板前であった。その善さんが『春駒』をやめたいと言っているなどと、話がとんでもないほうへ飛んでしまっていた。
 回向院の門前の盛り場は、いつもの賑わい以上の人出で混雑していた。道の両脇が、人の渋滞で埋まっている。真中が、通り道になっていた。
 ふと、源太は脇を見ていて、正面に人の気配を感じた。小走りに来た男が、源太の目の前に迫っていたのである。源太は反射的に、それを避けようとした。
 だが、左右に人波があって、よける余裕がなかった。間に合わずに、源太の身体の左半分が相手の胸にぶつかった。その瞬間に、しまったと源太は思った。
 相手の男は、遊び人ふうであった。それだけに、薄ぼんやりとはしていない。そう源太が危惧した通り、相手の男の両手が懐中にあって、そっと撫でさするように動いたのだった。
 源太は左腕を晒に巻き込んで、肩の付け根からないみたいに見せかけている。しかし、身体の側面に余計なものがあるわけだから、手で触れたり撫で回したりしてみれば、それが何か見当もつくのであった。
「こいつはどうも、申し訳ねえことを……」
 源太は、慌てて謝った。その源太の顔を、男は睨みつけるように見つめていた。二十五、六の男で、目つきが鋭かった。しばらくたって、男はニヤリとした。
「おめえさん、妙な趣味を持っているじゃあねえかい」
 男は両手で、源太の隠された左腕を撫で回した。そのあと、男は源太を押しのけるようにして、さっさと歩き出していた。

……「盗まれた片腕」冒頭

購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***