「オトラント城奇譚」

ウォルポール/平井呈一訳

ドットブック版 214KB/テキストファイル 111KB

500円

「昨年六月のある朝、私はある夢から目を醒まして、その夢について思い出せるのはどこかの古い城の中にいるように思ったこと、そして大きな階段の一番上の手すりの上に、具足をまとったとてつもなく大きな手が片方載っているのが見えた、ということだけ。そしてその日の夕方私は机に向かって、自分が何を言いたいのか、何を語ろうとしているのかまるで判らぬままに筆をとって書き始めたのです」…これがこの作品の成り立ちである。そしてこの一作によって、ゴシック小説は誕生した。

ホーレス・ウォルポール(1717〜97)イギリスの著述家。ケンブリッジ大学を卒業後、イタリア・フランスに遊学。帰国して政界にはいり、国会議員を務めた。トゥイッケナム郊外にゴシック様式の城館を築いてそこに住み、私設印刷所も設けて自著や友人の本を印刷した。この「オトラント城奇譚」によってゴシック(恐怖)小説の創始者として有名であるが、生涯に3000通にものぼる膨大な書簡を残し、これは当時の歴史、風俗、趣味などを知るきわめて貴重な資料となっている。

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 オトラントの城主マンフレッド公には一男一女があり、総領はマチルダ姫といって、芳紀《とし》十八、容色なかなかにうるわしい処女《おとめ》であった。弟君のコンラッドというのは姉よりも三つ年下で、これはうまれつき病弱な、ゆくすえの見込みのない凡庸な子であったが、姉のマチルダには日ごろ情愛らしいものをついぞ見せたことのない父親の、またとない掌中の《珠《たま》珠《たま》であった。
 マンフレッド公はかねてから、ヴィツェンツァ侯の息女イサベラ姫をわが子に妻《めあ》わすことを約して、伜《せがれ》コンラッド本復のあかつきには、早々に婚儀の式をあげさせるつもりで、すでに付け人をつけて、姫を自分の手もとに引きとっていたのである。その晴れの挙式の日を一日千秋の思いで待ちわびるマンフレッドの胸中を、一家一門、および領内のひとびとは、いろいろに取り沙汰していた。しかし家中《かちゅう》の面々は、日ごろから癇癖《かんぺき》のはげしい殿の気性をよくこころえていたから、殿の心中のあせりについては、だれひとり、めったな憶測を口に出していうものもなかった。
 奥方のヒッポリタというのは、これは温厚貞淑な婦人で、彼女はおりにつけわが子の若年のこと、あまつさえ病身であることをかんがえて、一粒だねの跡取りをそんなに早く縁組させるのは、なにかにつけて心もとないことを、しばしば夫に申し立てたけれども、そのたびに夫から受ける返事は、だいじな世継ぎの胤《たね》を一人しかもうけぬわが身の石女《うまずめ》のふがいなさを、いまさらのように事改めて思い知らされるばかりであった。
 とかく口さがないのは領内の百姓町人どもで、かれらは、御城主が若君の御婚礼をあのようにむたいに急がれるのは、あれは昔からここのお城に言い伝える古いお告げが、いよいよあらわれることになったので、それが怖いからじゃと、みんなそのせいにしていた。――「オトラントの城およびその主権は、まことの城主成人して入城の時節到来しなば、当主一門よりこれを返上すべし」というお告げが、遠い昔に宣下されたのだそうな。お告げの意味はどういうことなのか、よくわからなかったし、さらにそれがこんどの婚儀とどういう関係があるのか、それもにわかに計りがたかったが、とにかく、このお告げが謎かまことか口論乙駁、領民たちは思い思いの意見をいよいよ固くした。
 婚儀の日どりは、若君コンラッドの誕生日と定められた。その日、賓客《まれびと》たちは城内の礼拝堂にうちつどい、いよいよおごそかな神前の儀式をとりおこなう準備万端ととのったという時になって、かんじんのコンラッドの姿がどこへ行ったか見えなくなった。一刻の猶予も待ちきれず、気ばかりあせっているマンフレッドは、わが子が席をはずしたところを見ていなかったので、ただちに近侍の一人に命じて、若殿を呼びにやった。近侍は中庭をわたって、コンラッドの居間まで行くほどもないうちに、息せききって駆けもどってくると、目をむき口に泡をためて、ものもいえず、ただしきりと中庭のかたを指さす狂顛《きょうてん》のていたらくに、並みいる客たちはいずれもみなおどろき、かつ唖然とするばかりであった。奥方のヒッポリタは、なんのことやらわからぬながら、わが子の上を気づかうあまり、その場にバッタリ気を失う。マンフレッドは心配よりか、婚儀のおくれることと、家来のうつけぶりに腹を立てて、いたけだかに、なにごとじゃ? とたずねたが、家来は答えもやらず、なおもつづけて中庭のかたを指すばかり。やがてかさねて問われると、ようやくのことに、「あの! お兜が! お兜が!」とさけんだ。
 とかくするうち、数人の客たちがいち早く中庭へと走り出ていったが、まもなくそちらの方から、なにやら恐怖と驚愕の叫び声が、騒がしくきこえた。マンフレッドもようやくわが子の見えないのが心配になりだし、ただならぬあの騒ぎは何事だろうと、自分もやおら席を立って行った。マチルダはあとにのこって母の介抱につとめ、イサベラもおなじ目的で席にのこっていたが、イサベラが席をうごかなかったのは、じつは、まえまえから情愛などつゆほどもおぼえていない花婿に対して、ここで自分がジタバタあわてさわぐような不覚を、はたの目に見られたくないためであった。
 マンフレッドの目をまず第一に射たものは、なにやら黒い鳥毛の山のように見えるものを、下人《げにん》どもの群れがエイヤエイヤと懸命になって持ち上げている姿であった。目をこらしてよく見たものの、自分の目が信じられなかったので、マンフレッドは怒気をふくんでどなりつけた。「きさまら、何をしてさらす! 和子《わこ》はどこにおるのじゃ?」すると、異口《いく》同音の声がいっせいに、「おお上《うえ》様! 若君さまは! 若君さまは! このお兜が! お兜が!」と涙まじりのその答えに、あるじはギックリ。なんのことやらわからぬまま、こわごわ前にすすみ出てみると、こはそもいかに、わが子はグッシャリ木っ葉みじん、さながら尋常の人間のためにつくられた兜の百層倍もあるような大兜の下にうち敷かれて、その上を、大兜にふさわしい山のごとき黒い大鳥毛《とりげ》が、くろぐろと蔽っていたのである。

……第一章 巻頭より


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