フィッツジェラルド短編集

「雨の朝パリに死す」

フィッツジェラルド/守屋陽一訳

ドットブック 145KB/テキストファイル 97KB

400円

「悲しみを湛えた華麗さ、グレーのセーターのような、メランコリックな優しさ、ワイン色のアンニュイ。フイッツジェラルドの作品の中には、現代の女性の心をひきつける、何ものかがひそんでいるのかも知れません」(訳者)。この短編集には表題作のほか「冬の夢」「金持ちの青年」というフィッツジェラルドの代表的な三つの作品が収められている。
立ち読みフロア


「では、キャンベルさんはどこにいるの?」チャーリーは、たずねてみた。
「スイスに行ってしまわれました。だいぶお体の具合がわるいようです。ウェイルズさん」
「それはよくないな。では、ジョージ・ハートの奴(やつ)は?」チャーリーは、たずねた。
「アメリカにおかえりになりました。お仕事をなさるとかで」
「では、『ユキホホジロ』は、どこにいるの?」
「あの方は、先週ここにおいでになりました。いずれにしても、あの方のお友だちのシェーファーさんは、今、パリにおいでになります」
 それは、一年半前にいた、たくさんの知りあいの中の、親しい二人の友人の名前だった。チャーリーは、自分の手帳にいそいでアドレスを書きつけると、そのページを破り取った。
「シェーファーさんにあったら、これを渡しておいてくれ」彼はいった。「これは、ぼくの義理の兄の住所なんだ。まだ泊るホテルをきめていないんでね」
 パリが、これほどひっそりしてしまったのを知っても、彼は、それほど失望したわけではなかった。しかし、バー・リッツのひっそりとした静けさは、何か異様で、不吉なものを感じさせた。それはもはや、アメリカ人のバーではなかった。――何か上品ぶっていて、居心地がよくなかった。それは、以前のフランスのバーにもどっていた。タクシーからおりて、いつもなら、こんな時間には、ひどくいそがしがっているはずのドア係が、従業員用の出入口で、ボーイと世間話をしているのを見た瞬間から、彼は、このひっそりとした静けさに、気がついたのだった。
 廊下を通りすぎた時も、以前はそうぞうしい声のきこえていた、女性専用室の中から、退屈している声が、たった一つきこえただけだった。バーの中に入って行くと、昔からの癖で、まっすぐに前のほうをみつめたまま、二十フィートばかり、グリーンのカーペットの上を歩いて行った。そして、足もとにあるバーの横棒を、片ほうの足でしっかりとふみしめると、ふり向いて、部屋の中を見まわした。しかし、部屋の隅で新聞を読んでいた一人の客が、さっと眼をあげて、彼のほうを見ただけだった。チャーリーは、バーテン長のポールはいないかとたずねてみた。ポールという男は、上げ相場の末期には、注文して作らせた自家用車に乗って、出勤していた――もっとも、人目を気にして、いちばん近い角で車から降りていたが。しかしポールは、今日田舎(いなか)にかえっていたので、アリックスが、かわって彼に消息を伝えていたのだった。
「いや、もう結構だ」チャーリーは、いった。「最近では、ひかえるようにしているんだ」
 アリックスは、それはよかった、といった。「二、三年前は、だいぶ派手にやっておいででしたが」
「ちゃんとつづけてやっていける」チャーリーは、アリックスに請けあってみせた。「もう一年半以上も、つづけてきたんだから」
「アメリカのほうは、いかがですか?」
「アメリカには、もう何か月も行っていない。今、プラハで、仕事をやっているんだ。いくつかの会社の代理店をやっている。あっちじゃ、ぼくのことは、だれも知らないんだ」
 アリックスは、微笑してみせた。
「ジョージ・ハートが、ここで、独身の男だけのディナーパーティをやった夜のことを、おぼえているかい?」チャーリーは、いった。「ところで、クロード・フェッセンデンは、どうしている?」
 アリックスは、秘密の話でもするように、声を低くした。「今、パリにおいでになりますが、もう、ここには顔をお出しになりません。ポールが承知しないんです。お勘定のほうが、三万フランもたまっているもんですからね。お酒と昼食、それから、毎晩のように夕食を召しあがって、それを全部、一年以上もつけにしていらしたんですから。とうとうポールが、どうしても払って頂かないと困りますと、申し上げたら、小切手をくださったんですが、それが不渡りだったんです」
 アリックスは、悲しげに頭をふってみせた。

……《
雨の朝パリに死す》冒頭より


購入手続きへ


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***