「パルムの僧院(上下)」

スタンダール/大久保和郎訳

(上)ドットブック 257KB/テキストファイル 233KB

(下)ドットブック 278KB/テキストファイル 258KB

各500円

イタリアの貴族デル・ドンゴ家の次男ファブリツィオは、オーストリア軍政下にあったイタリアを解放したナポレオンに心酔し、オーストリアびいきの父のもとを脱出してワーテルローの戦いに参加する。だが、これによって彼は帰国後、自由主義者の烙印をおされる。たまたま女をめぐって起きた争いで彼は旅役者を殺してしまい、それをパルマ公国の政治的陰謀に利用されて、獄中の人となる(上巻)…ファブリツィオは獄中で牢獄長官の娘クレリアにほれこみ、叔母のサンセヴェリーナ公爵夫人とその愛人のモスカ伯爵の助けで脱獄に成功するが、クレリア恋しさにふたたびみずから獄にもどる。この間、公爵夫人はパルマ大公を暗殺させ、新大公にとりいってファブリツィオを放免させる。だが、大司教補佐に出世したファブリツィオは、クレリアをあきらめきることはできなかった(下巻)……イタリアに心酔したスタンダールが自らの体験もまじえて晩年に口述筆記によって書き上げた代表作。バルザックはこれを「最高の傑作」とほめたたえた。

スタンダール(1783〜1842)グノーブル生まれのフランスの作家。本名アンリ・ベール。母を早くに亡くし、厳格な弁護士の父親に教育された。17歳のとき、ナポレオンのイタリア遠征に参加、のち陸軍省にはいり、ナポレオン没落後は7年間ミラノに暮らした。7月革命後トリエステ領事、チヴィアヴェッキア領事を勤めた。この間、イタリアやパリで豪奢な社交生活を送りながら恋と執筆に明け暮れた。生涯に十人以上の女性と浮き名を流し、なかでもマチルド・ヴィスコンチーニへの報われない恋から生まれたという「恋愛論」は有名。代表作「赤と黒」「パルムの僧院」「エゴチスムの回想」など。

立ち読みフロア


一七九六年のミラノ

 一七九六年五月十五日、ボナパルト将軍はロディ橋〔同年五月十日、ナポレオンはミラノ南方のこのロディ橋でオーストリア軍を撃破した〕を突破して来た若い軍隊の先頭に立ってミラノに入城した。数々の世紀を隔ててカエサルとアレクサンドロスの後継者が生まれたことを彼らは世界に告げたのであった。数か月にわたってイタリアが見せつけられて来た驚異的な武勇と天才は眠れる民衆を呼び覚ました。フランス軍の到着の一週間前までは、ミラノ人はフランス軍をオーストリア皇帝の軍隊の前に出ればいつも敗走するならず者の集まりとしか見ていなかった。すくなくともそれは、きたならしい紙に印刷した掌大《てのひらだい》の小新聞が週に三度彼らにくりかえしていることだった。
 中世には共和政下のロンバルディア人〔ミラノ地方人〕はフランス人のそれに劣らぬ勇気を示したものだが、そのため彼らの都市はドイツの諸皇帝によって完全に破壊されるという目に遭《あ》った。彼らが「忠良な臣民」になってしまってからは、彼らの大きな仕事といえばどこかの貴族もしくは金持の家に属する娘が結婚するとき、桃色のタフタの小さなハンケチに十四行詩《ソネット》をプリントするということになってしまった。生涯のこの重大な転機から二年か三年すると、この若い娘はおつきの騎士《カヴァリエ・セルヴァン》を選ぶ。ときにはこのシジスベ〔カヴァリエ・セルヴァンと同意。女の世話をやく男。これはイタリアの上流階級に昔からあった弊風で、夫以外にこのような恋人まがいの男を持たぬ女性は上流階級では軽蔑された〕は婚家で選ばれていて、その名は結婚契約に堂々と記載されているのだ。フランス軍の思いがけない到来がもたらした深い感動は、このような柔弱な風習とは縁の遠いものだった。
 間もなく新しい情熱的な風習があらわれた。自分たちがこれまで尊敬していたもののすべてが滑稽《こっけい》至極《しごく》であり、場合によってはいとわしくすらあることに、一国民全体が一七九六年五月十五日に気がついたのである。オーストリア軍の最後の連隊の撤退は旧思想の崩壊となった。生命を賭《と》することが流行になった。索漠《さくばく》たる気持ちで何百年も過ごして来たあげく幸福を得るためには、真の愛情をもって祖国を愛し英雄的行為を求めねばならぬことを人々は知った。カルロス五世とフェリーぺ二世〔ともに当時イタリアを支配していたスペイン王父子〕の猜疑心《さいぎしん》の強い専制政治の継続によって人々は深い闇のなかに沈められていたのだ。この皇帝たちの像を打ち倒すと、にわかに人々は光に包まれるのを感じた。この五十年ばかりのあいだ、そして『百料全書』とヴォルテールがフランスで評判になるにつれて、坊主たちはミラノの善良な民衆に、文字を知ったりこの世の何かを学ぶことはまったく無益なことであり、自分の教区の司祭に十分の一税をきちんきちんと払い、自分の犯したちょっとした罪を正直に告白さえしておけば、天国でちゃんとした場所を与えられることはほとんど確実だと声を大にして説いていた。かつてはあれほど猛烈であれほど理性的だったこの民衆を完全に無気力にしてしまうために、オーストリアは自分の中隊に新兵を供給しなくてもいいという特権を彼らに安い値段で売りつけたのである。
 一七九六年には、ミラノの軍隊といえば赤い服を着た二十四人のやくざ者にすぎず、この連中は堂々たる四個連隊のハンガリー擲弾兵《てきだんへい》と協力して町を守っていた。風紀の放縦さはとほうもないほどだったが、情熱のほうはごくまれにしか見られなかった。のみならず、司祭に何もかも話さなければ世俗的にも破滅してしまうという不愉快なことのほかに、ミラノの善良な民衆はまたわずらわしいというほかはない君主制のこまごまとした束縛のいくつかをも負わされていた。たとえばミラノにあって従兄《いとこ》たるオーストリア皇帝の代理としてここを支配していた大公は、小麦の取引で金を儲けようと思いついた。そのため農民は、殿下の倉庫が一杯になるまで自分の穀物を売ることを禁じられた。
 一七九六年五月、フランス軍の入城の三日後、この軍隊といっしょにやって来たグロという後に有名になった少々いかれた若い細密画家が、大きなカフェ「セルヴィ」(当時はやっていた)で大公の――なお言えば、この大公はものすごく図体が大きかったのだ――やったことを耳にして、粗末な黄色の紙に刷《す》ったアイスクリームのメニューを取り、その裏にふとった大公を描いた。ひとりのフランス兵がその腹へ銃剣をつっこむと、血のかわりに小麦がとほうもなくたくさん出て来るという絵である。冗談とか漫画とか呼ばれるものは、抜け目のない専制政治の支配するこの国では知られていなかった。グロがカフェ・セルヴィのテーブルに置いて行った絵は天から与えられた奇蹟のように見え、その夜のうちに印刷されて、翌日には二万枚も売れた。
 同じ日、フランス軍の必要を満たすために六百万の軍事賦課金《ふかきん》が徴収されることが布告された。六回の戦闘に勝ち二十の地方を征服して来たフランス軍に欠けていたのは、靴、ズボン、上衣、帽子だけだった。
 これほど貧しいフランス軍とともにロンバルディアになだれこんで来た幸福と楽しみたるやおびただしいもので、六百万というこの税の重さに気がついたのは僧侶たちと幾人かの貴族だけだったほどだ。しかもやがて他にたくさんの税がこれにつけくわえられたのだが。このフランスの兵士たちは一日じゅう笑って歌っていた。彼らは二十五歳以下で、二十七歳のその司令官はこの軍隊のなかの長老者と見られていた。この陽気さ、この若さ、この暢気《のんき》さは、この半年来教壇の上からフランス兵は残酷非道なやつらで、すべてを燃やしつくしすべての人間の首を切らなければ自分が死刑にされるのだなどと言っていた坊主たちの怒りに満ちた予言と愉快な対照をなしていた。そのために各連隊は断頭台《ギヨチン》を先頭に立てて行進するのだと坊主たちは言っていたのだ。

……第一章 巻頭より


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