「おしどり探偵」(1・2)

アガサ・クリスティ/橋本福夫訳

(1)ドットブック 207KB/テキストファイル 98KB

(2)ドットブック 216KB/テキストファイル 107KB

各360円

トミーとタペンスという若夫婦が〈国際探偵事務所〉という素人探偵事務所を開設する。二人の唯一の強みは、これまでの探偵小説を全部読破していて、各探偵の探偵術を克明に記憶していることだ。彼らは名探偵の誰かのやり方を頭に浮かべながら、事件の解決に乗り出す。「ポワロ風」あり、「ブラウン神父風」あり、「ソーンダイク博士風」ありで、茶目っ気たっぷりのクリスティの面目躍如。(1)には 8編を、(2)には7編と解説をおさめてある。

アガサ・クリスティ(1890〜1976)「ミステリの女王」の名を冠されたイギリスを代表するミステリ作家。ベルギー生まれの名探偵エルキュール・ポアロの登場する「 スタイルズ荘の怪事件」でデビュー。「ABC殺人事件」「三幕の殺人」「ハーゼルムアの殺人」など、ポアロもののほか、田舎住まいの詮索好きなおばあちゃんミス・マープルが登場するシリーズなど、膨大な作品を残した。

立ち読みフロア
 それから数日後には、ベレズフォード夫妻は国際探偵事務所に落ち着いていた。この事務所はブルームズベリーの、少々老朽ぎみのビルの三階にあった。すぐ入ったところにある狭い事務室では、アルバートが、ロング・アイランド流儀の執事役は放擲(ほうてき)して、受付係の役割を演じていたが、このほうが彼も名優ぶりを発揮できた。彼の解釈によると、紙袋入りのお菓子をそばに置き、指をインキでよごし、髪をもじゃもじゃにしているのが、この役柄の特徴ということになるらしかった。
 表の部屋には、奥に通じるドアが二つあった。一つのドアには〈秘書室〉と書いてあり、もう一つには〈私室〉とあった。あとの戸口をはいると、狭いながらも居心地のいい部屋があって、大きな事務用のデスクや、どれも中身はからっぽなのだが、芸術的な趣向をこらしたラベルのはってあるいくつものファイルや、数脚のがっしりとした革椅子が備えてあった。デスクの背後には、にせブラント氏が、生まれて以来ずっと私立探偵業をやってきたような顔つきをしようとつとめながら、坐りこんでいた。もちろん彼のすぐ横には電話も備えてあった。電話の効果的な利用のしかたはタペンスと二人で何度も練習ずみだったし、アルバートにもいろんな場合の指示が与えてあった。
 隣りの部屋には、タイピスト役のタペンスがおさまっていて、大探偵の部屋の調度に比べれば質は劣るが、必要なテーブルや椅子は備えてあり、湯沸し用のガス・コンロも置いてあった。
 実際何ひとつ欠けたものはなかったが、かんじんの依頼客だけは皆無だった。
 開店早々の有頂天な頃には、タペンスもいくつかの輝かしい希望を抱いていた。
「すばらしいことになりそうだわね」と彼女は声をはずませて言ったものだった。「わたしたちは殺人犯人を追及したり、紛失した家宝を捜し出したり、行方不明の人間を捜査したり、公金横領者を摘発したりするのね」
 そこでトミーは少々彼女の夢に水をぶっかけておく必要があると思った。
「まあ気を静めろよ、タペンス。きみの平生読んでいる安っぽい小説のことなんか忘れなきゃ。こういう所へくる依頼者はだね――かりに一人でも依頼者があるとすればだよ――女房の尾行を頼みにくる亭主か、亭主の尾行を頼みにくる女房にきまってるんだから。離婚のための証拠集めが私立探偵事務所の唯一の稼ぎ道なのだぞ」
「くだらない!」とタペンスは言って、潔癖そうに鼻に皺(しわ)を寄せた。「離婚問題なんかに関係するのはまっぴらよ。わたしたちは今度の新しい職業の格調を高めなきゃ」
「そうだね」とトミーは自信のなさそうな返事をした。ところが、探偵業を始めて一週間になった今は、二人は少々がっかりした様子でこんなふうに意見を交換しあった。
「亭主が週末に家をあけると言ってきたバカみたいな女が三人あっただけか」とトミーはため息をついた。「僕が昼めしを食いに行っていたあいだには、誰も来なかったかい?」
「浮気っぽい細君を持った、ふとっちょの爺さんだけよ」タペンスもなさけなさそうに溜息をついた。
「離婚の弊害が増加しだしているのは、もう何年も新聞で知らされてはいたけど、なぜかぴんとこなかったのよ。ところが、この一週間ではじめてはっきり悟らされたわ。わたしはもう、《当事務所では離婚問題は扱いません》とことわるのに、うんざりだわ」
「その文句は広告にも入れることにしたではないか」とトミーは慰めた。「今後はそう悩まされることもあるまい」
「いかにも誘惑的な文句もいれているはずよ」とタペンスは陰気な声で言った。「それにしても、わたしは降参しないわよ。やむをえなきゃ、わたしが自分で犯罪を犯すから、あなたがそれを摘発すればいいわ」
「そんなことをして何の役に立つんだい? ボー街できみに涙ながらに別れを告げる時の僕の気持も考えてくれよ――それとも、あれはヴァイン街だったかな?」
「あなたときたら、独身時代のことでも想い出しているんじゃないの」とタペンスは声をとがらせた。
「ああそうそう、オールド・ベイリー〔ロンドンの中央刑事裁判所〕だったよ」とトミーは言った。
「とにかく、何か手をうたなきゃだめだわね」とタペンスは言った。「わたしたちは、はち切れそうなほど才能を持っているのに、それを使う機会がないなんて、意味ないわよ」
「きみの陽気な楽観主義には昔から感心させられているよ。きみは使える才能を持っていることに全然疑問を抱いていないらしいね」
「もちろんよ」とタペンスは言って、ぐっと大きく眼を見開いた。
「そのくせ、きみは専門的な知識なんかぜんぜん持ってもいないじゃないか」
「だって、この十年間に出版された探偵小説は一冊残らず読んでいるわよ」
「そりゃ僕だって同じだが、あんなものは、実際には大して役に立ちそうにない気がする」とトミーは言った。
「あなたは前から悲観論者だったわよ、トミー。自信を持たなきゃ――それがなによりかんじんよ」
「きみは自信だけは申し分なしだよ」と、彼女の良人は言った。
「そりゃ探偵小説ではうまくゆくはずだわ」タペンスは考え顔になった。「逆に考えてゆけばいいんだもの。前もって解決を知っていれば、それに従って、手がかりも配列できるわけだから。そう言えば、なんとなく」
 彼女は言葉をとぎらせ、眉をよせた。
「ええ?」とトミーはうながした。
「なんとなく名案が浮かんだみたいだわ」とタペンスは言った。「まだはっきりとは浮かんでいないんだけど、浮かびかかってるのよ」彼女は決然として立ちあがった。「この前話したあの帽子を買いに行くことにするわ」
「おや、おや! また帽子か!」とトミーは言った。
「すばらしい帽子なのよ」と彼女は威張って言い返した。
 彼女は決然とした表情を浮かべて出て行った。
 それからの数日、トミーは一、二度好奇心を起こしてタペンスの名案なるものを訊いてみた。だが、タペンスは首を振るだけで、もうすこし余裕をくれと言った。
 そのうちに、あるすばらしい朝、最初の依頼客がやってきてくれたので、ほかのことは何もかも忘れてしまった。
 事務所の表のドアにノックの音がし、すっぱいドロップを口にほうりこんだばかりだったアルバートは、聞きとりにくい声で、「おはいり」とどなった。次の瞬間には、彼は驚きと嬉しさのあまりに、そのすっぱいドロップをまるのまま呑みこんでしまった。それというのも、この客はどうやらほんものらしかったからだ。
 すばらしい服をきれいに着こなした背の高い青年が、ためらいがちに、戸口に突っ立っていた。
「どう見ても、こいつは上流の人間だぞ」とアルバートは思った。こういう事柄になると彼の判断は当たるのだった。
 その青年は、年の頃は二十四歳くらいで、黒い髪をきれいに撫でつけており、眼のまわりがぼうっと赤みをおびかかっていて、顎(あご)なんかないみたいだった。
 アルバートは有頂天になってデスクの下のボタンを押した。とたんに〈秘書室〉とあるあたりで、タイプライターの音がパチパチと猛烈な勢いで鳴りだした。タペンスが大急ぎで持ち場についたのだった。その忙しそうな音も青年をいっそう威圧する効果を狙ったものだった。
「失礼だが、ここが、その――なんとかいう探偵事務所ですか?――優秀な探偵揃いのブラント、とかいう? なんでもそういった種類の文句だったと思うけど」
「ブラント氏に直接お会いになりたいご希望なのでしょうか?」とアルバートは、そんな大それたことがとりはからえるかどうか疑問だといった調子で、聞き返した。
「まあ――そういったところなのだがね。取り次いでもらえるかね?」
「面会約束はしていらっしゃらないのではありませんか?」
 客はますます弁解的な態度になった。
「実はそうなのだがね」
「前もって電話しておかれるとよかったのですがね。なにしろブラント氏は多忙をきわめておられるかたなのですから。今も電話でお話し中なのですよ。警視庁から相談を求められましてね」
 青年はその言葉に感銘をうけた様子だった。

……「 お茶でも一杯」冒頭より


購入手続きへ  (1) (2)


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***