「宇宙の小石」

アシモフ/ 高橋豊訳

ドットブック版 341KB/テキストファイル 207KB

600円

悠々自適の隠居生活をおくっていたシュヴァルツじいさんは、原子核研究所で行なわれた実験によるふとした偶然で、数万年後の銀河世界へタイム・スリップしてしまった。地球は核戦争のために表面のほぼ全域が放射能に汚染され、辺境星域に浮かぶちっぽけな小石にすぎなくなっていた。食糧難に瀕する 地球の住民は、エンシアンツ党なるナショナリズムにこりかたまった結社に支配されており、党の一味は銀河帝国を構成する諸世界を相手に、密かな恐るべき陰謀をめぐらしていた。その渦中に巻き込まれた一人の老人の勇気ある行動は、全宇宙を救えるのか。巨匠アシモフの面目躍如の処女長編。

アイザック・アシモフ(1920〜92) 現代アメリカの代表的なSF作家。名前が示すようにロシアに生まれ、3歳の時、一家とともにアメリカに移住し、帰化した。ブルックリンのハイスクールを卒業してコロンビア大学に入り、生物学を専攻し、後に博士号もとった。本来の生化学に加えて、天文学に至るまで自然科学にひろく通じ、これを基盤としてロボットテーマ、未来史テーマを駆使し、SFの新分野をきりひらいた。代表作「宇宙気流」「ファンデーション」、またロボットを扱った短編集「われはロボット」、長編「鋼鉄都市」「裸の太陽」など多数あり、また、自然科学の啓蒙書として「原子の内幕」「空想天文学入門」「空想自然科学入門」がある。

立ち読みフロア
 ジョゼフ・シュヴァルツがなじんできたこの地球上から、永遠に姿を消すわずか二分前まで、彼はブラウニングの詩をくちずさみながら、シカゴ郊外の快適な通りをぶらぶら歩いていたのだった。
 シュヴァルツは通り合わせたどんな人にも、ブラウニングの詩をくちずさむようなタイプの男には見えなかっただろうから、これはある意味では奇妙な光景だったにちがいない。彼は見かけどおりの男だった。洋服の仕立屋の職人だったが、引退して、いまは隠居の身。最近のインテリのいわゆる正式な教育などまったく受けていなかった。しかし彼はもの好きな性格がこうじて手当たりしだいに読書していた。ものの見境いのない純粋な知識欲によって、ほとんどあらゆることについての浅薄な知識をかき集め、器用な記憶力によってそれを正確にたくわえていたのだ。
 たとえば、彼はずっと若かったころ、ロバート・ブラウニングの『ベン・エズラ先生』を二度読んだ。ということはもちろん、それを暗記したということである。その大部分は意味がよくわからなかったが、その最初の三行だけは、数年前から彼の心臓の鼓動とぴったり調子が合うようになっていた。一九四九年のからりと晴れわたった初夏のその日も、心の静かな砦(とりで)の奥で、それをくちずさんでいたのだった。

 わたしとともに老後を迎えよう!
 最良の日はまだ未来にある
 人生は限りある定めなれども……

 シュヴァルツは深い感慨を味わった。若いころはヨーロッパでつらい修業生活を送り、さらに二十代からはアメリカで労苦の日々を送った後での、この安らかな老年の生活は楽しかった。自分の家を持ち、充分な金を貯えて引退できた。妻は健康で、二人の娘はしあわせな結婚をし、老年の慰めになる孫も一人いる彼にとって、なんの心配もあろうはずがなかった。
 もちろん核兵器の問題があり、第三次世界大戦についての挑発的な論議もなされていたが、しかしシュヴァルツは人間性の善意を信じていた。もはや戦争があるとは思えなかった。地球上の人類がふたたび怒り狂って、太陽のような核爆発を起こさせるとは思えなかった。したがって彼は、通り合わせた子供たちに寛大な微笑を投げ、彼らがすこやかに、あまり苦労せずに成長して、やがてきたるべき最良の平和を迎えることを、無言のうちに祈った。
 そして彼は歩道のまん中に、まるで捨て子のように放置されている縫いぐるみの人形をまたぐために、微笑しながら片足をあげた。しかしその足は二度とおろされることはなかった……。

 シカゴのべつの地区に原子核研究所があった。その所員たちも人間性の本質的な価値については、自分なりの意見を持ってはいたが、人間性の価値を実測できる計器などまだ考案されてもいない以上、その意見を声高(こわだか)に唱えるのはいささか気恥ずかしく思っていた。したがってその問題について考える場合は、興味深くまた罪のないさまざまな発見を、人間が(あるいはその呪わしい才知が)恐るべき兵器に変えてしまいませんように、何か神力のようなものがそれを防いでくれますように、と願う程度にとどまることが多かった。
 しかし、いつかは地球上の人類の半数を殺すかもしれない原子核研究にたずさわっている彼らではあったが、危急の際にはとるにたらぬ同僚の命を救うために、自分の命を賭けるような危険をおかすこともあった。
 最初にスミス博士の目をひいたのは、所員である化学者の背後で輝く青い光だった。
 博士がなかば開いているドアの前を通りかかって、なにげなく中をのぞいたとき、それが目にとまったのだ。若い快活なその化学者は口笛を吹きながら、溶解液がすでに渦を巻きはじめている計量用のフラスコを手に取った。白い粉がその液体の中をゆっくり揺れ動きながら溶解点に達しつつあったのだ。一瞬それだけのように思われたのだが、つぎの瞬間、最初にスミス博士の足をとめさせた本能が彼を行動へ駆りたてた。
 彼は部屋の中へ飛びこむと、木製のヤード尺をつかんで、いきなり実験台の上にあるものを床へ払い落とした。溶けた金属がしゅうっとすさまじい音を発した。スミス博士は汗が鼻の端をつたって落ちるのを感じた。
 若い所員は、銀色の金属が飛び散ってすでに薄い膜になってこびりついているコンクリートの床を、呆然と見つめた。それらの膜はまだ高熱を発散していた。
 彼はかすれた声でいった。「いったいどうしたんです」
 スミス博士は首をすくめた。彼自身もまだ平静な状態ではなかった。「わたしにもよくわからんのだが……きみはここで何をしていたんだね」
「べつにたいしたことは何もしていませんでした」と、若い化学者はこたえた。「天然のウラニウムのサンプルがこの上にあっただけです。ぼくは電解銅の測定実験をしていて……。ですから、何も起こるはずがないと思うんですけど」
「何が起こったにせよ、とにかくわたしが何を見たのかをきみに説明することはできるよ。あの白金の《るつぼ》はコロナ状の光を発していた。高度の放射作用を起こしていたんだ。ウラニウムだといったね」
「はい、しかし天然のウラニウムですから、危険なものじゃありません。つまり、核分裂を起こすためのもっとも重要な必要条件の一つは、純度がきわめて高いことなのですから」彼はすばやく舌で唇をなめた。「それでも、やはり核分裂だったと思っていらっしゃるのですか。あれはプルトニウムじゃないし、衝撃も受けていなかったのですよ」
 スミス博士は考え深げにいった。「しかもこいつは臨界質量以下だった。少なくともわれわれの知っている臨界質量よりも少なかったことは確かだ」彼はせっけん石の実験台や、焼けただれた整理棚の塗料や、コンクリートの床に飛散した銀色の膜を見まわした。「しかし、ウラニウムはおおよそ摂氏千八百度で溶けるし、核の諸現象はわれわれがそう簡単に決めつけられるほどよく知られているわけじゃない。いずれにせよ、ここは飛散した放射性物質でかなり汚染されているにちがいない。この金属膜が冷めたら、きみはそれを削り取って、集めて徹底的に分析した方がいいだろう」
 博士はあたりを気づかわしげに見まわしてから、正面の壁の方へ行き、肩の高さほどの位置にある一つの点をいぶかしげに手でさわってみた。
「なんだ、これは」と、博士は若い化学者にいった。「これは以前からずっとここにあったのかね」
「えっ、なんでしょうか」青年は不安にかられたように足早に近づき、老博士の指さしている点を見つめた。それは細い釘を壁に打ちこんでから釘を抜き取ったような、小さな穴だった――しかしそれはこの建物のしっくいやレンガの厚い壁を打ち抜いていて、その穴を通して外の日光が見えた。
 化学者は首を振った。「いままで見たことがありません。もっとも、気がつかなかっただけかもしれませんが」
 スミス博士は何もいわなかった。彼はゆっくり後ろへさがって、温度調節器のそばを通りすぎた。それは直方体の薄い金属の箱で、中では水がモーターによってかき回され、加熱器としてはたらく電球が水銀リレーのたてるカチカチという音といっしょについたり消えたりしていた。
「それじゃ、これは以前からあったのかね」スミス博士は立ちどまって、温度調節器の広い方の側面の上端に近いところを、指の爪で軽くこすった。金属板にあけられたきちんとした円形の小さな穴。水はそこまでは達していなかった。
 若い化学者は目を見張った。「いいえ、そんなものは最近までありませんでした。それは確かです」
「なるほど。反対側にも穴があいているんじゃないかな」
「あっ、ほんとだ。ありますよ!」
「よし、それじゃこっちへきて、二つの穴を見通してごらん……。温度調節器のスイッチを切ってくれ。さあ、ここに立って」博士は壁の方へ行って、そこにあいている穴に指先をあてがった。
「そっちから何が見える?」
「あなたの指先が見えます。そこは穴のあいているところですか」
 スミス博士はその質問に答えず、感情を切り離したような冷静な態度でいった。「それじゃ、反対側から見通してごらん……。こんどは何が見えるかね」
「何も見えません」
「いや、あのウラニウムの《るつぼ》がおいてあった場所だよ。実験台の上のその正確な位置が見えるだろ?」
 若い化学者はためらいがちに答えた。「はい、どうやらそのようですね」
 スミス博士はあけっぱなしになっているドアについている名札をちらっと見て、冷やかなきびしい口ぶりでいった。「ジェニングズ君、これは極秘事項だよ、わかったかね。だれにもこのことを話さないように」
「はい。わかりました」
「それじゃここから出よう。放射線の係員たちをよこして、この部屋を調べさせることにする。そしてきみとわたしは診療所にしばらくとじこめられることになるだろう」
「放射能による害を受けているのでしょうか」若い化学者の顔が青ざめた。
「それは、いずれわかるだろう」
 しかし、二人とも放射能による害を受けている徴候はなかった。血球測定の結果も正常だったし、髪の毛根の検査からも異常は発見されなかった。吐き気がしてきたことは、いわゆる心身症にすぎないと診断され、ほかにはどんな症状も現われていなかった。
 しかしまた、小さな《るつぼ》の中の危険な濃度をはるかに下回る天然ウラニウムが、直接的な中性子衝撃も受けなかったのに、なぜ突然溶解して重大な恐ろしい意味をもつコロナ状の閃光を放射したのかについては、研究所内のだれひとりとして、そのときもその後の長い年月においても解明できなかった。
 ただ一つの結論は、原子物理学はその中に奇怪で危険な亀裂を残している、ということであった。

 ……冒頭より


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