「完全殺人事件」

クリストファー・ブッシュ/原百代訳

ドットブック版 304KB/テキストファイル 224KB

600円

事件は新聞社への一通の投書に端を発した。それは、日時と場所までを明記した殺人の予告であった。しかも犯人は傲慢にも、これは完全犯罪であり、絶対発覚しないと当局に挑戦状を突きつけてきた。この不敵な意図は鉄壁のアリバイに支えられていた。犯人の意気ごみとこれを受けて立つ当局との攻防を描くアリバイくずしの名作。

クリストファー・ブッシュ(1885〜1973)同時代のクロフツとならび、アリバイくずしを本領としたイギリスの本格ミステリ作家。ロンドン大学キングズ・カレッジ卒。26年、「プラムリーの遺産」を発表し、ミステリ作家としてデビュー、その3年後に著わした第2作の「完全殺人事件」が代表作となった。

立ち読みフロア
一 プロローグとして

 プロローグというものは、読者の側からいえば、とかく長すぎたり短すぎたりして苦手なものだ。見事な出来ばえのプロローグに出会えば、立派な料理を前にしてのカクテル一ぱいというところで、その楽しさはいっそうである。ところが、その反対となるとこれは災難だ。はじめて出会った人物から余儀なく長講一席をうけたまわるようなもので、あとにつづく本文までが味気ないものに見えてくる。
 この章がそのどちらであるかは、読者諸君の判断におまかせするが、もしも冒頭から、なくもがなの感じを与えるとしたら、それはすべて作者の筆の拙(つたな)さのせいである。こういう形式の是非は別として、このプロローグは書いておくだけの必要があるのだ。その理由を少し述べてみると、まずこれで、物語を遠い過去にまで遡らせる手間を省くことができる。それによって、あとにつづく料理のコースを、順序の変更なしに追っていくことができる。さらに、一言つけ加えさせてもらうとすれば、読者諸氏にアマチュア探偵の才能がある場合のことである。このプロローグのうちに、事件の解答がひそんでいること――少なくともその謎を解く鍵の主な部分が、あからさまに提示されていることを、読者諸氏に申し上げておこう。
 このプロローグは三つの挿話からできあがっているが、その順序は、挿話の日時どおりにはなっていない。そればかりか、そのうちの一つは、大体こうでもあったろうかという想像によるものである。だが、記述の事実は、そのどれもが真実である。よしんば、それを形成している個々の行動の描写に曖昧な点があったにしても、全体として見れば、その場面の暗示する意味に、絶対間違いないのである。

 A

 ウィルフォード夫人はよほど気のつくたちだったにちがいない。娘にキスをしながら、その眼が赤くはれあがり、頬が涙のあとで汚れているのを見てしまった。汽車での三時間を、娘は泣いて過ごしたにちがいない。だが母親はそれで不安になったことを、素振りにさえみせなかった。熟練した看護婦が細心に患者を扱うように、その場をうまくとりつくろって、娘の手から小さなスーツケースと籐のバスケットを受け取った。
「どう? 変わりはなくて?」
 そう聞いてから、相手の返事も待たずに、つけ加えていった。
「荷物はこれだけ?」
「あとトランクが一個残っているわ」
 悲しそうにミリーはいうと、赤帽を呼んだ。トランクは手車で運ばれてきた。ミリーがまだ、セットフォードへ着いたという実感になれないうちに、タクシーは母親の家に向かって走りだしていた。もっとも、タクシーに乗ることについては、母娘のあいだに、ちょっとした口争いがあった。
「もったいないわ、お母さん! バスを待ちましょうよ」
「何をいうの。たまにはわたしの好きなようにさせてちょうだい。タクシーなら早く帰れるじゃないの。あんたが帰ってくるというので、ちゃんと支度をしてあるんだよ」
 娘の悲しみを見て、母親は考えていた。どんな辻褄のあわぬことでもいいから、何か喋りつづけていなければいけない――
「で、途中お天気はどうだった?」
 タクシーが町はずれの小さな家に着いた。せまい居間に入ると、ミリーはいきなり泣き伏してしまった。見馴れた家具と、それにまつわる思い出のかずかずが、彼女をたまらない気持にさせてしまったらしい。娘に泣き出されたので、母親も泣いた。二人の女は、声を立てて泣いた。やがて、娘のほうから涙を拭きはじめた。しっかりしなければいけないという考えが、彼女の胸に湧いてきたのだろうか。
「泣いたって、なんにもならないわ、お母さん。さきのことをくよくよ心配することはないわね。考える時間は、これからたっぷりあるんですもの」
 そのくせお茶を飲んでいる間も、世間話はいっこうに出なかった。年老いた母親にとって、妻が夫をおいて家出をすることは、神さまをないがしろにする、おそろしい仕業(しわざ)であった。世間の道にそむく真似をすれば、天罰が怖ろしいと言って聞かせたかったのだが、すぐにまた彼女は考えなおした。言って聞かせるにしても、よほどこれは注意しなければなるまい。遠まわしに話しだすのが必要だろう。
「借りてた部屋は、どうしてきたの?」
「引き渡してしまったわ。家具だの道具だの、ここへ持ってきた物のほかは、みんな売りはらってしまったの。フレッドが帰る気にさえなれば、あたしの居所ぐらい探しだすと思うわ」
 母親はちょっと考えていたが、
「それはそうだろうね。女が最後に帰るところといえば、母親の家にきまっているもの」
 そう聞くとミリーは、急に激情的にしゃべりだした。
「そうだわ。お母さんには、何もかも聞いておいてもらうほうがいいわ。こんなことを話して、心配かけてもいけないと思ったけど、やっぱり聞いておいてもらうことにするわ。あたしとフレッドとはうまくいきそうもないのよ。あたし別れてしまう気で、家へ帰ってきてしまったの」
 彼女は立ち上って、化粧テーブルの上のハンドバッグから一通の手紙を持ってきた。母親の手に投げるように渡して、
「読んでみてちょうだい。あたしの気持、納得してもらえると思うわ」

……冒頭より


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