「オペラ座の怪人」

ガストン・ルルー/三輪秀彦訳

ドットブック版 396KB/テキストファイル 250KB

700円

夜ごと華麗な舞台が繰り広げられる世紀末のパリのオペラ座。だが舞台の裏では大道具主任の首吊り死体が発見され、公演中の天井のシャンデリアが落下する惨事が起こり、おまけに主役の歌姫が舞台から忽然と消え去るという奇怪な事件があいつぐ。座中で最近うわさになっていた「幽霊」のしわざではないかと誰もが疑心暗鬼になった。だが果たして真相は? 愛する歌姫を追ってオペラ座の奈落の底へ分け入ったシャニイ子爵が出会ったのは、この世ならぬ哀切な愛の 相克だった。数々の映画化、ミュージカル化で話題をさらったルルーの傑作長編。

ガストン・ルルー(1868〜1927) ルブランと並ぶ、フランスを代表するミステリ作家。パリ生まれ。事件記者的なジャーナリストとして世界を股に活躍したあと、1900年代初めから小説に手を染め、「黄色い部屋の秘密」(1907)で一躍有名になった。この作に登場する若き新聞記者ルールタビーユを主人公にしたミステリ・シリーズは、フランスではルパンものと並ぶほど有名である。1910年には怪奇幻想を盛り込んだ「オペラ座の怪人」を発表、一躍評判となった。

立ち読みフロア

 その夜は、オペラ座の支配人を辞めることになったドビエンヌ氏とポリニイ氏が、退任に際して、最後の特別上演を催した夜であったが、ソロ舞踏家の一人であるソレリの楽屋は、『ポリュークト』を踊った後で舞台から降りてきた五、六人のバレエ団のお嬢さんたちによって、たちまち占領されてしまった。彼女たちのある者は不自然で、度を越した笑い声を、またある者は恐怖の悲鳴をあげながら、楽屋にとび込んできたのだった。
 ソレリは、もうすぐ楽屋でドビエンヌ氏とポリニイ氏に向かって口にすることになる挨拶を何度も練習するため、しばらくひとりでいたいと思っていたので、このうるさい一団が自分の背後に殺到してくるのを鏡越しに不機嫌そうに見ていた。ところが仲間たちのほうを振り向いた彼女は、みんなのあまりに激しい興奮ぶりに不安になった。恐怖を押し殺した震え声で、その理由を短い言葉で教えてくれたのは、グレヴァン蝋人形館でおなじみの小さな鼻、勿忘草(わすれなぐさ)のような目、ばらのような頬、百合のような胸もとの、ちびのジャムだった。
「幽霊が出たのよ!」
 そして彼女はドアに鍵をかけた。ソレリの楽屋は堅苦しくて月並みな優雅さに溢れていた。大型の鏡台、長椅子、化粧台、それにいくつかの洋服だんすが主だった家具だった。壁に掛けられた数枚の版画は、ル・ペルティエ街の旧オペラ座の華やかな時代を知っていた母親の思い出の品だった。ヴェストリ、ガルデル、デュポン、ビゴティーニたちの肖像画。この楽屋は、共同控室――彼女たちはその部屋で、歌ったり、言い争ったり、髪結い係や衣裳係の女性たちを叩いたり、呼び出し係のベルが鳴るまで、自腹を切って黒すぐりのリキュールやビール、さらにはラム酒などを飲んだりしていたのだが――に入れられているバレエ団の娘たちには、まるで王宮のように思えた。
 ソレリはとても迷信深い女だった。ちびのジャムが幽霊の話をするのを耳にすると、彼女は身震いして言った。
「いやな子ね!」
 そして彼女は概して幽霊というものを、とりわけオペラ座の幽霊を真っ先に信じるような女性だったので、すぐに詳しく知りたくなった。
「ほんとに見たの?」と彼女は尋ねた。
「いまあなたが見えるようにね!」とちびのジャムはあえぎながら答えたが、もう立っていられなくなって、崩れるように椅子に坐り込んだ。
 するとすぐに、干しすもものような目、墨(すみ)のように黒い髪、褐色の肌、貧弱で小柄な骨格に、肉づきもあまりよくないちびのジリイが付け加えた。
「あれがそうなら、ずいぶん醜男(ぶおとこ)ね!」
「ああ! 本当にね」とバレリーナたちのコーラスが口をそろえて言った。
 それから彼女たちは全員が一緒になって話した。その幽霊は黒服の紳士姿で現われたのだが、どこからやって来たのか、突然廊下で彼女たちの前に突っ立っていたのだ。あまりにも素早い現われ方だったので、まるで壁から抜け出てきたみたいだった。
「ふん!」と彼女たちのなかで、ほぼ冷静さを保っていた一人が言った。「あの幽霊はそこらじゅうで姿を見られてるのよ」
 そしてたしかに数か月前からオペラ座は、その黒服姿の幽霊の話題で持ちきりだったのである。その幽霊ときたら、建物の上から下まで影のように歩きまわり、誰にも話しかけず、誰にも話しかけられず、おまけに姿を見られるやいなや、どこからどのようにしてか姿を消してしまうのだ。そいつは本物の幽霊にふさわしく、歩くとき音をたてなかった。まるで社交界の人間か葬儀屋みたいな服装をしているその幽霊のことを、みんなは笑いとばしたり嘲ったりしはじめていたが、バレエ団ではその幽霊伝説はやがて途方もなく大きくなっていった。バレリーナの全員が多かれ少なかれその超自然的な存在に出会ったと主張しており、またそいつのさまざまな悪意の被害者であった。そしてどんなに強く幽霊を笑いとばしていた娘たちでも、決して安心していたわけではなかった。幽霊はまったく姿を見られない場合でも、滑稽な、または不吉な出来事によってそれがいることや通り過ぎたことを知らせており、ほぼ全員の心をとらえていた迷信がそうした出来事を幽霊のせいにしていた。ちょっとした事故も、バレエ団の娘たちの一人が仲間にいたずらをしたことも、白粉のパフがなくなったことも、すべてが幽霊の、オペラ座の幽霊のせいにされたのだった!
 本当のところ、誰がその幽霊を見たというのか? オペラ座では、幽霊でなくても、黒服姿の男はめずらしくない。しかしその幽霊には、どんな黒服の男も持っていない特徴がひとつあるのだ。そいつは骸骨の上に服を着ているのである。
 少なくとも、バレリーナたちはそう言っていた。
 そしてもちろん、そいつの顔はどくろになっていた。
 こうした話はすべて信頼できるだろうか? 実際には骸骨という想像は、道具方主任のジョゼフ・ビュケが幽霊についてした描写から生まれたのだった。彼は本当に幽霊を見たのである。フットライトの近くからじかに「奈落」へと通じる狭い階段で、彼はその謎の人物に――「鼻と鼻とがぶつかるほど」とは言えないだろう、なにしろ幽霊には鼻がないのだから――出くわしたのだった。彼には一瞬だが――幽霊は消え失せてしまったから――相手を見る余裕があり、その姿を拭いがたく記憶に留めることができた。
 そしてジョゼフ・ビュケは、話を聞きたがる人に向かって、次のように幽霊について話しているのである。
「そいつはものすごくやせた、骸骨みたいな骨格をしていて、黒い服がだぶだぶだったよ。目はすごく奥に引っ込んでいるから、じっと動かない瞳もよく見分けられないほどだ。要するに、どくろみたいに二つの黒い大きな穴しか見えないんだよ。皮膚は太鼓の革みたいに骨の上にぴんと張られていて、白いどころか、気味が悪いほど黄ばんでいる。鼻ときたらないも同然で、横からでは見えないほどだ。それに鼻がないってのは、見てぞっとするものだよ。額の上や耳の後ろの三、四本の長い毛は、頭髪の代わりをしてたな」
 ジョゼフ・ビュケはその異様な幽霊を追いかけたが、無駄であった。そいつは魔法を使ったみたいに姿を消してしまい、その足取りをたどることはできなかった。
 この道具方主任は真面目で、堅気な男で、想像力も乏しく、控え目な性格だった。みんなはあきれ顔で面白そうに彼の話に耳を傾けたが、たちまち彼の前に、自分たちも死人の顔をした黒服姿の男に出会ったと話す連中が現われた。
 この話を間接的に耳にした良識のある人たちは、はじめのうちジョゼフ・ビュケが部下の一人のいたずらに引っかかったのだと断言した。それから、あまりにも奇怪で不可解な出来事が次から次へと起こったので、どんなに皮肉屋の人たちも心配しはじめたのだった。
 消防係副主任といえば、勇敢な男である! 何ものをも恐れない。とりわけ火は!
 ところがである。問題のその消防係副主任〔原注。わたしはこの話を、オペラ座の旧支配人ペドロ・ゲラール氏からも、やはり実話として聞いている〕は、奈落にちょっと見回りに出かけ、どうやらいつもより少し遠くまで足をのばしたらしいのだが、突然に青ざめ、おびえきって、がたがた震えながら飛び出さんばかりの目をして舞台に戻ってくるや、ちびのジャムの、堂々たる母親の両腕のなかで半ば気を失ってしまったのだ。その理由は? 頭の高さを、「胴体もないのに、火に包まれた頭が」自分に向かって進んでくるのをゥたからなのだ! 繰り返して言うが、消防係副主任といったら、火を恐れないものである。
 この消防係副主任はパパンという名前だった。
 バレエ団員たちは愕然となった。まず第一にこの火に包まれた頭は、ジョゼフ・ビュケが幽霊について語った描写とはぜんぜん一致しなかった。消防係によく問いただし、道具方主任にもう一度尋ねてから、そのバレリーナたちは、幽霊には頭がいくつもあり、思いのままにそれを取り換えることができるのだと信じるにいたった。もちろん彼女たちはすぐに、自分たちがこの上もない危険にさらされているのだと想像した。なにしろ消防係副主任だってすぐに失神したのだから、照明の悪い廊下の暗がりを通り過ぎるときに、小さな足で全速力で逃げ出すほどの恐怖を感じたとしても、バレエ団の第三位の踊り子や見習生たちはいくらでも言い訳が立つわけだ。
 というわけで、これほど恐ろしい悪意にさらされたオペラ座の大建造物をできるだけ守るために、ソレリ自身が、バレリーナ全員に取り巻かれ、さらにはタイツ姿の年少のクラスの少女全員を従えて――例の消防係副主任の物語の翌日に――管理事務所の中庭側にある入口の玄関ホールのテーブルの上に、馬の蹄鉄を一個置いたのだった。観客とは別の資格でオペラ座に入る人間は、階段の最初の段に足をかける前に、その蹄鉄に手を触れねばならなかった。そしてそれに違反すれば、建物を地下室から屋根裏部屋まで支配している秘密の力の餌食になってしまうのだ!
 この蹄鉄は、この物語全体と同様――悲しいかな!――決してわたしの作り話ではない。だから今日でもなお、管理事務所の中庭からオペラ座へ入る場合、門衛室の前にある玄関ホールのテーブル上に、それを見ることができるのである。
 以上のことは、わたしたちがあのお嬢さんたちとソレリの楽屋へ足を踏み入れた夜、彼女たちの精神状態がどんなであったかを、かなり手際よく教えてくれる。
「幽霊が出たのよ!」と、ちびのジャムが叫んだのはそれゆえのことだった。
 そしてバレリーナたちの不安はいちだんと増すばかりだった。いまでは、息づまるような沈黙が楽屋を支配していた。もはや聞こえるのはあえぐような呼吸の音だけだった。ついには、ジャムが心からおびえきった表情で、楽屋の壁のいちばん奥まった片隅に身を縮め、ひとこと呟いた。
「聞こえるでしょう!」
 たしかにドアの向こう側から軽く触れる音が聞こえてくるように思えた。足音はまったくしない。まるで軽い絹が羽目板の上を滑っていくような音だ。それから、もう何も聞こえなくなった。ソレリは仲間たちほど臆病ではないことを示そうとした。彼女はドアの前にすすみ出ると、感情を押し殺した声で尋ねた。
「そこにいるのは誰なの?」
 しかし返事はなかった。


……巻頭より


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