「静かな生活」

マルグリット・デュラス/白井浩司訳

ドットブック 192MB/テキストファイル 125KB

400円

都会の生活に疲れ、南仏ペリグーの田舎に暮らすようになった平凡な一家。だが一見平穏で「静かな生活」の中味は決して静かではない。フランシーヌは弟ニコラをけしかけて叔父ジェローム殺しに手を貸す。ニコラは自殺する。疲れた心をいやすために訪れた海辺では、フランシーヌは一人の男が溺れ死ぬのを目撃する。だが彼女はその救助に手を貸そうとはしない……現代のフランス女流文学を代表するデュラスの初期異色作。

マルグリット・デュラス(1914-96)現在のベトナム南部の生まれ。ソルボンヌ大学で法学士と経済学士号を得たあと出版社に勤務。1944年、三十歳のとき「静かな生活」を発表、しばらく間をおいたあと「太平洋の防波堤」「ジブラルタルの水夫」を発表して旺盛な作家生活にはいり、「モデラート・カンタービレ」「夏の夜の十時半」などの代表作を生み出した。シナリオ作家としても有名で「ヒロシマ、私の恋人」は世界的な成功を収めた。

立ち読みフロア

 ジェロームはからだを二つに折りまげて、ビュグの方へ帰って行った。私はニコラに追いついた。彼はけんかの直後、鉄道線路の土手に倒れていた。私は彼のそばに腰をおろしたのだが、ニコラはそのことに、まるで気がつかなかったと思う。彼は、道が森にかくれて見えなくなるところまで、ジェロームの姿を目で追った。そのとき突然ニコラが立ちあがったのだ。私たちは叔父に追いつくために走った。彼の姿がまた見えたときすぐに、足どりをゆるめた。私たちは彼の二十メートルばかり後ろを、同じようにゆっくりと歩いて行った。
 ニコラの全身から汗が吹きでていた。髪は張りつき、房になって顔の上に垂れていた。胸には赤ぐろいしみができ、息をきらせていた。わきの下から汗が流れ、しずくになって、腕をつたわっていた。彼は異常な注意をこめて、ずっとジュロームの様子をうかがっていた。叔父の、人を寄せつけぬ背中ごしに、ニコラはきっとこのとき、これからつづいて起こることのすべてを、予測したのだ。
 道はビュグまで、けわしい上り坂になっている。ジェロームは時どき土手に寄りかかり、かがみこんで、両手でわき腹をおさえた。
 ちょっとした瞬間に、彼は、後方にいる私たちを見たが、私たちだと気がついた様子ではなかった。あきらかに、彼はひどく苦しんでいた。
 ニコラは私のそばで、ずっと彼を見つめていた。心の中では一連の光景が、とめどなく、くりかえし同じように展開していたにちがいない。そしてその光景を前にした驚きからなかなか解放されないでいた。多分時折は、自分がしたことをまだ解消できると信じてもいた。すると彼の汗ばんだ赤い手は握り締められるのだ。
 二十メートルごとに、ジュロームは土手に寄りかかった。いまの彼には、ニコラになぐられたことなど、どうでもよいことだった。ニコラでもだれでも問題でなかった。ニコラがベッドから彼を連れだしに行ったときの、さきほどの不機嫌で不服そうな様子は、もう彼の顔にあらわれていなかった。苦痛に心をうばわれて、いわばじっと耐え、内側から自分自身を見つめているみたいだった。苦痛ははなはだしかったにちがいない。彼はそれをあり得ないことと思い、信じることができないふうにみえた。
 時どき彼はからだを起こそうとした。すると胸から、呆然自失した「ああ」という声がもれた。このうめき声と同時に、口から泡のようなものが流れでた。彼は歯をかちかちと鳴らしていた。彼は私たちのことをまったく忘れてしまっていた。もう私たちに助けてもらうことをあてにしてはいなかった。
 これらのこまごまとしたことを私に報告したのは、あとでニコラから話を聞いたティエーヌである。私の方は弟を見つめていた。
 はじめて私は、弟のニコラが背が高いと思った。彼の体温は蒸気となってからだから発散し、私は彼の汗のにおいを感じていた。それはニコラの新しいにおいであった。彼はジェロームしか見ていなかった。私など眼中になかった。私は、腕の中に彼をだきしめ、もっと近くで彼の力のにおいを知りたくてたまらなかった。私だけがこの瞬間に彼を愛することができ、彼をだきしめ、彼に接吻し、彼に告げることができたのだ。「ニコラ。可愛い弟、ほんとうに可愛い弟」と。
 二十年このかた、彼はジェロームと闘いたいと思っていた。前日にはまだその決心がつかないことを恥じていたのに、いましがた彼はついにそれをやったのだ。

……巻頭より


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