「クォ・ウァーディス(上下)

シェンキェウィチ/梅田良忠訳

(上)ドットブック版 367KB/テキストファイル 100KB

(下)ドットブック版 357KB/テキストファイル 100KB

各800円

ローマ帝国のネロ帝時代、小アジア遠征からローマに帰還した若い武人ウィニキウスは、ある将軍の家で見かけたリギアという娘にひとめ惚れする。リギアはローマに征服されたリギイ族の族長の娘で、じつはキリスト教徒だった。ウィニキウスは叔父ペトロニウスの助力でリギアに近づく機会をえる……だが、リギアは好意をいだきつつも姿をくらます。数ヵ月後、ネロは「不滅の詩」をつくるためにローマに火を放つ。ウィニキウスは火炎さかまくなかリギアを捜し求め、ついに二人は出会う。卑劣なネロはローマ炎上の犯人をキリスト教徒だとして、キリスト教徒の逮捕と虐殺に狂奔する。コロセウムは虐殺の修羅場と化す。ついにリギアの処刑の番がくる……ギリシア世界とローマ世界、そのなかにあって心の中核をつくりあげつつあったキリスト教世界との壮絶な相克をうたい上げた歴史ロマン。苦難の歴史をたどった祖国ポーランドへの作者の思いが脈々と流れている。

シェンキェーウィチ(1846-1916) ロシア占領下のポーランドの小貴族の家に生まれ、ワルシャワ大学を卒業。最初は時事評論の筆をとったが、30代後半から歴史小説を書くようになり、17世紀のポーランドの悲劇をめぐる三部作によって国民的作家として地位をきずいた。そして長年タキトゥスなどのローマ時代の歴史書に親しんできた素地を生かし、自身のローマ旅行の経験も生かして、ついに手を染めた作品が「クォー・ウァーディス」であった。この作品はたちまちベストセラーになると同時に、多くの国で翻訳されて一躍世界的な反響をよび、シェンキェーウィチは1905年ノーベル文学賞を受賞した。

立ち読みフロア
 ペトロニウスは正午(ひる)ごろようやく眼をさましたが、いつものようにひどく疲れていた。前の日、彼はネロ〔在位五四〜六六〕の饗宴(ウェスペルナ)につらなったところ、それが夜おそくまでつづいた。それでなくとも、前から彼の健康は悪くなりはじめていて、毎朝、眼をさますと、しびれたような状態で、考えをまとめる能力がないと自分でも言っていたほどだった。しかし朝の入浴による、手なれた奴隷たちのていねいな揉(も)みほぐしによって、ゆるみがちな血行がだんだんと早められ、眼がさめて意識もはっきりし、元気をとり戻すことができた。それで上がりぎわの塗油室(エラエオテシウム)から出てくるときには、まるで別人のように甦(よみがえ)って眼をかがやかせながら軽口をたたき、喜びのあふれた若がえりかたで、生き生きと、いかにも堂々としていて、オトーでさえとうてい彼の比ではなかったから、人々が「典雅の裁決者」(アルビテル・エレガンティアールム)と名づけたのもなるほどと肯(うなず)かれるものがあった。
 彼は公衆浴場には、めったに行かなかった。行くとすれば、街で評判の素晴(すばら)しい雄弁家が現われるとか、青年体育場(エフエービアー)で特に興味ある格闘が行なわれているときに限っていた。それというのも自分の邸宅(インスラ)に個人浴場をもっていたからである。それはセウェルスの仲間で有名なケーレルが彼のために改築によって広げ、たぐいまれな趣向をこらして設備したものであって、それより遥かに広く、さらに豪奢(ごうしゃ)な設備をもつネロさえ、自分のそれよりもすぐれたものであると認めたほどのものであった。
 彼は前夜の饗宴ではウァティニウスの駄洒落(だじゃれ)に飽(あ)き飽きして、ネロ、ルカーヌスおよびセネカを相手に、女にも魂があるかという議論に加わっていた。そのため今朝は遅く起きて、いつものように入浴したのであった。二人の巨大な浴場奴隷(バルネアトール)が、雪のように白いエジプト麻の布地で掩(おお)うた糸杉づくりの台の上に彼を横たえ、香(かお)り高いオリーブ油に浸した両手で均整のとれた身体を揉みはじめた――彼は眼を閉じて、発汗室(ラコーニクム)の熱と奴隷たちの手の温かさが快く全身につたわり、ものうさが取り去られるのを待っていた。
 しかし、しばらくすると眼を開いて、天気の具合を聞きはじめた。それから宝石商のイドメヌスが今日見せに届けるはずのゲンマ〔宝石〕が届いたかどうかを尋ねた……それで、わかったのはアルバの山々から吹きおろすそよ風につれて、天気は晴れているということと、ゲンマは届いていなかったということであった。ペトロニウスは再び眼を閉じた。そうして彼を微温室(テピダリウム)に運び移すように命じた。と、そのとき取次ぎの奴隷(ノーメンクラートル)が幕のかげに身をかがめて、小アジアからきたばかりという若いマルクス・ウィニキウスの来訪を告げた。
 ペトロニウスは、自分が移ってきた微温室に客を通すように命じた。ウィニキウスは、その昔ティベリウスの治世〔一四〜三七〕に執政官(コンスル)であったマルクス・ウィニキウスのもとに嫁(か)した彼の姉の子であった。この青年はついさきごろまでパルティア軍と戦っていたコルブーロの麾下(きか)に属して遠征していたのを戦(いくさ)が終ってローマへ帰ってきたばかりであった。ペトロニウスはかねてこの青年に対して妙に心を惹(ひ)かれ、一種の弱さを感じていたくらいであった。というのは、マルクスが優れた体技者に見られるような美しい肉体の持主であるうえに、みだらな楽しみの中にあってもなお慎みの節度を失わない若人であったからのことで、ペトロニウスはかねてその優雅な人となりをこよなく高く買っていたのである。
 若人は勢いよい足取りで微温室にはいってくると、言った。
「ペトロニウス、ごきげんよう! 神々、わけても医  神(アスクレーピオス)とキュプロスの女神(キュプリーダ)があなたに幸運を授けますように。この二神の二重の加護があれば、禍(わざわい)はふりかからぬと申しますから」
 ペトロニウスは身にまとうた柔らかい麻布の間から手を高くかざしながら答えた。
「ようこそお帰り。戦いのあとの休息が快適であるように――アルメニアではどうだったか。アジアにいたのならビテューニア〔黒海南岸西部〕まで行かなかったか」

……《第一章》冒頭


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