「雨」

サマセット・モーム/西村孝次訳

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300円

モームの短編の代表作。魔窟から魔窟へ流れ歩く年増女のただれた魅力。情欲に狂う水夫と現地人の女たち。雨季のサモア島を舞台にくりひろげられた宣教師と娼婦との霊肉の闘争は、意想外な結末を告げた。他に心にくい短編の技巧を見せた「ホノルル」、《東南アジアの植民地もの》の「東洋航路」を収める。

サマセット・モーム(1874〜1965) 二十世紀のイギリスを代表する作家。複雑な人間の心理に鋭いメスを加え、読者のつきせぬ興味をかきたてる精緻をきわめた描写で知られる。代表作 「人間の絆」「お菓子とビール」「剃刀の刃」のほか、数多くの多彩な短編の書き手としても有名。

立ち読みフロア
 そろそろ寝る時刻で明朝目を覚ますと陸地が見えているだろう。医者のマクフェイル博士はパイプに火をつけると、欄干(らんかん)にもたれ、空を仰いで南十字星を探してみた。戦線での二年間と意外に暇どった戦傷、それもやっと癒(い)えて少なくとも一年はしずかにエイピア〔サモア群島中のイギリス領ウポルー島の町、ロバート・ルイス・スティーヴンスンが住んでいたのはこの島である〕で落ちつけると思うと嬉しかったし、旅に出たというだけで、もう調子がよくなったような気持ちだった。船客のなかには明日パゴ・パゴ〔パンゴ・パンゴともいう。アメリカ領トゥトゥイラ島の良港で、本文に出ている通り、アメリカの政庁や海軍基地がある〕で下船する者もあるので今夜はささやかな舞踏会があったが博士の耳にはまだあの自動ピアノの不快な音が鳴っていた。しかし甲板もやっと静かになった。少し離れたところで妻が長椅子に横になりながらデイヴィッドソン夫妻と話している姿が見えた、それで博士はぶらぶらとそちらのほうへ歩いて行った。電灯の下に坐って帽子を脱(ぬ)ぐとひどい赤毛で、頭のてっぺんが禿(は)げて、赤毛につきものの赤い、雀斑(そばかす)のある肌をしていることがわかった。四十がらみの、痩せた体、寸のつまった顔、几帳面(きちょうめん)な、むしろペダンティックといいたいようなところがある。そしてものをいうとたいそう低い、静かな声でスコットランドの訛(なま)りがあった。
 マクフェイル夫妻と、二人とも宣教師であるデイヴィッドソン夫妻とのあいだには、船友達の親しさが湧いていたが、それは別に趣味が共通だからというよりもただそばにいるから生じたものなのである。四人を結ぶ主な糸は明けても暮れても喫煙室でポーカーやブリッジをやったり酒を飲んだりしている連中にたいして一様に眉をひそめることであった。マクフェイル夫人は船中でデイヴィッドソン夫妻に付き合ってもらえるのは自分たち夫婦だけなのだと思うと少なからず得意だったし、はにかみ屋ではあるが馬鹿ではない医者でさえ、半ば無意識にこうして特別扱いされていることを認めていたのだ。ただ理窟屋なだけに夜になって船室へ入ると何だかだとあら探しをしないではいられないのである。
「デイヴィッドソンさんの奥さまがおっしゃってましたわ、もしわたくしたちがいなかったらいったいまあ今度の旅行はどんなにして過ごせたかわかりません、って」きれいに付け髷(まげ)を梳(す)き直しながら、妻がいった。「この船中でお近づきになりたいのはあなたがたお二人だけなんでございますわって」
「宣教師なんてものがそんなにお高くとまれるほど偉いんだとは意外だったな」
「とまってるんじゃありませんわよ。奥さまのおっしゃること、よくわかりますわ。あんな喫煙室のがさつな連中といっしょにならなくちゃあいけないとしたらデイヴィッドソンさんご夫婦だってとてもやりきれないでしょうよ」
「先生がたのご宗祖はそんな区別をしたりはなさらなかったがねえ」そういってマクフェイル博士はくすりと笑った。
「もう何度も申しあげたじゃありませんの、宗教のことは冗談をおっしゃらないようにって」妻は答えた。「あなたのような性質、大嫌いよ、アレック。けっしてひとのいちばんいいところをご覧にならないんですもの」
 博士は淡い青味を帯びた目でちらりと妻に流し目をくれたが、しかし返事はしなかった。長年の結婚生活から口いさかいでは妻に花をもたせるほうが平和をもたらすゆえんだと悟っていたのである。妻よりもさきに着更(きが)えをすませると、上段の寝台へ入って落ちつくと何か読みながらそのまま眠ってしまった。
 翌朝になって甲板へ出てみると陸地はすぐ目の前に迫っていた。博士は貪(むさぼ)るように陸を眺めた。銀色の砂浜が細い帯のように延びて頂上までこんもりと木々に蔽(おお)われた丘陵にすぐつづいていた。青々と茂った椰子の木が、水際近くまで迫り、そのあいだにサモア人の草葺(ぶ)きの家々が建っていた。そしてあちらこちらに、白く、小さな教会がきらめいていた。デイヴィッドソン夫人がやってきて博士と並んで立った。黒い服を着て金の鎖を首にかけ、その鎖からは小さな十字架がぶらさがっていた。小柄な婦人で、褐色の、色の冴(さ)えない髪をひどく手のこんだ結いかたにして、ちょっとそれとわからない鼻めがねの奥には青い出目が光っている。顔は、羊の顔みたいに、長いが、しかし間抜けという感じではなく、むしろ目から鼻へ抜けるようなはしこさを思わせた。何か鳥のようにせわしなく動き回るのである。夫人のことでいちばんに気のつくのはその声、甲高い、金属的な、少しも抑揚のない声であった。それが硬い単調な感じで耳を打ち、気圧穿孔器(ドリル)のあの無慈悲な騒音みたいに神経に障るのだ。
「この景色は奥さんには自宅へでも帰ったようなお気持ちでしょうな」例の気むずかしい薄笑いを浮かべながら、マクフェイル博士はいった。
「わたくしどもはもっと低い島なのでして、ねえ、こんなのではなくて。珊瑚礁(さんごしょう)なのです。これは火山ですわ。まだ十日も船に乗らないと着きません」
「この辺じゃあ本国でならまず隣町といったくらいのもんでしょうな」マクフェイル博士はおどけた調子でいった。
「まさか、それは何だか大袈裟(おおげさ)ないいかたですわ、でも南洋では距離というものの考えがまるで違ってはまいりますわね。その限りではおっしゃるとおりですけれど」
 マクフェイル博士は軽い溜息をついた。
「こんなところへやられませんでようございましたわ」夫人は語りつづけた。「ひどくお仕事のしにくい土地だそうでございましてね。船が寄港するものですから人の気持ちが落ちつきませんし。それに海軍の基地がございましてねえ。それが現地人にいけないんでございますの。わたくしたちの地方ではそういう困難とたたかうことはございません。それは商人の一人や二人はおりますけれども、もちろん、でもちゃんと行儀よくさせるよう気をつけておりますし、さもなければそんなひとたちには居づらいように仕向けるもんですから向こうでさっさと出て行ってしまいます」
 めがねを鼻にあてて夫人は冷然と緑の島を見つめるのだった。
「ここばかりはもう宣教師たちにも手のつけようがございません。こんなところへだけはやられずに済んでどういって神さまにお礼申しあげてよろしいやら」
 デイヴィッドソンの受持ち区というのはサモアの北にある一群の島々であった。ひどく飛び飛びなのでしばしばカヌーをあやつってはるばる巡回しなければならなかった。そんなときは妻が本部に居残って何とか伝道の仕事をしたのである。この女のことなら定めしてきぱき処理することだろうと思うとマクフェイル博士は気がめいってきた。現地人の道徳的堕落について夫人は何ものをもってしても黙らせられないような声で、しかも途方もなく仰山(ぎょうさん)な怖ろしそうな様子でしゃべり立てる。この女の慎(つつ)しみの感覚というのは一風変わっていた。知り合って間もないころこんな話をしたことがある。
「なにしろ、わたくしどもがこの島にはじめてまいりました時分、現地人の結婚の風習ときたらそれはもうゾッとするほどでとてもお話などできないでございましょうよ。でも奥さまにはお伝えしておきますから奥さまからお聞きになって」
 その後かれは妻とデイヴィッドソン夫人が、デッキ・チェアをぴったり寄せ合って、ものの二時間も夢中になって話しこんでいるのを見かけたのだった。運動のためその前を往ったり来たりするたびに、渓流の遠い水音のような、デイヴィッドソン夫人の興奮したささやきが聞こえ、口を開けた蒼ざめた妻の顔から何か異常な経験に胸をときめかせているのがわかった。夜になって船室で妻は聞いたままを息を殺して夫に繰(く)り返したのであった。
「いかが、わたくしの申したとおりだったでございましょう?」翌朝、デイヴィッドソン夫人は、勝ち誇ったように、叫んだものである。「あんなひどい話、お聞きになりまして? とてもわたくし自分の口からはお話しできないと申すのも無理ではございませんでしょう、ねえ? いくら先生がお医者さまでいらっしゃるからって」
 デイヴィッドソン夫人はじろじろ博士の顔を見た。予想どおりの効果があがったかどうかを確かめたくて堪(たま)らない芝居じみた気持ちであったのだ。
「わたくしども初めてあそこへまいりましたときすっかり気がめいってしまったのも無理でございませんでしょう? ほんとになさらないかもしれませんが、どの村にもちゃんとした娘なんてひとりだっていなかったのでございますものねえ」
《ちゃんとした》ということばを厳密に職業柄の意味に使ったのである。
「わたくし主人と相談いたしましてね、何よりもまずあのダンスをやめさせることだと腹をきめました。現地人たちはダンスというともう気違いでしたもの」
「わたしなども若いころは別に嫌いなわけじゃなかったですがね」マクフェイル博士はいった。
「大方そうだろうとはお察ししましたわ、ゆうべ奥さまにひとつ踊ってみないかなんておっしゃってるのを伺いましたとき。奥さまとなさる分には実害などございませんわ、でも奥さまが嫌だとおっしゃったときわたくしホッといたしましたのよ。今のような場合わたくしたちはわたくしたちだけで別になっているほうがよろしいと存じますが」
「今の場合とおっしゃると?」
 デイヴィッドソン夫人は鼻めがね越しにちらりと相手を見たが、その問いには答えなかった。
「ただ白人同士の間は別でございましてね」夫人は語りつづけた、「尤(もっと)も主人にいわせますと、いやしくも夫たる者が自分の妻がよその男の腕に抱かれているのを横に突っ立って見てられるなんてどうしても自分にはわからないって申しますが、わたくしも主人の意見に賛成と申さねばなりませんわ、それにわたくし結婚このかたダンスなんて一度もしたことございませんもの。でも現地人のダンスはこれはまったく別なんでございますのよ。それ自体が不道徳なばかりでなく、はっきりと不道徳の根源なのです。ですけれど、それを根絶したことを神さまに感謝していますわ、もう八年間というものわたくしどもの地区ではダンスをする者なんてひとりもないと申しても間違いではないと存じます」
 だがちょうど港の入口にさしかかり、マクフェイルの妻も出てきて一緒になった。船はぐいと方向を変えゆっくり港に入って行った。優に一艦隊を容(い)れるに足るほどの陸地に囲まれた大きな港で、周りは、高く険(けわ)しく、緑の丘がつらなっている。入口近くに、海から吹いてくる例の微風を受けて、総督の官邸が庭に囲まれて建っていた。星条旗が旗竿からだらりと垂れている。船は二、三軒の気のきいたバンガローと、テニスコートのそばを通ると、やがて倉庫の並んだ岸壁に横づけになった。デイヴィッドソン夫人は、舷側から二、三百ヤード離れて碇泊している一艘のスクーナー〔通常は二本、三本または四本マストの縦帆式帆船〕を指さしたが、それがエイピア行きの船であった。島の各地から出てきた現地人たちが大勢集まって、熱中して、上機嫌に、がやがや騒いでいたが、なかには好奇心から来ているのもあるが、またこれからシドニーへ行く旅客たちと物々交換が目当てのもいた。そしてみんなパイナップルや大きなバナナの房(ふさ)、タパ布、貝殻や鮫の歯で作った首飾り、カヴァ酒の椀、それから戦闘用のカヌーなどを持ってきていた。きれいに髯を剃って、お洒落をした、朗らかな顔のアメリカの水夫たちも、かれらにまじってぶらついていたし、役人らしい小人数の一団もいた。自分たちの荷物が陸揚げされているあいだマクフェイル夫妻とデイヴィッドソン夫人は群集をじっと眺めていた。マクフェイル博士は幼児や少年たちが大抵インド痘瘡(とうそう)にやられて、傷口が癩(らい)の潰瘍(かいよう)みたいに崩れかかっているのを認めたが、でっかい、重そうな腕をしたりひどく不恰好に膨(ふく)れあがった足をひきずって歩いている象皮病の患者を生まれて初めて見たとき医師としての目が光った。男も女もラヴァ・ラヴァ〔マレー人の「サロン」に似たような腰巻〕をつけていた。
「とても下品な服装ですわ」デイヴィッドソン夫人がいった。「主人などは法律で禁止しなくちゃあと申しております。腰に赤い木綿の布をちょいと巻くだけでいてそれでどうして道徳的になれるものと期待などできましょう、ねえ?」
「この気候にはよく合ってるんでしょう」医者は、頭の汗を拭きながら、いった。
 上陸してみると、暑熱はまだ早朝だというのに、もう堪えがたいほどであった。四方を山でとり囲まれていて、そよとの風もパゴ・パゴへは吹いてこないのである。
「わたくしどもの島では」デイヴィッドソン夫人が例の甲高(かんだか)い調子でつづけた、「ラヴァ・ラヴァはほとんど根こそぎにしてしまいました。年よりなどでまだ多少しているのもございますけれど、もうそれだけですわ。女はみんなマザー・ハバード〔婦人用の裾の長い、たっぷりとした、ゆるやかな服〕を着ていますし、男もシャツにズボンをはいています。わたくしどもが島へまいったごく初めのころ主人は報告書にこんなことを書いたことがございました――これら島嶼(とうしょ)の住民は十歳以上に全員ズボンを着用せしめざるかぎり完全なるキリスト教化は望むべからず、って」
 ところでデイヴィッドソン夫人は港の入口の空を流れてくる重っ苦しい灰色の雲を二、三度も例の鳥のような目つきでチラリと眺めていたのである。ポツリポツリと雨が降りはじめた。
「雨宿りをしたほうがようございますわ」夫人はいった。
 大勢の人間といっしょに、なまこ板〔波状の薄い鉄板〕の大きな物置へ移った、すると土砂降りになってきた。しばらくそこに立っていたがやがてデイヴィッドソン師もやってきた。道中マクフェイル夫妻に礼を失するということはなかったが、しかし細君ほどの社交性はなく、ほとんど終日、本を読んで過ごしていた。口数の少ない、どちらかといえばむっつり屋で、その愛想のよさもキリスト教徒として自分で自分に負わせた義務という感じがした。つまり生まれつき打ちとけない気むずかしい人物のようにさえ思われた。容貌も一風変わっていた。痩せてひょろ高く、長い手足をだらしなくくっつけたようである。げっそりとした頬と奇妙に高い頬骨。なにか死体を思わせるものがあったので唇だけがひどく厚くて肉感的なのに気がつくとおやっという感じがした。髪の毛はたいそう長くのばしていた。深く落ちくぼんでいる、その黒い目は、大きくてしかも悲壮な感じであった。手は、太い、長い指をしていて、形が整っていた。非常に力がありそうに見えた。しかしかれの身辺でいちばん心を打つのは、人に与える内に火がくすぶっているという感じであったのだ。その感じは印象的であり何だか不安を覚えさせた。親しみの持てそうな人物ではなかった。
 そのかれがこのとき嫌なニュースをもたらしたのである。麻疹(はしか)が、この島で、はやっているが、これはカナカ人〔ハワイおよび南洋諸島の現地人〕のあいだでは重病でしばしば命とりにもなるのだが、一行をエイピアまで乗せていくはずのスクーナーの乗組員のなかにも患者がひとり出ていたのだった。その病人は下船させて検疫所(けんえきじょ)の病院に入れはしたが、しかし外には乗組員はひとりも感染していないと確定するまではスクーナーの入港を許可しないという命令がエイピアから電報で来ていたのである。
「つまり少なくとも十日間はここにいなきゃならんというわけです」

……「雨」冒頭より


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