「蘭学事始」

杉田玄白著/緒方富雄訳

エキスパンドブック 524KB /ドットブック 882KB/テキストファイル 37KB

400円

日本の蘭学(オランダ学)、ひいては洋学の先駆をなした「解体新書」の翻訳刊行。それから約40年後、玄白が83歳のときに著わしたこの回想録は、当時の若者の新しい学問へのあふれるような好奇心を、あますところなく活写する。緒方氏の三度目になるわかりやすい現代語訳にくわえて、エキスパンドブックとドットブックには多数の興味深い資料をそえた。

杉田玄白(すぎた げんぱく、1733〜1817) 江戸生まれの蘭方医。1771年、中川淳庵、前野良沢らとともに、小塚原(こづかっぱら)刑場で死体解剖を実地に見学し、オランダ渡りの解剖書「ターヘル・アナトミア」の翻訳を思いたち、多年にわたる努力ののち『解体新書』と題してこれを完成させた。

立ち読みフロア
一 漢学と蘭学

  このごろ世間で、「蘭学(らんがく)」ということがしきりにはやっていて、志のある人々は熱心に学び、知識のない人たちはむやみと偉いことのように思っている。
  この蘭学の起こりを思いおこしてみると、むかしわたしたちのなかま二、三人で、ふとやり始めたことなのだが、もう五十年に近くなる。いま、これほどまでになろうとはまったく思いもしなかったのに、ふしぎにもさかんになったものである。
  漢学(かんがく)のほうでは、むかし遣唐使をシナへつかわしたり、偉い僧を留学させたりして、直接にあちらの国の人について学ばせ、その人たちが帰ってくると、いろいろの階級の人々を教育指導するようにさせたのであるから、だんだんさかんになったのは、もっともなことである。
  蘭学のほうでは、そのようなことがまったくなかった。それなのに、このようにさかんになったのは、どういうわけであろうか。
 いったい医学は、その教えかたがすべて実地を重んずるので、わかりが早いのか、それともオランダ式の医学というもの自身が目新らしく、いろいろ外国式のすばらしい療法ででもあるように世の人も思っているので、わるがしこい連中がこれを看板にして宣伝し、うまく利益を得ようとするために広まるのであろうか。

二 南蛮(なんばん)流外科……オランダ流外科

  さて、むかしから今日までの移り変わりをよく考えてみよう。
  天正・慶長のころに、西洋人がだんだんとわが国の西のはずれへ船をよこすようになったのは、おもてむきは貿易のためということにしているが、うらでは、下心があってのことであろう。その結果、いろいろの災(わざわ)いが起こったので、徳川の御治世以来それらの国との通商が厳禁された。これは世によく知られていることである。その原因となった邪教(じゃきょう)……キリシタンのことは、わたしの知らぬ「よそごと」であるからいうこともない。ただし、そのころの貿易船に乗ってやってきた医者から伝えてもらった外科の流儀のうちには、世に残っているものもある。これが「南蛮流外科」といわれるものである。
  そのころから、オランダ船は通商を許されて、肥前(ひぜん)の平戸(ひらど)へ船をつけていた。外国船禁止になったころでも、このオランダの国だけは、なかまでないというので、ひきつづいて渡来を許されていた。そして、オランダ商館が平戸にたてられた年(慶長十四年・西暦一六〇九年)から三十三年目になって、それまで長崎の出島(でじま)に住んでいた「なんばん人」を追い出して、そのあとへオランダ人を住まわせることとなり、オランダ商館をここに移した。それは寛永十八年(一六四一年)のことである。
 それ以来、オランダ船は毎年、長崎の港に来ることになった。それから後、このオランダ船について来る医者で、やはりその外科の療法を伝えたものも多かったそうである。これを「オランダ流外科」というのである。もとより横文字の本を読んで習い覚えたわけでなく、ただその手術を見習い、その処方を聞いて書きとめておいたくらいのことであった。もっとも、こちらにない薬が多いから、病人をとりあつかうのに、代用薬を使うことが多かったであろう。


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