「赤毛」

サマセット・モーム/厨川圭子訳

ドットブック 304KB/テキストファイル 94KB

300円

星くずのように島々が散在する南太平洋はモームの好む舞台である。この文化果つるところで文明への郷愁に狂う西欧人「マッキントッシュ」、可憐な現地民の娘との美しい恋も 、島を離れてみれば美しい自然が生んだ幻想でしかなかった「赤毛」、他に「エドワード・バーナードの堕落」の3編を収めてある。

サマセット・モーム(1874〜1965) 二十世紀のイギリスを代表する作家。複雑な人間の心理に鋭いメスを加え、読者のつきせぬ興味をかきたてる精緻をきわめた描写で知られる。代表作 「人間の絆」「お菓子とビール」「剃刀の刃」のほか、数多くの多彩な短編の書き手としても有名。

立ち読みフロア
 ベイトマン・ハンターはよく眠れぬまま、朝を迎えた。
 タヒチ島からサンフランシスコまで、船の中での二週間、彼は何と報告したものかと考えつづけてきた。また、汽車の中での三日間も、報告する時の台詞(せりふ)をくり返しくり返し練習した。それなのに、あと二、三時間でシカゴに着くという今となって、自信がぐらついてきた。彼の良心はいかなる場合でも非常に感じやすかった。今もこの良心が黙っていなかった。果たして自分は力の及ぶかぎりのことをしただろうか? いや、力の及ぶ以上のことをしなくてはならんところだったんだ……。自分の利害に深い関係のある《あのこと》を処する際に、自分は、自己犠牲の立場をとるより、自分の利害の方を重んじた。この考えが彼の心を乱した。自己犠牲ということは、非常に美しい、立派なことであると想像していただけに、いざという場合にそれを実行することができなかったことが、幻滅感をそそった。今の彼の気持はちょうど、ある慈善家が、欲得を離れて、貧しい人々のために理想的な住宅を建ててやったのに、結局は、それが有利な投資となったことに気づくのと同じである。お返しを期待せずに施した善行ではあるが、はからずも、その十分の一が返ってきたことに、彼は内心、喜びを禁じ得なかった。だがどうも、良心にてらしてみて、まったく後味が悪くないというわけにはゆかなかった。
 ベイトマン・ハンターは、自分にはいささかもやましい点はないということを百も承知でいながら、いざ報告をする段になって、イザベル・ロングスタフのあの冷静な、薄青い目で、じっとさぐるように見つめられたら、どこまで平然としていられるか、どうも心許(こころもと)なかった。イザベルの目は、物を深く見通す力を持っている。ごまかしが利(き)かない。彼女は他人を評価する際に、持ち前の厳格な道徳感で測る。そして彼女の手きびしい信条に反するような行為に対しては、冷やかな沈黙をもって不賛成の意を表わす。世の中にこれほどこわい非難はまたとない。彼女の裁きには哀訴しても無駄だ。いったんこうと意を決したが最後、彼女は絶対にそれを撤回しなかったからだ。だが、ベイトマンはそのままの彼女であってほしかった。彼が愛しているのは、誇らしく頭をもたげ、すらりと伸びた容姿の美しさばかりではない。魂の美しさの方に、より心をひかれていたからだ。彼女には真実さがある。頑として名誉を尊ぶところがある。物を判断するのに、周囲をはばからぬところがある。彼女はアメリカ女性の最もすぐれた素質を全部身につけている、とベイトマンは思った。いや、アメリカ女性の典型というだけではない。彼女の洗練された美しさは、ある意味では、彼女が生い育った環境があってこそはじめてはぐくまれたものと言えよう。このような女性をはぐくむことのできる都市は、世界中でシカゴあるのみだ、とベイトマンは信じていた。
 ベイトマンの報告は彼女の誇りをひどく傷つけるだろうと思うと、彼の胸は苦しかった。そして、こんな羽目(はめ)におとし入れた当のエドワード・バーナードのことを思うと、無性に腹立たしくなった。
 とかくしているうちに、汽車はシカゴ市中に滑りこんだ。灰色の家の並んだ長い通りが目に入ると、ベイトマンの胸は高鳴った。人出の多い道路、押し合いへし合い走り交(か)う車の群、轟音、――ステイトやウォバッシュの大通りのことを思うと、ベイトマンは早く見たくて見たくて、我慢しきれなかった。ああ、とうとう故郷(くに)に帰ってきたのだ。アメリカで最も重要な都市を故郷として持つなんて、なんという果報だ。サンフランシスコは田舎くさいし、ニューヨークはくたびれきっているし、アメリカの将来は一にその経済上の発展にかかっている。それには何といっても、地理上の位置といい、市民の精力的な点といい、シカゴこそアメリカの実質上の首都となる運命をになっているんだ。
「僕の生きているうちにシカゴはきっと世界最大の都市に発展するぞ」ベイトマンはプラットフォームに降り立った時、心の中でそうつぶやいた。

……「エドワード・バーナードの堕落」
冒頭より

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