「赤い箱」

レックス・スタウト/佐倉潤吾訳

ドットブック版 277KB/テキストファイル 195B

600円

ファッション・モデルが超一流のニューヨークの婦人服店で菓子を食べて毒殺された。ウルフは嫌々ながら重い腰をあげ、現場に出向いて調査をはじめるが、次の殺人現場はなんとウルフの事務所、被害者は婦人服店の経営者であった。彼は死に際に「赤い箱」とだけ言い残した。ウルフは、その言葉を手がかりに真犯人を推理するが、そこに第三の殺人が……。美食家探偵ネロ・ウルフが助手のアーチーとともに凶悪な連続毒殺事件に挑戦するスタウト初期の傑作。

レックス・スタウト(1886〜1975) 米国インディアナ州生まれ。両親はクエーカー教徒。若いころは多数の職を転々としながら、詩や小説を書く。30歳頃にあるアイデアから大金を得たが、大恐慌で破産。1934年、48歳のときに発表したミステリー「毒蛇」でたちまち人気作家に。以後この「ネロ・ウルフ」シリーズは、長編だけでも34作に達した。この探偵は、古今の探偵のなかでも、最も魅力のある人物のひとりである。

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 ウルフは眼を大きく開けて、客を見た――彼がこうするのは、無関心なのかいらいらしているのか、そのどっちかだ。今の場合は、いらいらのほうにきまっている。
「重ねて申しますが、フロストさん、だめです」と彼は宣告した。「私は仕事では決して家を出ません。どなたががんばってもだめですな。五日前にあなたにそう申し上げておきました。ではこれで失礼します」
 リューエリン・フロストは眼をぱちくりさせたが、それで帰る気配は見せなかった。それどころか、椅子にいっそう腰を落ち着けた。
 そこでゆうゆうとうなずいたね。「先週の水曜日は、あなたに調子を合わせたんです、ウルフさん。ほかにもやってみていいと思うことがあったものですから。しかしそっちは役に立ちませんでした。今となっては、ほかに方法がないんです。行ってくださいよ。奇人的天才という評判は一度だけ忘れてくださいよ――とにかく、例外があるほうがかえって評判を高めますよ。欠点があると完全さが目立つもんです。どもると雄弁が強調されます。ねえ、わずか二十ブロックの距離ですよ、五番街とマジスン街の間の五十二番通りですよ。タクシーで八分で着くんです」
「とんでもない」ウルフは、椅子の中で体を動かした。かんかんになっていた。「あなた、おいくつです、フロストさん?」
「ぼくですか? 二十九です」
「もう子供みたいにずうずうしいことをいっておられる年ではありませんよ。いいですか。私に調子を合わせたとは何です。私の評判をうんぬんするとは何です。しかも街中の交通の大混乱のなかを、私に気違いじみた突進をさせようというのですか――タクシーで! 私はね、スフィンクスの最大の謎を解(と)いて、そのほうびにナイル河の船荷をすべてもらえるという場合でもタクシーには乗りません!」彼の声は低くなって、憤慨しきったつぶやき声になった。「何ということだ! タクシーとは」
 ぼくは、彼の机から八フィート離れた自分の机に坐ったまま、鉛筆を振りまわしながら、彼に喝采のつもりでにやっと笑ってみせてやった。ネロ・ウルフの仕事を九年もしているんだから、もうはっきり断言できることが少しはあるんだ。たとえばだ、彼は南極以北では最大の私立探偵だ。それから、彼は戸外の空気は肺をふさぐものだと確信している。それから、彼は体をゆすぶられたり突き当たられたりすると、神経系統が狂ってしまう。それから、彼はフリッツ・ブレンナーの料理以外は食用に適さないと確信しているから、フリッツに何か起こったら餓死を辞さないだろう。もっと違ったことで、ほかにもいろいろあるが、ネロ・ウルフがおそらくこれを読むだろうから、触れないでおこう。
 フロスト青年はしずかにウルフの顔をじっと見た。「あなたはここでいい気持になっているんですね、ウルフさん。きっとそうでしょう?」そういってうなずいた。「たしかにそうですよ。若い女が一人殺されたんですよ。ほかの女も――それも一人じゃないかもしれませんよ――危いんですよ。あなたは自分で、殺人事件の専門家だといっているじゃありませんか。その点はそのとおりですよ。あなたが専門家だということはたしかに間違いありません。それなのに、若い女が一人殺されて、ほかの人にも大きな危険が迫っているというのに、混雑のときにタクシーじゃどうだのこうだのって、ブースとバレット〔ともに女優の名〕のやりとりみたいに、わめき立てているんですね。ぼくはいい演技を尊重します。ぼくはショーの仕事をしていますから、それは当然です。しかしあなたの場合は、人並に人間の悩みと不幸に敬意を払って、演技をやめるときがあってもいいじゃないかと思いますがねえ。それに、本気であんなことをあなたがいっているんだとすると、いよいよよくないです。ちょっとした個人的な不便を忍ぶのがいやさに――」
「むだです、フロストさん」ウルフは頭をゆっくりと振っていった。「あなたは、えらそうなことをいえば、私が恐れいって自分のすることを弁解するとでも思っているのですかな? ばからしい。女の人が殺されたなら、警察というものがあります。ほかの女の人が危険にさらされている? それは同情にたえんが、私の職業の奉仕を随意に求めるという権利は、その人たちにはありません。私には、手を振るだけで危険を追いやることはできないし、それに私はタクシーには乗りません。私はいかなるものにも乗りません。グッドウィン君が運転する私の車でも、私自身に不慮の出来事でも起こった場合以外は、乗りません。私の体を見てごらんなさい。私は動けないことはないが、この肉体は、突然激しく動かされることにも、ゆっくりと動かされることにも、体質的に反発します。あなたは《人並に敬意を払って》とおっしゃった。私の自宅での私的生活を犯さないということにも、人並の敬意を払ってはどうです。私はこの部屋を事務室として使っていますが、この家は私の自宅です。では失礼します」
 青年は顔を赤らめた。だが動かなかった。「行ってくれないんですか?」と聞いた。
「行きません」
「二十ブロックです、八分です、ご自分の車で」
「いけません、だめです」
 フロストはウルフに顔をしかめた。「こんな頑固な人はない」と自分につぶやいた。


……巻頭より


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