「赤信号」

アガサ・クリスティ/各務三郎訳

ドットブック版 165KB/テキストファイル 92KB

500円

クリスティは得意な古典的ミステリー以外に、戯曲やファンタジーの色濃いものなど幅広い作品を残したが、怪奇・幻想ものもその一つだった。本書には、表題作のほか、「暗い鏡のなかに」「ジプシー」「カーマイケル卿事件」「青い壷のなぞ」「SOS」「ラジオ」の全部で7編を収録した。

アガサ・クリスティ(1890〜1976)「ミステリの女王」の名を冠されたイギリスを代表するミステリ作家。ベルギー生まれの名探偵エルキュール・ポアロの登場する「 スタイルズ荘の怪事件」でデビュー。「ABC殺人事件」「三幕の殺人」「ハーゼルムアの殺人」など、ポアロもののほか、田舎住まいの詮索好きなおばあちゃんミス・マープルが登場するシリーズなど、膨大な作品を残した。

立ち読みフロア
 わたしには、これからお話しする出来ごとが説明できない。その理由、原因の説明ができない。ただ、じっさいに起きたことなのである。
 それでも、ときどきは思いかえすことがある――もし、そのとき、ささいではあるが重要な点に気がついていたら、事態はどのようになっていただろう。気づいたのは、何年もあとのことだったからである。
 もし、わたしが気づいていたら、恐らく、わたしをふくめて三人の男女の人生は、まるでちがっていたはずだった。ともかくそう考えると、からだが震えるほどである。
 話は、一九一四年の夏――第一次世界大戦の直前までさかのぼる。その夏わたしはニール・カースレークのバジャリー荘へ出かけていった。ニールは、わたしの親友ともいえる友人である。ニールの弟のアランとは顔見知りだったが、さほどのつきあいではなかった。妹のシルヴィアとは会ったこともなかった。彼女はアランより二歳下、ニールよりも三歳、年下だった。
 学生のころ、二度ほどニールから、バジャリー荘で休暇をすごさないか、と誘われたことがあった。しかし、そのたびに、他に用事があって、ようやく、彼の家を訪ねることになったのである。二十三歳のときの夏、わたしは、はじめてカールスレークの家をこの目で見ることになった。
 その夏のバジャリー荘は、滞在客が多かった。シルヴィアは、チャールズ・クローリーという人物と婚約したばかりだった。ニールの話では、かなり年上の男だが、上品でかなり裕福な生活をしている、とのことだった。
 ニールとともにバジャリー荘に着いたのは、夕方の七時ごろだったと記憶している。夕食のために、それぞれが自室で着替えをしている時間だった。ニールはわたしを部屋に案内してくれた。
 バジャリー荘は、魅力あふれる屋敷だったが、まとまりのない古い建物だった。過去三百年のあいだに、気ままに建て増しをしてきたために、いたるところで段差があったり、階段にぶつかったりする。はじめて訪れた人は、たちまち迷ってしまうような屋敷だった。
 夕食のときは迎えにくるよ、とニールが約束してくれたのを覚えている。はじめて彼の家族と顔をあわせることを考えると、わたしは、なんとなく気が重かった。そこで、こんな屋敷だと廊下で幽霊にでも出くわしそうだね、と笑いながらいった。すると、彼は、態度がかわって、ここは幽霊屋敷だといわれているが、誰も見た者はいないそうだし、自分も見ていないので、幽霊のかっこうまでは知らない、と返事した。
 ニールが立ち去ったあと、わたしは、スーツケースをかきまわして、夕食時に着る服をとり出した。
 カースレーク家は裕福ではなかった。古い屋敷を維持するのが、せいいっぱいで、召使いは雇っていなかった。そのために、わたしは、一人で荷物をあけるしかなかったのである。
 ようやく、ネクタイを結べば、着替えも終るまでになった。わたしは、鏡の前に立っていた。鏡には、わたしの顔や肩、それに背後の部屋の壁が映っている――飾りっ気のない壁、中央にあるドア。うまくネクタイが結べたとき、ドアの開くのが目に入った。
 なぜだかわからないが、わたしは振りむこうとはしなかった――振りむくのが、あたりまえのはずである。とにかく、わたしは振りむかずに鏡の中をみつめていた。ドアは、ゆっくりと開いていった。――開ききったとき、むこうの部屋が見えた。
 寝室だった――わたしの部屋よりも広く、ベッドが二つある。そのとき、思わず息をのんだ。
 ベッドのはじに若い女がおり、彼女の首が男の両手で絞められているのだ。男の手に力がこめられ、若い女はのけぞりながら、しだいに息の根がとめられていく。
 見まちがえるはずがなかった。はっきりと鏡に映っているのである。まさしく、殺人がおこなわれているのだ。
 若い女の顔は、はっきりとは見えなかったが、あざやかな金髪、苦悶にゆがむ美しい顔、まっかになっていく顔が目に入った。男は――背中と手、そして顔の左に、首筋にかけて走る傷跡のほかは見えなかった。
 こうして話すと長いようだが、呆然とみつめていたのは、ごくわずかな時間だった。わたしは助けようとして、振りかえった……。
 うしろの壁――鏡に映っていたその壁はヴィクトリア朝時代のマホガニー製衣装戸棚があるだけだった。
 開いたドアはどこにもなかった――殺人の現場もなかった。わたしは、鏡にむきなおった。鏡には衣装戸棚しか映っていない……。


……巻頭より

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