「赤い館の秘密」

A・A・ミルン作/古賀照一訳

ドットブック版 223KB/テキストファイル 152KB

500円

「熊のプー」で知られる英国の作家ミルンが生涯に1作だけ手がけた長編ミステリの傑作。けだるく暑い夏の盛り、まどろんでいるような「赤い館」で事件は起こる。15年ぶりに弟(館の主)を訪れた「放蕩者」のうわさの高い兄が何者かによって殺され、しかも同室していたはずの弟は行方知れずになる。その館で働く「親しい友」を訪問してみようと思い立ったアントニー・ギリンガムは、はからずも殺人のおこなわれた直後に館に到着することになった。推理とユーモアが巧みに織りなされた名編。

A・A・ミルン(1882〜1956) イギリスの劇作家、童話作家、随筆家。ケンブリッジ大学を卒業後、「パンチ」誌の副主筆として、ユーモアと機知にあふれた随筆を発表した。第一次大戦後は劇作に手をそめ、ユーモラスな作風で人気を得た。戯曲の代表作に「ドーヴァー街道」がある。しかし今日では、彼女はなによりも「熊のプー」を書いた童話作家として有名である。

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 けだるく暑い夏の午後、《赤い館》は午睡(ごすい)のさなかだった。庭の花壇では、蜜蜂のものういうなりが、楡(にれ)の梢では、のどかな鳩(はと)の鳴き声がきこえる。遠くの芝生からは、芝刈機の、あの田園のもの音のなかでは、いちばんのんびりしたブーッ、ブーッ、という音がひびいてきた。ひとが働いている時間に、昼寝をしているという気持がそののどけさを、ひとしお深いものにした。
 それは、他人に仕えるのを仕事としている者にも、いくらか息ぬきのできる時間だった。女中部屋では、美人の小間使のオードリー・スティーヴンズが、とっときの帽子の飾りをつけ代えながら、伯母(おば)と無駄話のさいちゅうだった。この伯母は、この館の独身の主人マーク・アブレット氏のコック兼家政婦をつとめている。
「ジョウに見せるのかい?」帽子に目をやって、ミセス・スティーヴンズはのんびり言った。
 オードリーはうなずいた。口にくわえたピンを抜き、適当なところにさしてから、こう言った。
「あのひと、わりあいピンクが好きなのよ」
「わたしだって、ピンクは好きなほうさ。ピンクが気に入ってるのは、なにもジョウ・ターナーだけじゃないよ」と、伯母は答えた。
「でも、ピンクはだれにでもむくっていう色じゃないわ」
 オードリーは、帽子を持った手をのばして、しみじみと眺めながら、
「なかなかいい恰好(かっこう)でしょう?」と、伯母に言った。
「ああ、あんたにはぴったりだよ。わたしだって、あんたの年頃なら似合うんだろうけどね。いまのわたしには、ちょっと派手すぎるようだよ。他の連中にくらべれば、着こなしは自信があるけど、自分のがらじゃないものは、ごめんだからね。五十五なら、五十五になりきる……そういうことさ」
「五十八よ。そうでしょう? おばさん」
「たとえばの話じゃないか」ミセス・スティーヴンズは、大いに威厳をみせてたしなめた。
 オードリーは、針に糸をとおすと、その手を目の前にかざし、ちらっと爪(つめ)に目をやってから縫いはじめた。
「マークさまのお兄さまの話って、おかしいのね。十五年も兄弟に会わないでいたなんて、考えられて? かりに、あたしが、十五年もジョウに会わないとしたら、どうなるかわかりはしないわ」てれくさそうに、オードリーはしのび笑いをした。
「けさ話したとおりさ。わたしは、ここに五年いるけど、ご兄弟のことはきいたおぼえがないってことを、誓ってもいいよ。わたしがここにいる間に、ご兄弟が見えたなんてことは、まるでないんだよ」
「けさ、お食事のとき、マークさまがお兄さまの話をなさるのをきいて、すっかり、驚かされちゃったわ。もっとも、あたしが部屋にはいる前は、どんなお話だったか知らないけど。あたしがいったときには、皆さんでお兄さまの話をなさってたわ──あのとき、なにをしにいったのかしら──ホット・ミルクを持っていったのかしら、それともトーストだったかしら。──とにかく、皆で話してらしたのよ。マークさまがふりむいて、──いつもみたいな調子で──《スティーヴンズ、午後に兄が訪ねてくるんだ。三時頃だと思うよ。事務室へ通しておくれ》って、おっしゃったの。《はい、かしこまりました》って、なにげなくお返事したけど、あんなに驚いたことってなかったわ。あのかたにお兄さまがあるなんて、まるで知らなかったんですもの。──《兄はオーストラリアからくるんだ》っておっしゃるのよ。そうそう、それをすっかり忘れてたわ。オーストラリアからいらっしゃるのよ」
「それなら、オーストラリアでお暮しだったのかもしれないね」と、ミセス・スティーヴンズは、考えこむようなようすで答えた。「わたしが、あの国のことを知ってるわけじゃないのだから、なんとも言えないけどさ。だが、いずれにしろ、その方が、ここにみえたことがないのは、たしかだよ。わたしが、このお邸にご奉公してこのかた、五年というものはね」
「そりゃあ、だって、伯母さん、その方は、お邸へは十五年も、いらっしゃってないんですもの。マークさまがケイリーさまに、《十五年さ》って、おっしゃったのをきいたわ。ケイリーさまは、お兄さまはいつ頃、イギリスをおたちになったのか、っておききになったのよ。あのかたは、お兄さまをご存じなのよ。ベヴァリーさまに、そうおっしゃってたもの。でも、なん年前に、イギリスを離れられたかは、ご存じなかったのね。そうでしょう? だから、マークさまに、お訊(き)きになったんだわ」
「わたしは、十五年も前のことなんか、知らないけどね。オードリー、ただ、自分の知ってるかぎりのことは、つまり五年間のことは、はっきり言えるのさ。そのかたは、このお邸に、この五年のあいだは、おみえにならなかった、ということだよ。ところで、おまえのいうとおり、そのかたがいままで、オーストラリアにずっとおいでになったのなら、それ相当の事情がおありになったんだろうね」

……巻頭部分

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