「赤毛のレッドメーン家」

フィルポッツ/赤冬子訳

ドットブック版 302KB/テキストファイル 247KB

600円

イギリス南東部の荒れ地ダートムアに休暇で鱒釣りをしにきていたロンドン警視庁の刑事ブレンドンは、建築中の邸宅で起きたらしい「殺人事件」に巻き込まれる。それはイギリスとイタリアのコモ湖畔を舞台に起こるレッドメーン家の親族連続殺人事件へと変貌していく。重厚・緻密な構成と文章力で、読者をとらえて放さない古典ミステリの傑作中の傑作。

イーデン・フィルポッツ(英、1862〜1960)インド生まれ。軍人の父親の死後本国にもどり、プリマスで育つ。17歳のとき保険会社に就職、同時に創作に手をそめ、のち週刊誌の編集部員に。ダートムア地方を舞台にした小説で名をあげたあと、ミステリーに転じた。本書と倒叙形式の「闇からの声」が代表作。

立ち読みフロア
 有名にならないうちは誰でも自惚(うぬぼ)れる権利がある――ということだ。無意識にとはいいながら、マーク・ブレンドンもそういう考え方をしている一人だった。
 しかし、なにもそうひどく自惚れているわけでもないのだ。二流の人間に限って自信がないものさ、と思っているだけのことだ。三十五歳にしてすでに、彼は犯罪捜査課のかなりの地位をしめていた。勇気と機知と努力という欠くべからざる才能に加えて、想像力と直観という特質があったればこそこれだけの成功も可能だったのだが、事実それらのおかげで警部の地位さえもう目の前にあるのだ。
 実際的な業績はこれまでにずいぶんあげているが、更に戦時中、国際的な仕事で活躍し一層名をあげたのである。彼はこの先十年のうちには宮仕えはご免蒙(こうむ)り、念願の私立探偵を開業することになるだろう、と確信していた。
 ところでマークはいま、ダートムア〔イングランド南西部の岩の多い不毛の高原〕にきて休暇をすごしているのである。道楽のにじます(・・・・)釣りに専念し、かつ、この機会に自分の一生を鳥瞰的(ちょうかんてき)な視野から眺め、これまでの業績を評価し、おのが将来を単に探偵としてのみならず一個の人間として公平に見さだめようというのだ。
 マークは人生の転換期にきていた。というよりはむしろ、これまではただ一つのドラマにのみ捧げられていた人生という舞台に、新たな興味と新たなプランとが登場しようとしている、そういった時期に到達しているのだった。これまでの彼は、全く仕事のためにのみ存在していたのである。戦後はふたたび、暗黒と疑惑と犯罪の世界できまりきった仕事に従事し、それが職業であるという以外なんら個人的興味もないままに、それらの謎を解くことにのみ専念してきた。あたかも一対の手錠のごとく、いかなる内面生活にも、精神的野心にも、あるいは自己本位の大望にも縁のない一個の道具だったのである。
 この勤勉さと誠実な献身ぶりのおかげで現世的には酬いられていた。こうしてやっといま、おのが視野を広め、人生をより高い見地から眺め、そうして一個の道具であると同時に一人の人間たらんと決心できる時期にきたのだ。
 気がついてみると、戦時中の特別授与金とか、フランス政府からの多額の報奨金などですでに五千ポンドの貯えができていた。その上、現在かなりの高給をはんでいたし、遠からず上司が退官すれば昇進する見込みでもあった。彼とても、人生のさまざまな面をすべて、仕事のうちにのみ見出せると思うほど馬鹿ではなかった。だから彼はいま、教養ということ、人間的な快楽ということ、あるいは妻や子のもたらすであろう新たな利害や責任ということについて考えはじめたのである。
 彼は女性というものを全く知らなかった――少なくとも彼の愛情をよびさましてくれるような女はこれまで一人もいなかった。実際の話、彼は二十五歳の時に結婚を生活設計からしめ出すべきだと考えたのだった。職業柄、毎日が不安定であるし、第一ひとりの女と生活を共にすることは仕事に甚大な影響を与えずにはおかない、と思ったからである。愛情というものは、集中力を弱め、彼の稀にみる才能を鈍らせ、そしておそらくは大事な決断の瞬間に打算と臆病の原因にすらなって、彼の実力を損ない、前途の成功にかげをさすことになるかもしれぬ、そう考えていたのだ。だが十年をへた今は、彼も違うように考えはじめた。進んで他人の影響をうけようとしているし、しかるべき女性が現われたならすぐにでも求婚しようという気にさえなっていた。あらゆる方面にわたる彼自身の知識の不足を補ってくれるような、教養のある女性を彼は心に描いていた。
 一般に、男がこういう受けいれ態勢の気分でいるときには、望み通りの反応をえるのにそれほどまつ必要はないものである。ところがブレンドンは古風な男で、戦時中に育った女性には全く魅力を感じなかった。彼女たちのすぐれた性質も、またしばしば精神の優秀性をも認めながら、なお彼の理想はもっと異なった古風なタイプ――一生涯を寡婦(かふ)のまま、彼のために家庭を守ってくれた彼自身の母親のようなタイプを求めていた。その母親は彼にとっての女性の理想像だった――静かにおちついていて、思いやりがあり、信頼がおける女――そしてつねに、彼が興味をよせるものには自分もよせ、自分自身の生活によりも彼の生活に中心をおき、彼女自身の存在の喜びを彼の進歩と勝利のうちに見出す女だった。
 実際にマークは、喜んで自分自身を彼のうちに没入させて、自分の個性をおしつけようとしたり、自分だけの世界をつくろうとしたりはしない女(ひと)を望んでいた。母親の立場というものが、どれほどその愛情が完璧(かんぺき)であろうとも、妻の立場とは全く異質のものにちがいないことぐらいは彼も心得ていた。既婚の男性についても十分見聞していたから、彼の求めるような女性が戦後の世の中にみつかるかどうかも疑っていた。それでもなおそのような古風な女が今でも存在しているという望みをすてず、またすてようともせず、どこを探せばそういう相手をえられるのかと考えはじめているのだった。
 この一年間働きづめに働いて、彼は疲労困憊(こんぱい)ぎみだった。しかし、ダートムアには機会さえあればいつでも、健康と休養のために来ていたし、現に今、プリンスタウンのダッチ・ホテルに来ているのもこれで三度目であった。ここで旧交を温め、近くのにじます(・・・・)のいる流れで六月と七月の間ゆっくりと楽しもうというのだ。
 ブレンドンは他の釣りびとたちが自分に関心をもっているのが嬉しかったから、釣りにはひとりで行くことに決めていたとはいえ夕食後の喫煙室の団欒(だんらん)にはたいてい仲間入りをした。そしてなかなかの話じょうずだったから彼の話にはみんなが耳を傾けた。しかし、時々刑務所の看守たちとすごす一時間の方が彼はもっと好きだった。それというのも、この荒野のまん中の、プリンスタウンという名で知られた灰色のしみ(・・)を支配している刑務所には、興味をそそるような音にきこえた犯罪者がたくさんいるからで、彼らの中にはブレンドンのご厄介(・・・)になり、刑期に関して彼の示した個人的な努力と勇気に感謝しなければならない者が幾人もいるのである。また、刑務所の職員の方には、広い経験と頭脳の持ち主が少なからずいて、この刑事の仕事に関係あるようなことをいろいろと教えてくれるのだ。犯罪の心理学は、決してうすれることのない強烈な力をもってブレンドンを惹(ひ)きつけていた。そして、目撃したとか聞いたとかいう人々が話してくれるさまざまな妙な出来事、あるいは囚人たちの曖昧(あいまい)な話なども、ブレンドンの頭の中では説明がつくのだった。
 ブレンドンはいいにじます(・・・・)のいる、まだ誰も知らない場所をみつけてあった。そして六月半ばのある夕方、ひとつそこで釣ってみようと出かけたのである。彼は小川の流れこんでいる、ある廃(あ)れた石切場の中に深い淵をいくつか発見してあった。そこには、ダートアンドメヴィー、ブラッカブルック、ウォーカムなどといった川から毎日釣り上げられるものよりも、もっと大きいやつが一匹や二匹はひそんでいるのである。
 これらの淵のあるフォギンターの石切場へ行くには二つの道があった。そもそもは戦時中プリンスタウンの捕虜収容所をたてる石をとるために、この荒野の奥深くみかげ石のあるあたりまでひらかれた道が、今なおそのさびれた地点までのびていて、半マイル先の大きな街道に交わっている。かつての石切工の住いだった家が一軒か二軒、草の生いしげったその道のはたに建っているが、広大な石切場はとうの昔にさびれてしまっていた。造化の神の美しく拵(こしら)え給うたこのすばらしい場所も、今はその真価を認められることもなく、ただ野生の生きもののすみかとなっているのだった。
 だがブレンドンはいま、荒野の中の一本道を通ってやってきた。プリンスタウンの停車場を左に見て西へむかって歩き出すと、空の燃えるような光と対照的に荒野がくろぐろと行く手に起伏していた。日は傾いて、薄紫と深紅にふちどられた金色(こんじき)の光がかなたの空をこがし、その光がみかげ石のなかの石英にそこここでキラリとあたって、おちつきはらった夕暮れの大地の上でおどっている。
 その燃えるような夕日を背に、籠を手にした人影が現われた。そろそろにじます(・・・・)が水面に浮かびあがる頃だな、と考えながら歩いていたマーク・ブレンドンは、軽い足音にふと目をあげた。かつて見たこともないような美しい女がすれ違って過ぎた。この美しいものの突然の出現に彼はハッと息をのみ、今までの想念などはどこかへけしとんでしまった。それはあたかも、人気(ひとけ)のないこの荒野からひともとの魔法の花が突如咲き出でたか、さもなければ、しだ(・・)と石の上にいよいよ輝きをました夕日の光が、燃え立ってこの美少女と化したのか、と思わせた。少女はすんなりとして、背は高らず低からず、帽子はかぶっていない。ひたいの上に高く結いあげられたとび(・・)色の髪が、熱っぽい夕日の光とからみ合って少女の顔のまわりに後光のごとく輝いている。その色の壮麗さ、ぶなの木やわらびのやぶを秋が色づける時のあのみごとな色そのままだ。しかも少女は青い瞳をもっている――りんどう(・・・・)のように青い瞳。その両の瞳(め)の大きさがブレンドンを驚かした。

……冒頭より


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