「列藩騒動録」

(上・下)

海音寺潮五郎

(上)ドットブック 479KB/テキストファイル 211KB

(下)ドットブック 446KB/テキストファイル 219KB

各600円

 

江戸時代、諸大名の家には多種多様なお家騒動があった。それぞれの騒動は、その藩独自の事情、武士の気質、関係諸人物の個性、そのときの時勢等の要素がからみあって出来した。海音寺潮五郎は鋭い人間観察、博い学識と精確な考証とを駆使して、どこまでもその真実の姿を追求する。上巻では、島津・伊達・黒田・加賀・秋田・越前の諸藩の騒動を、下巻では、越後・仙石・生駒・檜山・宇都宮・阿波の諸騒動を、個性豊かな人物が乱舞する事変として生き生きと再現する。
「経営改革というのは、企業にとって、いつも古くて新しい、また永遠の課題だが、その改革についての、現状把握・改革すべき点・その方法・その成否等を、歴史の中から親切に事例研究してくれるのが、本書である。お家騒動というと、すぐ相続人争いというふうに短絡するが、実はそうではなく、経営改革者と反対派(守旧派)の凄絶な闘争史だ、ということを教えてくれる」(竜門冬二氏)

海音寺潮五郎(1901〜77)鹿児島県伊佐郡大口村(現在の伊佐市)生まれ。本名は末富東作(すえとみとうさく)。国学院大学高等師範部国漢科を卒業後、中学教師を務めながら、創作をおこなう。1934年から歴史小説を発表しはじめ、36年「天正女合戦」と「武道伝来記」が認められて第3回直木賞を受賞。以後、歴史小説・史伝ものの第一人者となった。前者の代表作は「平将門」「海と風と虹と」「蒙古来たる」など、後者では「武将列伝」「悪人列伝」「西郷隆盛」(絶筆・未完)など。

立ち読みフロア
 江戸時代の大名の家は、早晩貧乏に陥らなければならない仕組になっていた。
 元来、大名の家は軍団というのが建前になっている。一旦緩急の際は、幕府の命によって出陣しなければならず、軍役が石高によってきまっている。慶安二年の定めによると、一万石につき、鉄砲二十梃、弓十張、旗三、槍三十、騎馬(きば)〔将校〕十人、人数二百三十五人となっている。十万石ならこの十倍、五十万石ならこの五十倍だ。これは最低限の軍備で、これだけは常備し、命令があればいつでも出せるようにしておかなければならない。つまり、いつもこれだけの人間には知行(ちぎょう)と扶持(ふち)をあてがって無駄飯を食わせておかなければならないのだ。軍団であると同時に国家としての機能もあるから、公務員もおかなければならない。これは軍人と重複してもさしつかえはないが、両方の才のある人間は少ないから、そう経済的には行かない。
 太平がつづけば、人間の生活が向上し、ぜい沢になるのは自然の勢いだ。大名の家は収入のふやしようがなく、あるいはふやしてもそう大はばにふやすことは出来ないから、貧乏になるよりほかはない。大名の主収入は領地の百姓から取上げる田租だ。領地の広さはきまっている。新田の開墾をしたり、他の物産の生産を奨励したりしてみたところで、鎖国の時代では技術やなんぞの関係で、多くを望むことは出来ない。増収は年々にふえて行く失費をとうてい補うことは出来ない。
 参覲(さんきん)交代の制度がまた拍車をかける。この制度はその主なる目的が大名の財力をそぐにある。何年毎に参覲するかは家によって違うが、大体において一年おきに交代するのだから、毎年半分は江戸住いする計算になる。江戸住いはいわば旅住いだ。旅先は何層倍の金のかかるものだ。それに往復の費用を算入すると、一通りや二通りの失費ではない。
 手伝い普請というのもある。江戸初期には、江戸城をはじめとして、名古屋城、駿府城、丹波の篠山(ささやま)城、姫路城等を外様の大名らに手伝い普請させて築いたり、修理したりしたが、その後は河川の堤防つくりだの、川ざらえだのがある。勅使饗応役というのもある。いずれも金のかかること一通りでないことだ。
 大名は貧乏になるのが、必然の運命であった。
 もっとも、貧乏で潰れた大名は筑後柳川の田中家以外はない。その田中家の滅亡も、貧乏が直接の原因にはなっていない。貧乏で大阪の陣に出陣するのが手間取っている間に豊臣家がほろんでしまったので出陣せず、にらまれているところに、当主が養子をせずあとつぎがなく死んだので、情状酌量されることなく取潰されたのだ。
 さて、薩摩の島津家のお家騒動も、その大本にさかのぼれば、貧乏からはじまった。島津家の貧乏は、そのはじめは何が原因というほどの取りとめたものはない。江戸時代の大名の家の必然の運命によって、よほどに貧乏になって、八代将軍吉宗の頃にはもう七十余万両の藩債があったのだが、これに拍車をかけたのは、次の九代将軍家重の治世である宝暦年度に、木曾川の治水工事を命ぜられて果したことであった。
 この工事にいくら金がかかったか、よくわからないが、四十万両を下ることはあるまいと言われている。この時代の藩主は重年という人だが、借金を苦にして、若くして死んでしまった。
 次の藩主は重年の子の重豪(しげひで)だ。これはなかなか豪邁(ごうまい)な人で、乱世の風雲時代に生まれ合わせたなら、英雄といわれるほどの働きをした人であろうが、碁盤の目のように秩序が定まり、鉄のワクのようにきびしい家格の規制のきまり切っている太平の世に生まれ合わせたために、英雄的気魄(きはく)は鬱屈して、わがままとぜい沢になるよりほかはなかった。
 重豪は金のかかることばかりした。藩黌(はんこう)造士館を建てた。天文学者を養い、天文館を建て、薩摩暦を出した。博物全書ともいうべき成形図説を出した。中国語辞典である南山俗語考を出した。長崎出島のオランダ商館長ヘンドリック・ヅーフや、商館つきの医者シーボルトと交(まじわ)りを結んで、さかんに西洋の品物を買いこんだ。薩摩の言語風俗は固陋であるとして鎖国策をやめて大いに他国人を入れ、言語改革をし、ぜい沢や遊びを奨励した。自らの生活も豪奢をきわめた。彼は娘を十一代将軍家斉(いえなり)が一橋公である頃にその夫人として縁づけていたので、家斉が将軍になると将軍岳父となったが、十五代の将軍の中で一番ぜい沢であったといわれている家斉が、
「薩摩のしゅうと殿のようにやりたい」
 と、うらやましがったといわれるくらい、その生活は豪奢であった。
 前代までによほどの藩債があるのに、こうぜい沢し得たのは、借金政策をとりつづけたからであるが、重豪五十六の時には、借金はついに重畳(ちょうじょう)する山のごとくなり、どうにもこうにもならなくなった。
 そこで、隠居して、子の斉宣(なりのぶ)が当主となった。
 斉宣はこの時三十七だ。こんな年まで部屋住みだっただけに、父の政治ぶりにひそかな批判もあり、おれならこうするという経綸(けいりん)もあった。家を嗣いで三年目に、秩父太郎という者を登用した。
 秩父太郎は、この時までお咎めを受け、蟄居を命ぜられていること七八年におよんでいる人物だったのだ。
 秩父がなぜお咎めを受ける身になったかには、こんな話がある。
 重豪(しげひで)の当主であった時代の末期、藩の苦しい財政のやりくりのため、薩藩領内はきびしい苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)が行われ、百姓らの苦しみはひどいものになった。ぼくの生まれ在所は鹿児島県の穀倉といわれるくらい良質の米を多量に産出するところで、穣々たる美田のつづく地帯であるが、山一重で肥後に接しているところから、この時代には百姓らの逃散(ちょうさん)する者が相つぎ、さしもの豊沃な美田が原野(げんや)化するものが多かったと伝えられている。
 この百姓らの苦しんでいるという話が、重豪の耳に入った。重豪は大目付の新納久命(にいろひさのり)・島津久兼を召して、
「しかじかの由を聞く。調査して、報告するよう」
 と、命じた。
「かしこまりました」
 二人は郡奉行や目付らを召集して、
「近年ご領内の百姓らが、《たつき》に苦しんでいる趣きを聞召(きこしめ)し、どの程度に苦しんでいるか、くわしく知りたいと仰せある。急ぎ調査の上、報告いたすよう」
 と申し渡した。
「かしこまりました」
 と、皆答えたが、目付の中で、ただ一人かしこまらなかったのが、秩父太郎季保(すえやす)だ。昂然として首をあげ、大目付らをにらんでいる。
「秩父、貴殿は?」
 と、新納(にいろ)がとがめると、秩父は、
「百姓共は皆貧窮きわまり、今や餓(かつ)え死せんばかりでござる。今さら調査する必要はござらん」
 と、あらあらしく答えた。秩父にしてみれば、領民にたいする苛斂誅求も、百姓らの苦しみも皆知っていることだ、調査じゃの何じゃのといっていないで、重豪から下問があったら、即座に答申し、面(おもて)をおかして諫言すべきであり、それが臣たるの道であるという肚(はら)があるので、大目付らの生(なま)ぬるさや、郡奉行や同役の目付らの官僚根性が腹にすえかねたのであろう。
 秩父の手荒な態度に、新納は気色(けしき)ばんだ。
「わしは君命によって申しつけている。調査の必要ないとは、貴殿は君命をなみするのか」
「調査とは実情を知るためのものでござる。このことは、すでに実情明らかでござる故、必要なしと申したのでござる。ご領内の百姓共は皆貧窮きわまリ、餓死せんばかりでござる。一人のしからざる者なし。これが実情でござる。拙者はお目付でござる。知るところの実情を申し上ぐるのは職分でござる」
 新納は言いつめられてことばが出なくなったが、大目付の権威に関すると思ったのであろう、島津久兼が口を出した。やや皮肉な口調で、
「貴殿は郡奉行でもないのに、どうしてそんなことがわかるのだ」
 秩父はぐいと向きなおり、はげしい目でにらみ、語気もあららかに言いはなった。
「近年お取立てのきびしいため、ご領内の百姓共の生活は難儀をきわめています。これは三歳の童児でも存じていること、お目付たる者が知らでなり申そうか。郡奉行に改めて調査させるなど、いらぬことでござる。早々にさよう申し上げられるがよろしゅうござる」
 新納らは腹を立てたが、言いかえすことが出来ず、席は白けた。
 秩父が退席した後、大目付らは相談して、秩父の同役の者を召して、秩父の言ったことは別として、上役にむかって態度不遜である、諭(さと)して進退伺いを出させるようにと、命じた。
 同役がこれを伝えると、秩父は、
「拙者は職分をつくしたまででござる。何の罪あれば、さようなことをせねばならんのでござる」
 と、はねつけた。
 大目付らは益々怒り、家老に上申し、上長をしのぎ、秩序をみだしたという罪名で、秩父の職を免じ、蟄居(ちっきょ)を命じた。この時、秩父は二十九歳であった。
 秩父の家は薄禄である。同時代の薩摩の学者で、造士館教授であった山本正誼(まさよし)〔通称伝蔵、秋水と号す〕の「文化朋党録」に、「季保(すえやす)、家貧にして余蓄なし」とある。貯蓄もなかったのである。秩父が目付として受ける役俸は、彼の家の生活にとってきわめて大事なものだったのだ。免職になったのだから、忽ち生活に窮した。当時は社会の制度上、一族は共同責任体の形になっている。一族の連中らは、あと先き見ずの反抗などしてこげんことになって、迷惑千万じゃなどと言いながら、援助の手をさしのばしたが、秩父ははねつけた。
「いらん」
「いらんというて……」
「いらんからいらんというのじゃ。おはん方の世話にはならん」
「世話にならんというて、どうしなさるのじゃ」
「世話にならんというのじゃ。かまわんでもらおう」
 けんもほろろな態度に、皆腹を立てて手を引いた。
 秩父は邸内の空地を全部たがやして畠とし、麦を作り、野菜を次ぎつぎに輪作(りんさく)し、食料にもすれば、売って現金にかえもして生活し、まるでへこたれる様子のないこと五年間であった。
 これだけでも普通の者には出来ることでないのに、夜間や雨の日には、朱子説によって儒学を講究し、特に朱子の著書で、その学問の精髄とされている「近思録」と、朱子の先学である周敦頤(しゅうとんい)の「太極図説」についての研究は精到をきわめた。こんな節義の立て方は、いつの時代、どこであっても、最も見事なこととされる。まして、この時代の薩摩である。
「見事なもの!」
「あっぱれ武士!」
 と、しだいに名声が高くなり、交(まじわ)りをもとめて来る者が出て来た。秩父はこの人々とともに、一層精をはげまして、学問を研究していた。
 最も気節ある武士として尊敬されるようになっていたので、斉宣(なりのぶ)も家を嗣ぐ以前から秩父を慕わしく思っていたのだが、父の怒りに触れて免職されて蟄居中の者を、当主になったからとて、すぐには登用出来ない。父にたいするあてつけと見られる恐れがある。それで、家をついで三年待って、もうよかろうと、登用する。先ず蟄居の罪をゆるし、三日目に裁許掛(さいきょがかり)に任命し、以後異常なスピードで昇進させ、一年四ヵ月後には家老に任命した。

……「島津騒動」冒頭より


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