「黒い蘭」―ネロ・ウルフ中編傑作

レックス・スタウト/ 大村美根子訳

ドットブック版 191KB/テキストファイル 141B

400円

◆ネロ・ウルフ傑作中編2作収録◆
【黒い蘭】――フラワー・ショウに出品された三鉢の「黒い蘭」……ウルフの羨望と好奇心はついにクライマックスに達したのだ。彼はコーヒー・カップを置くなり、〈大義〉のためにはあらゆる危険と困難に挑む覚悟といった顔つきで、ぼくに命令を下した。「どうかセダンをまわしてもらいたい。あそこへ行って、あのいまいましいしろものを自分の目で確かめるつもりだ」
【殺しはツケで】――ネロのお気に入りの靴みがきが、殺人の嫌疑をかけられたまま墜死する。父の潔白を証明したいという娘の願いを入れてネロは真相究明に乗り出す。

レックス・スタウト(1886〜1975) 米国インディアナ州生まれ。両親はクエーカー教徒。若いころは多数の職を転々としながら、詩や小説を書く。30歳頃にあるアイデアから大金を得たが、大恐慌で破産。1934年、48歳のときに発表したミステリー「毒蛇」でたちまち人気作家に。以後この「ネロ・ウルフ」シリーズは、長編だけでも34作に達した。この探偵は、古今の探偵のなかでも、最も魅力のある人物のひとりである。

立ち読みフロア
 月曜日はフラワー・ショー、火曜日もフラワー・ショー、水曜日もフラワー・ショー。ぼくはアーチー・グッドウィン。これは一体どういうことだ。花がきれいなのは認めるが、百万の花が集まれば百万倍きれいというものじゃない。いくら牡蠣(かき)がうまくても、貨車一輌分を食いたがるやつがどこにいる?
 月曜日の午後、フラワー・ショーへ行けとウルフに命じられたときは、さして気を悪くもしなかった。どっちみち予測はしていたのだ。新聞の日曜版が特にページを割(さ)いて派手な宣伝をやらかしたことだし、家の誰かが蘭を見に行かされるのは当然のなりゆきだった。フリッツ・ブレナーはそんなに長く台所を離れてはいられない。シオドア・ホーストマンは屋上の植物室で蘭にかかりきり。ウルフ当人はと言えば、探偵商売で食い詰めた日には物理学研究所の〈静止した物体〉に鞍(くら)替えしかねないご仁(じん)。だとすると、残るはこのぼくだ。果たして読みは適中した。
 月曜日の午後六時、植物室を出てオフィスへたどり着いたウルフに、ぼくは報告した。
「見て来ましたよ。サンプルをくすねるのは無理でしたけど」
 彼はうなり、椅子に腰を落ちつけた。
「そんなことを頼んではいない」
「誰が頼まれたと言いました? でも、暗に期待してたじゃないですか。例のものはガラス・ケースに三つおさまって、警備員がへばりついていましたよ」
「色は?」
「黒じゃありませんでした」
「黒い花というのは決して黒くはないのだ。どんな色だった?」
「そうですねえ」ぼくは考えこんだ。「たとえば石炭かなあ。無煙炭じゃだめです。燭炭ですね」
「あれは黒だ」
「待ってください。その上に、湯煎(ゆせん)した糖蜜を薄く塗るんです。そういう色でした」
「ふふん。きみはさっぱりイメージをつかんでおらん。従って、わたしにもつかめない」
「石炭をひとかけら買って来ますよ。試してみましょう」
「けっこう。唇弁(しんべん)にむらはなかったか?」
 ぼくはうなずいた。
「石炭に糖蜜がむらなく塗られてました。大きな唇弁ですね。オーレアほどじゃなくて、トラファウティアナ程度ですが。セパルは槍状です。花喉はオレンジがかって――」
「しおれの徴候は?」
「ありません」
「明日もう一度行って、花弁のヘリがしおれているかどうか調べてもらいたい。きみも知っているとおり、これは受粉後の特徴だ。受粉がなされているか否かを知りたい」
 そこで、火曜日の昼食後、ぼくは再度足を運んだ。その夕方の六時には、さらに細かく花を描写し、しおれは見られなかったと報告した。
 自分のデスクについて、壁を背にしたウルフとむかい合い、冷ややかなまなざしを投げかけた。
「ひとつ、お教え願えませんかね。フラワー・ショーで出くわすご婦人ってのは、どうしてまた、いかにもフラワー・ショーへ行きそうなタイプばかりなんでしょう? 九割がたがそうですよ。とりわけ足がね。こういう結果になるのはなぜなんです? 要するに、彼女たちは花を贈られた経験がないもんで、やむなく花を見られるところへ出かけるんでしょうか? それとも」
「黙っていなさい。わたしの知ったことか。明日もう一度行って、しおれの有無を確かめろ」
 心得ておくべきだったが、彼の気分はたかが蘭三つのせいで刻一刻と険悪さを増し、今や爆発寸前となっていたわけだ。だが、水曜日に再遠征したぼくは、七時近くまで帰宅しなかった。オフィスに顔を出すと、彼はビールの空壜二本を前にして、三本目をグラスに注ぎかけていた。
「道に迷ったのかね?」彼は礼儀正しくたずねた。
 ぼくは腹を立てなかった。なかばは本気なのがわかっていたのだ。誰にも道案内をされずに三十五丁目と十番街の角から、四十四丁目とレキシントン街の角まで車を走らせて、また戻ってくるという芸当は、とても人間わざじゃないと思いかけていたのだろう。ぼくは、しおれは見られなかったと報告し、自分のデスクについて、彼が載せておいたものに目を通し、彼のほうへ椅子を回転させた。
「ぼくは結婚するつもりです」
 半開きのまぶたはぴくりともしなかったが、その奥の目が動いたので、そこへ視線を集中した。
「率直に話し合いましょう。ぼくは十年以上あなたの家で暮らし、あなたの手紙をタイプし、あなたの目を覚まさせておき、あなたの肉体に危害が加えられるのを防ぎ、あなたのタイヤとぼくの靴をすり減らしてきました。遅かれ早かれ、結婚するという脅迫は冗談事じゃなくなるんです。そのときをどうやって見分けます? 今度のがそうではないと言い切れますか?」
 彼は嘲笑をこめた音を発し、グラスを取り上げた。

……「黒い蘭」巻頭より


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