「花のない葬礼」―ネロ・ウルフ中編傑作

レックス・スタウト/ 大村美根子訳

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400円

◆ネロ・ウルフ傑作中編2作収録◆
【 イースター・パレード】――ある富豪が世界で唯一の珍しい蘭を創った。その夫人がその蘭の花を身に飾り、イースターの日に教会へ出むくという。この噂を耳にしたウルフは突如「羨望の発作」をおこした。そして……
【 花のない葬礼】――ウルフがファースト・ネームで呼び合う旧友マルコ・ヴュクシックが事件を持ちこんだ。ソースつくりの名人でマルコの良師が、こともあろうに殺人犯にされているというのだ。

レックス・スタウト(1886〜1975) 米国インディアナ州生まれ。両親はクエーカー教徒。若いころは多数の職を転々としながら、詩や小説を書く。30歳頃にあるアイデアから大金を得たが、大恐慌で破産。1934年、48歳のときに発表したミステリー「毒蛇」でたちまち人気作家に。以後この「ネロ・ウルフ」シリーズは、長編だけでも34作に達した。この探偵は、古今の探偵のなかでも、最も魅力のある人物のひとりである。

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 ぼくに言わせると、ネロ・ウルフはあの事件で史上一、二を数えるあざやかな手ぎわを示している。しかも、報酬は五セント玉ひとつだって受け取っていないのだ。
 彼が単に、自分をファースト・ネームで呼ぶわずか三人のうちの一人、旧友マルコ・ヴュクシックヘの好意から事件解決に乗り出したのかどうか、それはなんともわからない。要因はほかにも考えられる。ラスターマン・レストランはウルフが自宅以外で食事を心から楽しむ唯一の場所であり、マルコはこの店の所有者兼経営者であり、彼がラスターマンの小さな個室でウルフを悩ませにかかったのは、特別誂えのディナーを締めくくるチーズのワゴンが登場したときだった。さらに、トラブルに陥った男はかつての料理人である。
「確かにねえ」マルコはクレモナ・ゴルゴンゾーラをもうひとかたまり、ぼくの皿に載せようとした。「彼は何年も前に、職業上の敬意をことごとく剥奪される身となった。しかし、わたしは若い時分にパリのモンドールで彼の下についていてね。三十歳の彼はフランス一のソース職人だったんだ。天才で寛大な心の持ち主だったよ。わたしはずいぶんと恩義を感じてる。彼が殺人の濡れ衣を着せられるのを、手を拱(こまね)いて眺めようものなら、このチーズが喉につかえてしまう」マルコは長い薄刃のナイフを振り立てた。「とはいえ、わたしは何者だろう? 一介の食堂のおやじじゃないか。ところが、あんたは偉大な探偵だし、わたしの友達だ。だから、お願いするよ。どうか彼を救ってくれ」マルコはナイフの先をぼくにむけた。「そしてもちろん、アーチーにもね――きみもやはり、わたしの友達だと思っているが」
 彼の料理とワインを全身に行き渡らせたぼくは、感情をこめてうなずいた。
「そうですとも。だけど、お世辞のむだ遣いはけっこうですよ。ぼくは荷物持ちに過ぎませんので」
「へえ」マルコは疑わしげに言った。「わが友よ。きみがどのくらい深入りするかは心得てるんだ。必要な金のことだが、当然わたしがすべてを負担する」
 ウルフのうなり声が聞こえ、われわれはそちらへ視線を移した。ほかの部分のはなはだしい嵩(かさ)のため、決して大きく見えない大きな顔は、美食のあとゆえ生気に満ちて少々赤らんでいたものの、眼にはうなり声を出すに至った苛立ちがうかがえた。眼をむけた相手はわれらがホストである。
「ふふん」彼は再び声を発した。「その言いぶんは正当かな、マルコ? いいや。もしもわたしを雇って料金を支払う気なら、仕事はきみのテーブルではなく、わたしのオフィスで行なおう。友情を求めているのであれば、なぜ金のことを口にする? その男には――名前はなんという?」
「ポンパ。ヴァージル・ポンパだ」
「わたしに愛情手形の振り出しを要求できるほど、彼に恩を受けているのかね?」
「ああ」マルコもまた、心もち苛立っていた。「まったくもう、そう言ったろう?」
「では、選択の余地はないな。明日の午前十一時にオフィスへ来て、事情を話してくれ」
「それじゃ間に合わないね。彼は殺人の容疑で留置されている。今日の午後、弁護士と一緒に、さんざん苦労して面会に漕ぎつけた。危険が迫ってるし、恐怖のあまり死にかけてるよ。六十八歳なんだ」
「いやはや」ウルフは溜息をついた。「なんたることだ、いくつか語り合いたい事柄があったというのに。それに、彼が犯人だった場合はどうする? 新聞記事によれば、そのように見受けられるではないか。彼の犯行ではないと、そんなに確信しているのはなぜなんだね?」
「今日の午後に彼と会って、話を聞いたからさ。ヴァージル・ポンパにだってもちろん、人殺しはできるだろうよ。殺したあとで警察官や弁護士に嘘をつくだけの分別も、間違いなく備えているだろう。だが、まともにわたしの眼を見て、あんなことをあんなふうに言えるはずはない」マルコはナイフを剣に見立て、胸に十字を描いた。「誓うよ、ネロ。彼は殺しちゃいない。これで充分か?」
「うむ」ウルフは皿を押しやった。「チーズを追加して、話を聞かせてくれ」
「ル・ボンドンかね?」
「五種類全部にしてもらいたい。どれが好みかを決めかねている」

……「花のない葬礼」巻頭より


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