「大あたり殺人事件」

クレイグ・ライス/長谷川修二訳

ドットブック版 252KB/テキストファイル 186KB

500円

シカゴの酔いどれ弁護士マローン、もと新聞記者ジェーク・ジャスタス、その妻で殺人的な運転の腕前を誇るヘレン・ジャスタス、この3人組の探偵トリオがこんがらがった「殺人事件」解明に縦横な活躍を見せるユーモア本格ミステリの代表作。

クレイグ・ライス(1908〜57) アガサ・クリスティの独創性、ダシール・ハメットのスピード感、ドロシー・セイヤーズのウィットを複合して独特の語り口で結合させたと評される、アメリカを代表する女性作家。笑いのある本格ミステリというユニークな作風は、他の追随をゆるさない。他の代表作に「大はずれ殺人事件」「こびと殺人事件」「幸運な死体」など。

立ち読みフロア
 ずんぐりした赤ら顔の男が、一人でバーのカウンターにすわって、ジンを飲みながら泣いていた。時おり、グラスを持ちあげて中味を飲んでは、まるでそのグラスがこの世のすべての悲しみを写し出す水晶の《たま》ででもあるかのようにじっと眺め、またそれをカウンターの上に置くのである。
『天使』ジョーのシティ・ホール酒場にいるほかの客たち――そのたいていは、この男の友人だったのだが――が愉快に楽しんでいたのは、この男には問題ではなかった。二十六ゲームの台にいるやかましい三人組も彼の気をひかなかった。だが、となりにいる一団が選挙の結果に祝杯をあげているのを知った時、一度だけ頭をあげた。その頭をあげたのも、不審に思ったからだった。選挙はもう二カ月も前に終っていたのだ。ところが、彼らが祝っているのは、クリーブランドの選挙なんだと気がついて、彼は再びもとの憂鬱(ゆううつ)症のような状態にもどるのだった。
 この背の低い、小太りの赤ら顔の男は、ジョン・J・マローン、すなわちシカゴで最も有名な刑事弁護士なのである。そしてまた、その時は、地球上で最も不幸な男だった。
 それは、『シェ・パリー』に出ていた長い脚をしたブルネット美人が、彼が大枚を投じて贈ったクリスマスの贈物を質に入れて、新しい相手とニューヨークへ逃げて行ってしまったからではなかった。彼がしこたま酒を飲む以外、何もできないような破産状態に立ち至っていたからでもなかった。今が大晦日(おおみそか)の夜で、この大きな都会にたった一人ぼっちだからというのでもない。ただ、彼がこの世で一番好きな二人がバーミュダ島へ新婚旅行に行ってしまって、二人に会えないのが淋しかったからなのである。
 マローンは、少し薄くなってきた真黒の髪を額からかきあげ、顔を拭い、空になったグラスと五ドル紙幣を『天使』ジョーのほうへ押しやって、「これがなくなったら知らせてくれ」と言った。
 ジェークがここにさえいたら――。赤毛のジェーク・ジャスタスは、自称するところでは、現存する最大の宣伝マンで、また『エクザミナー新聞』をクビになるまでは、まったくのところ、世界一の新聞記者だったのだ。
 ヘレンがここにいてくれさえしたら――。ヘレンというのは、金髪の美人で、金持ちで、魅惑的で、交通局にとっては恐怖の的(まと)であり、ブラフ湖とゲーリーとの間にある酒場のあらゆるバーテンダーたちにとっては喜びの的なのである。しかし、ジェークとヘレンは、バーミュダ島へ新婚旅行中だった。マローンはジェークとヘレンが楽しく過ごしていてほしいものだと祈り、またジンのグラスの中に涙をこぼし始めた。
 彼のすぐ右にいた四人の男が『あなたのママさんアイルランド娘?』を歌い始めた。小柄な弁護士は身を起こして、男が四人、酒場で歌えば、いつも三人がアイルランド生まれなのはなぜなんだろうと思った。
 このシティ・ホール・バーの常連の一人が、よりによって、悪い時を選んだものだが、彼のほうへにじり寄って来て、親しげに話しかけてきた。
「ねえ、君はあのマディソンとステート通りの交差点で起こった射殺事件を解決するのに大きな助力をしたんだってね」〔『大はずれ殺人事件』参照〕
「いや、せっかくだから、一杯おごってあげたいんだが――」
「それには及ばないんだ。あの女の子はあの殺人をしたと本当に君に白状したの?」
 不機嫌な弁護士は、冷たい空ろな凝視を相手に投げかけて、次々と飛び出す質問をせき止めた。
「君は、ジョン・J・マローンなんだろ?」
「違うよ」弁護士が言った。「君は人違いしているんだ。僕はバード少将だよ」
 闖入者(ちんにゅうしゃ)は相手の意味を汲(く)んで、静かに向こうへ行ってしまった。
 ジョン・J・マローンは大きく息を吸い込んで、どんな石のような冷たい心臓もつぶしてしまうような溜息をついた。そしてもう一杯ジンを注文して、殺人事件など思い出さなければよかったのに、と思った。

……巻頭より

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