「赤い館の騎士―マリー・アントワネットを救え(全3巻)

デュマ/鈴木豊訳

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各400円

フランス革命が一つのピークに達っした1793年、国王ルイ16世はすでに処刑され、王妃マリー・アントワネットは獄中の身となる。穏健派「ジロンド党」と過激派「山岳党」の覇権あらそいが革命政府の内部で激しさをくわえるなか、反革命の王党派にとっては「マリー・アントワネットを救え」は至上の使命だった。「赤い館の騎士」とは果たして何者なのか? 王妃救出ミッションの成否は? 「モンテクリスト伯」「王妃マルゴ」などの力作を矢継ぎばやに世に送ったデュマの、最も華々しかった油の乗り切った時期に書かれた代表作。

アレクサンドル・デュマ(1802〜70)フランスの小説家、劇作家。黒人系の血をひき、北フランスのヴィレール=コトレに生まれる。パリに出て法律を学び、能筆を認められてオルレアン公の秘書になるが、18のときに観た「ハムレット」を忘れられずに劇作に打ち込み、29年「アンリ3世とその宮廷」によってデビュー。以後、多くの劇作によって評判をとった。35年頃からは歴史小説に手を染め、「三銃士」(のちに大連作「ダルタニャン物語」として完成)、「モンテ・クリスト伯」などの大作を次々に発表、世界を代表するエンターテイメント作家になった。派手な暮らしでも有名になったが、晩年はひっそりと息子の住む別荘先で亡くなった。

立ち読みフロア

  一七九三年三月十日の夜のことだった。
 今しがた、ノートル・ダム寺院の鐘が十時を打ったところだった。時を告げる鐘のひと打ちひと打ちが、ブロンズの巣から放たれた夜の鳥のように、ひとつまたひとつと響きわたり、悲しそうに、単調に、そして震えながら飛び立っていった。
 夜のとばりがパリの上にすっぽりと落ちかかった。ごろごろと音の聞える、雷雨模様の、ときどき稲妻が交叉するパリではなく、冷えびえした、霧の深いパリの夜だった。パリそのものが、あのわれわれが知っている、金色の沼に数えきれぬ燈火が反映する夜の、きらめくようなパリとは違っていた。忙しげにひとの行きかう、楽しそうな囁き声の聞える、場末に酒のみたちがたむろする、威勢のいい喧嘩沙汰や、思い切った犯罪の温床、無数のひとびとのうめき声の煮えたぎる大釜のようなあのパリではなかった。それは汚辱にまみれた、おずおずした、せわしない町で、ごくたまにひとが通りかかっても、こちらの街から向うの街へ横ぎるにも駆け抜けてゆき、まるで狩人に追われた野獣が自分の巣へ逃げ込むように、自分の家の私道や門の中へ脱兎のように走り去るのであった。
 前にも言ったように、これが一七九三年三月十日のパリであった。
 当時の首都の表情にこんな変化をもたらした極限状況について二言、三言説明をしてから、その後にこの物語の本筋にからまる諸事件に移ることにしよう。
 ルイ十六世の死によって、フランスは全ヨーロッパと国交を絶ってしまった。はじめに干戈《かんか》を交えていた三敵国、すなわち、プロシア、神聖ローマ帝国(オーストリア)、ピエモンに加えて、さらにイギリス、オランダ、スペインが連合した。ただわずかに、スウェーデンとデンマークだけが昔ながらの中立を守ってはいたが、彼らはなおまた、当時ポーランドを撃破していたカテリーヌ二世(カザリン女皇)に目を奪われていた最中で、そちらのほうに忙殺されていたからであった。
 情況はまさに恐るべきものだった。フランスは例の九月の虐殺(一七九二年九月二日、パリ市民が各所の監獄を襲撃、王党派を虐殺した事件)および一月二十一日(一七九三年、ルイ十六世の処刑を指す)の処刑事件以来、べつにその外面的なちからを高く評価されてもいなかった。しかし、さながら単なる一都市のように、全ヨーロッパに包囲されていたのである。イギリスは海をへだててひかえ、ピレネー側にはスペイン、アルプス側にはピエモンとオーストリア、ネーデルランドの北部にはオランダとプロシア、そしてただの一点、つまり高ライン地方、エスコーでは、二十五万人の兵隊たちが共和国目ざして進軍していた。
 いたるところで、われらの将軍たちは撃破されていた。マツァンスキイは余儀なくエックス・ラ・シャペルを放棄し、リエージュまで後退しなければならなかった。ステンジェルとヌイイはランブールへ退却した。メストリヒトを包囲していたミランダは、トングルへ引き上げた。ヴァランスとダンピエールは撤退しながら敵に当たらなければならず、自分たちの物資の一部まで敵に奪われる有様だった。すでに一万人以上の脱走兵たちが隊から離脱して、国内に散らばっていた。ついに、国民議会としては、もう望みをかけるのはただデュムーリエ以外にはなくなり、彼に向けて矢継早やに急使を送って、ラ・ムーズ軍の指揮をとるためにビースボー海岸を出発するように命令しようとしていた。この海岸で、彼はオランダ上陸作戦の準備をととのえていたのである。
 生身《なまみ》の体でも心臓がものに感じ易いと同じことで、フランスのパリ、つまりフランスの心臓には、いちばん遠い地点に起こったものでも、敵の侵入とか、反逆とかまた裏切りなどの事件がもたらす打撃のひとつひとつが強く響いてくるのである。ひとたび勝報に接すれば歓喜の喚声があがり、逆にまた敗戦の知らせを聞けば戦々兢々の気分が昴《たか》まった。そうしてみれば、いまわれわれが耳にしたばかりのあの連続的な悲報に接して、どんな混乱が渦巻いたかはしごく簡単に判断できるだろう。
 その前日、すなわち三月九日には、国民議会の議場は今までにない荒れ模様だった。士官は全員、同時に所属の連隊に合流すべしとの命令をすでに受け取っていた。そしてダントンが、とうてい不可能な大胆な提案をして、しかもみごとにやってのけてしまう例のダントンが演壇に上り、こんな絶叫をしたものだった。
「兵隊が足りない、と諸君は言うのか? パリに、フランスを救うチャンスを与えようじゃあないか、三万人の男子を出すようにパリに要求しようじゃあないか、そしてその連中をデュムーリエのところへ送ろう、そうすれば、ただにフランスが救われるだけでなく、ベルギーまでも安泰になり、オランダも征服できるぞ」
 この提案は熱狂的な叫び声とともに受け容れられた。戸籍簿があらゆる地区でページをめくられ、全地区のメンバーがその夜のうちに集合するように招集がかかった。娯楽禁止の布告のために劇場はすでに全部閉鎖されていたし、SOSを意味する弔旗が市庁の上にかかげられていた。
 夜半十二時までに、三万五千の名前が徴兵簿に記入された。
 ただ、前に例の九月虐殺の日々に起こったと同じようなことが、その晩もすでに起こっていた。各地区で、志願兵たちが名前を登録しながら、自分たちが戦場へ出陣する前に、反逆者どもを処罰すべきだ、という要求をしたのである。
 反逆者どもというのは、実際には反革命主義者であり、隠れたる陰謀家で、彼らは国外からさんざんにやっつけられた大革命を、国内から脅かそうとしていた。しかし、どなたもご存知のように、言葉というものはまったく広い意味を持っていて、この時代にフランスを危機に陥れた極端派《エクストレーム》がその意味を濫用していたのである。つまり、反逆者すなわちもっとも弱い者なのだ。ところで、当時はジロンド党員たちがもっとも弱い者であって、山岳党員たちは、ジロンド党員こそ反逆者なり、ときめつけていた。

……巻頭より

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