「ラバー・バンド」

レックス・スタウト/佐倉潤吾訳

ドットブック版 258KB/テキストファイル 193B

600円

ウルフのもとに沿海物産会社の社長が、社で起こった三万ドル盗難事件の調査を依頼にきた――同社の事務員クララ・フォックスがこの件で疑われているから、彼女の無実を明らかにしてもらいたいという……。ついで今度は当のクララが奇妙な依頼をもってきた。それは、戦死した父がまだ若かった頃、ネヴァダ州の鉱山町で首吊りにされそうになったイギリスの貴族を助け出したことがあり、その男が他日、財産を相続したらその半分を謝礼すると約束してあったので、それを取り立ててもらいたいという。ウルフは彼女の話に興味を感じ、たった一ドルでその依頼を引き受けた…

レックス・スタウト(1886〜1975) 米国インディアナ州生まれ。両親はクエーカー教徒。若いころは多数の職を転々としながら、詩や小説を書く。30歳頃にあるアイデアから大金を得たが、大恐慌で破産。1934年、48歳のときに発表したミステリー「毒蛇」でたちまち人気作家に。以後この「ネロ・ウルフ」シリーズは、長編だけでも34作に達した。この探偵は、古今の探偵のなかでも、最も魅力のある人物のひとりである。

立ち読みフロア
 ぼくはニューヨーク・タイムスの日曜版の雑誌付録を下に置いて、欠伸をした。ネロ・ウルフのほうを眺めて、また欠伸をした。
「このS・J・ウルフっていうのは、あなたの親類ですか?」と聞いてみた。
 ウルフは投げ矢を飛ばせて、クラブのキングに命中させたところだ。ぼくの言ったことに知らん顔している。ぼくは続けた。
「そうじゃないようですね、綴りが違いますから。なぜ私がこんなこと聞いたかっていうと、素晴しい考えを思いついたからです。このS・J・ウルフにあなたの似顔と記事を書いてもらって、タイムスにのせてもらったら、商売のいい宣伝になるじゃありませんか。あなたには材料がいっぱいありますからねえ」
 ウルフの体のサイズや恰好を考えたら、おかしくなったから、ここで言葉を切ってにやっと笑って、ウルフが落ちた投げ矢を拾おうとして、体を屈めてぶつぶつ言っている間、そのまま、にやにやしつづけていた。
 それからまた言った。
「これ以上の宣伝はありませんよ、エヴェレスト山クラスですよ。このウルフっていうのは、名士だけしか相手にしないんです。私は何年もこの人の書いたものを読んで来ましたがねえ、アインシュタインと英国の皇太子とベーブ・ルースと合衆国大統領が三人と、ねえ、ホワイト・ハウスじゃなかなか会えやしませんよ、それから、シャムの王様と、そういったようなえらい人たちのことでしたよ。この人の狙うのは、一流選手ばっかりらしいんです。そうすると、あなたもその中に入れます。こんなこと言うとおかしいようですけれど、私はからかっているんじゃありません。本気で言っているんです。私たちの知合いは広いですから、この人を知っていて、頼んでくれるような有名人が二、三人、きっといますよ」
 ウルフはまだ知らん顔をしている。実を言うと、ぼくはそうだろうと思っていた。いま彼は一所懸命に運動をしているところなんだから。彼は最近になって、自分の目方が重すぎることに気がついたんだ。大西洋が、水がありすぎると思い出したのと同じようなものだ。それで彼は自分の日課に、新しい項目を加えたわけだ。地震か大虐殺みたいなことでもない限り、彼は戸外へは出ない。だから体を動かすというのは、午前の九時から十一時、午後の四時から六時まで、ホルストマンと蘭を相手に屋上にいる時以外には、ほとんどないが、屋上には棒高跳びの設備があるわけじゃない。
 そこで毎日の運動の道具が新しくできたんだが、これがまた素晴しいものだ。時間は、午後三時四十五分から四時までとなっている。二フィート四方の四角い板で、表面にコルクを張り、その上に大きな円が描いてあって、円の中心からの二十六本の線と、円のなかのもう一つの小さな円とで、その大きな円が五十二に仕切られて、細い針金で区分されている。それぞれの仕切りにはトランプの絵が描いてあって、全部で一組のトランプになるようになっている。中心の小さな丸は、ジョーカーだ。それと、投げ矢がある。長さ約四インチ、目方約二オンスの、木と羽根で出来て、金属の尖端がついた、可愛い小さな矢だ。この板を壁にかけて、十フィートから十五フィート離れて立って、五本の矢をそれに投げて、ポーカーの手を作るというわけだ。ジョーカーは何にでも使える。それから板まで行って、矢を抜いて、また投げる。それから板まで行って、矢を抜いて……
 たしかに、とても興奮させられる遊びだ。というのはだ、幼稚園クラスの小さな女の子の遊びとしては素敵だろうという意味だ。少しでも自尊心のある男の子なら、こんなことに時間を浪費しはしまい。ぼくがこんなものを書く唯一の理由は、ネロ・ウルフが扱った事件の話をするためだし、それも殺人に関係のある話でなければ、わざわざ書きはしないのだから、ここでポーカー投げ矢のゲームの話をするのは、あとからその投げ矢の一本が毒にひたされて、ある人間を突き刺すのに使われるからだと思われるかもしれない。ところがそうじゃない。ぼくの知っている限りでは、この投げ矢から被害を蒙ったのは、ぼく以外には誰もいない。ジョーカーは何にでも使えるということにして、ドロー・ポーカーのルールでやって、一勝負二十五セントで、二か月たったら、ぼくはウルフに八十五ドルいくらかをだましとられた。こんなものは、本当に正確に当てるなんてことはとてもできやしない。ほとんど運だ。
 とにかく、ウルフが体重過多という結論に達したとき、彼がやったのはこれだ。投げ矢のことを、投げ槍と称したね。ぼくは自分の損失が百ドルの限界に達しそうだとわかったとき、彼の機嫌をとるのをやめることにして、肉体的過労の結果の心臓障害を医者から警告されたといって、きっぱりそれから手を引いた。ウルフはそれからもこの運動をつづけて、いまぼくが物語っているこの日曜までには、五回投げて二回ジョーカーに当てられるようになった。
 ぼくは言った。「これはめっけものですよ。あなたには充分資格はありますよ。あなたは自分で天才だということを認めているんでしょ。新しい依頼者がたくさん来ますよ。専属の所員が雇えて――」
 ウルフが手に一杯持っていた投げ矢が一本、床に滑り落ちて、ぼくの足許にころがって来た。ウルフは立ったまま、ぼくを見ている。彼が何を望んでいるのか、ぼくにはわかっている。彼が屈むのは大嫌いだということは、ぼくは知っている。しかしこのゲームで本当に激しく体を動かす部分というのは、屈むことだけなんだから、彼に運動をさせてやらなければなるまい。ぼくはじっとしていた。ウルフはぼくに向かって、眼を大きくあけた。
「ウルフ氏の絵には、私は注目している。技術的には優秀だな」
 奴さん、ぼくに矢を拾わせようと思って、ぼくの言ったことに興味をひかれたようなふりをして、ぼくを買収しようとしているんだ。よおし、思い知らせてやる。いつまでそこにそうして立って、興味をひかれたふりをしていられるものかどうか、やってみろ。雑誌の付録を取り上げて、その記事をあけて、元気よくこう言ってやった。
「これは彼の傑作の一つですよ。見ましたか? 政府の使命を持ってここへ来た、ある英国人についてです。ちょっと待って下さい、こう書いてあるんですが……」
 そこを探して、大きな声で読んでやった。

「クリヴァーズ侯爵が極東における陸軍および海軍の協定について討議する権限を与えられたものであるかどうかは、明らかでない。明らかにされているのは、経済勢力圏の問題について、最終的な取り極めをしようという意図だけである。彼がワシントンで一週間、国務省および商務省と会談をしてから、金融界および産業界の巨頭と懇談するために、滞在期間を決めずにニューヨークを訪れる必要があったのは、このためである。東洋における平和の唯一の満足な恒久的な基礎は、現在の経済的摩擦の原因を取り除くことにあるということが、政府筋にいよいよ明瞭に感じられて来たのである」

 ぼくはウルフに向かって肯いた。「わかりましたか? 経済勢力圏ですよ。アル・カポネとダッチ・シュルツを悩ませたのと、同じ問題です。経済的摩擦の結果、二人がどうしたか、考えてごらんなさい」
 ウルフは肯き返した。「ありがとう、アーチー。説明してもらって、まことにありがたい。さあ、もう君は――」
 ぼくは急いであとをつづけた。
「ちょっと待って下さい、もっとうんと面白くなるんです」そのぺージを見おろした。「絵で見ると、人を支配する人間ってタイプですよ。ね、理髪店の親方とか給仕長とかいった、そのタイプ、ご存知でしょ。こんなことが書いてあります。何々圏とか勢力とかいうことに詳しいとか、戦時中〔第一次世界大戦〕の経歴とか――旅団長をやって四度勲章を貰っています――、格式の高い貴族で、勲章で商店の店先みたいに飾り立てられているとか。諸君、万歳三唱、国王のために乾杯! よござんすか、要点だけ言っているんですよ」
「うん、アーチー。ありがとう」
 怒ったような声だ。ぼくは息を吸い込んだ。「どういたしまして。ですが本当に面白いのは、性格と私的生活を書いているところです。たいした園芸家です。自分でバラの刈込みをやるんですとさ。少くともそう書いてあります。ちょっと信じられませんけれど。それからこう書いています、行をかえて。

 侯爵を奇人と呼ぶのは誇張に過ぎるであろうが、多くの点で、一般に考えられるような英国貴族の像とは合致しないものがある。それはおそらくある程度は、若い頃に――現在、彼は六十四才である――オーストラリアと南米と合衆国西部で、多様な活動をして数年を過ごしたという事実によるものであろう。彼は第九代侯爵の甥であり、一九〇五年に伯父と二人の従兄弟がアフリカ西岸でロタニア号が沈没した際死亡したために、爵位を相続した。しかしいかなる運命の下におかれようとも、彼は一風変った人物であり、彼が好んで言うところの彼の奇癖なるものは、まったく彼の個性に基くものである。
 彼はスコットランド最良の猟場のいくつかを所有しているが、決して狩猟はやらない。しかも有名なピストルの名手であり、常にそれを携帯している。見事な厩舎を持っているが、十五年間乗馬したことはない。昼食と夕食の間には、何ものも食べない。これは英国では反逆罪にひとしいくらいなことである。クリケットの試合を見たことがない。一ダース以上の自動車を持っているのに、運転を知らない。ポーカーの名手で、友人間にこのゲームを普及させた。クローケー〔ゴルフに似た球戯〕を熱愛して、ゴルフを《社会の儀礼を破壊するもの》として軽蔑する。南瓜(かぼちゃ)パイを作らせるために、ポケンダムの所領の邸宅には米国人のコックを雇ってある。ヨーロッパ大陸にしばしば旅行するが、その際必ず携帯するものとして――」

 これ以上つづける意味がないから、やめた。聞き手がいなくなったんだ。ぼくに向き合って突っ立っていたウルフの眼がだんだん細くなって、つぶりそうになった。突然手を広げて掌を下にして、残っている矢を床に落としたから、矢は床の上を四方にころがって行った。それから、一言もいわずに、部屋から出て行った。足音が玄関に聞こえ、エレベーターに乗って、ドアをばたんと閉める音がした。もちろん、もう四時で、植物室へ行く正規の時間だという口実はあるわけだ。
 矢をそのままにしておいて、あとでフリッツに拾わせてもよかったんだが、ウルフが子供らしい態度をしたからといって、ぼくまでそうする必要はない。それでぼくは読んでいた雑誌付録の、クリヴァーズ侯爵の似顔が真中に出ているそのページを引き裂いて、画鋲(がびょう)で投げ矢の盤に止めて、矢を拾い集めて、十五フィート下ったところに立って、矢を飛ばせた。一本は侯爵の鼻に、一本は左の眼に、二本は首に命中し、最後の一本は一インチのところで外れた。これで彼は釘付けだ。いっそ映画に行ってやろうと、帽子をとりに行きながら、的(まと)を狙うのはうまいもんだなと、ぼくは思った。この時は、侯爵がこのニューヨークを離れる前に、全く別の武器で、もっとずっとうまく的を狙うところを我々に見せてくれることになるということは知らなかったし、的に止めた新聞付録のそのページにちょっと書いてあったことが、あとでウルフがある突然の変死を職業的に考察する場合に、かなり役に立つことになるとも、気がつかなかった。

……巻頭より


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