「茶道太閤記」

海音寺潮五郎作

ドットブック 307KB/テキストファイル 171KB

600円

太閤秀吉の使いの紀伊守は利休にむかい「娘を差し出せ、そなたにも、娘にも、誓って悪いようにはからわぬ」という秀吉の言葉を繰り返した。利休は答えた。「大名衆では、何とお言いなされているか存ぜぬが、町人の世界では、利得を目的として物を人に渡すを売ると申す。娘を殿下に差出すことは、拙者の利得となり申す。されば、これは売るのでござる。売買を本業とする町人の世界でも、娘を売るは恥ずべきことと致しております。平に御辞退……あの人々は、詮(せん)ずるところ、ただの大名衆。百年の後、二百年の後、三百年の後、名前の残る人々ではござらぬが、拙者は芸道に生きる者、自ら申すもおこがましくはござるが、いつの世までも名の残る者でござる」……大坂城を舞台に、秀吉と利休、淀(お茶々)殿と北政所、利休の娘お吟、石田光成、小西行長ら武将たちがくりひろげる虚々実々の人間模様を描く海音寺潮五郎の初期の代表傑作。 

海音寺潮五郎(1901〜77)鹿児島県伊佐郡大口村(現在の伊佐市)生まれ。本名は末富東作(すえとみとうさく)。国学院大学高等師範部国漢科を卒業後、中学教師を務めながら、創作をおこなう。1934年から歴史小説を発表しはじめ、36年「天正女合戦」と「武道伝来記」が認められて第3回直木賞を受賞。以後、歴史小説・史伝ものの第一人者となった。前者の代表作は「平将門」「海と風と虹と」「蒙古来たる」など、後者では「武将列伝」「悪人列伝」「西郷隆盛」(絶筆・未完)など。

立ち読みフロア

 朝である。
 今日も暑い日になるらしく、戸外(そと)ではもう蝉(せみ)が鳴いていたが、ぴったりと雨戸を閉ざした部屋には灯(あかり)がゆらめいて、霞(かすみ)のように薄く風のように軽い青紗(せいしゃ)の蚊帳(かや)を照らしていた。
 蚊帳の中には、お茶々様が寝ている。厚いしとねの上に、白綸子(しろりんず)の寝衣(ねまき)に緋(ひ)の帯をしめた、小柄でしなやかなからだを行儀よくのせて、足の爪先にだけ寝具をかけて眼を閉じている。軽く閉じた花びらのような瞼(まぶた)はひしと静止して、よく揃って微(かす)かに上にそった睫毛(まつげ)をこゆるぎもさせないし、高貴な形の鼻は静かな呼吸(いき)を規則正しくついているし、深い熟睡のうちにあるように見えるが、お茶々様は眠っているのではなかった。とうに眼はさめていた。起きたいという気にもなっていた。からだ中にねばねばと汗がにじんで、起きてつめたい水で顔を洗ったり首筋を拭いたりしたら、さぞ気持が清々するであろうとは思うのだが、どうにも起きるのがものうくてならないのだった。
 昨夜(ゆうべ)遅くまで、お茶々様は大奥で催された秀吉の酒宴に侍(じ)していた。
 秀吉は、三日前、九州征伐(せいばつ)から帰って来た。昨夜はそれから最初の酒宴だったので、九州から持って来た土産ものの分賜(ぶんし)や、土産話や、何やらで、ずいぶん賑やかだったし、ずいぶん遅くまでその酒宴はつづいた。座には、正夫人の北の政所(まんどころ)をはじめとして、京極(きょうごく)殿、加賀殿、三条殿――秀吉大奥の妻妾(さいしょう)が皆集まった。宴がはてると、秀吉はお茶々殿の住居(すまい)に来て、改めて水入らずの小酒盛(こざかもり)がはじまった。
「どれどれ、少しは大きゅうなったかの。立って見や、立って歩いて見や」
 秀吉は祖父が孫娘に対するようなことを言った。自分の住居だから、席に居合わせるのは、皆自分の侍女達ばかりだったが、あまりにも他愛ない秀吉の態度に、お茶々様はきまりがわるくなった。
「いやでございますわ。わたくしもう二十一でございますのに」
 と抗議すると、秀吉は一層かあいげににこにこと笑って、
「まあよい、まあよい、子供というものはとしよりのいうことを聞くものじゃ。そもじが二十一なら、わしは五十二。とんと孫みたいなものじゃ。立って歩いて見せや」
 と言いはって、そうするまで承知しなかった。こんな他愛ないことで酒宴が済んで、寝たのはもう夜明けに近かった。秀吉を送り出した後、お茶々様はまた寝についたのだが、疲れているくせに眠れないのである。だから、こうして、ぐずぐずと床に入っている。
 眼をつぶっていながら、お茶々様は、細い、しなやかな、一本一本みがきあげた象牙のように美しい指を折る。
(天正十一年、十二年、十三年、十四年、十五年――足かけ五年になる。あの時、あたしは十七だった……)
 お茶々様は後年の淀君(よどぎみ)である。
 彼女は不幸な身の上である。江州小谷(ごうしゅうおたに)の城主浅井長政の長女として生れたが、父は彼女が七歳の時、母の兄信長のために亡ぼされた。母は三人の娘を連子(つれこ)にして柴田勝家に嫁(とつ)いだが、その養父も彼女が十七歳の時、越前北の庄(しょう)に於て、秀吉のために滅ぼされた。
 小谷の城の落ちるのを、彼女は母や妹達と共に寄手(よせて)の陣中から見た。なぜ寄手の陣にいたか、幼かった彼女は、その時まだわからなかった。計略を以て奪い取られたのだとわかったのは、それから二三年立ってからのことだった。だが、今もなおあざやかに記憶に残っているのは、その時の母は一番小さい妹をふところに抱き、右の手に自分を、左の手に妹の手をひしとつかんで、(その手の痛かったこと!)奔流の激するように軍勢の雪崩(なだれ)入る城を見つめていた。天下第一の美女と謳(うた)われたほどの母の顔が、その時ばかりはどんなに恐ろしい形相をしていたことか! 顔は氷のように真青になっていた。唇は血が出るかときびしく噛みしめていた。瞳は火のように乾いてぎらぎらと光っていた。世の不信と権謀とに対する女性の恨み、悲しみ、怒り、呪詛(じゅそ)一切の感情のこめられた顔だった。
 それから十年立って北の庄。
 彼女はまた同じ経験をせねばならなかった。この時には、母は城中に止まって、姉妹三人だけ養父勝家の情によって、
(この三人は自分の実子でないのみならず、まさしく総見院(そうけんいん)様(信長)の姪御(めいご)なれば、助命して給われ)
 という口上と共に寄手(よせて)の陣に送られた。姉妹が城を出たのは夜半(よなか)だったが、間もなく、夜の明ける頃、城の天守から煙があがった。薄い朝霧がかかって目のさめるようにあざやかな新緑の世界に立上ぼるその煙は、何とはなしに、はかなく、弱々しく見えて、落城という悲壮な感慨には遠いもののように思われてならなかった。あの煙の下で、養父様(とうさま)と、母様が、悲壮な最後を遂げていらっしゃるのだと思っても、切実にそれが胸に来ないのだった。本当に泣けて来たのは、京都に送られる途中であった。その時になって、はじめてこの世の中で、秀吉以外には誰ひとりとして頼る者のない身の上になったのだと、痛いほど感ぜられた。
 口惜しかったのは、そのたったひとりの秀吉が、本当を言えば、不倶戴天(ふぐたいてん)の仇敵にあたることだった。主命を奉じてのこととは言え、直接に小谷の攻撃の指揮にあたったのは秀吉だった。北の庄に至っては、自分の野心を遂げるのに養父の存在が邪魔になるので滅ぼしたのだ。
 実父、養父、実母――三人の仇敵、重畳(ちょうじょう)と怨恨のからんでいる人。だのに、その人をたった一人の保護者とせねばならぬとは! 何という悲しい因果な身の上、涙のかわく暇はなかった。
 その憎い秀吉が、自分に対していやらしい情欲を抱いていると知った時、どんなに腹の立ったことか! 年も違う。あの時、自分は十七だったのに、秀吉は四十八だった。四十八の男が十七の少女に恋する? 恐ろしさと、気味悪さと、いやらしさとに、身の毛のよだつ思いだった。お茶々様に対する秀吉の恋愛については、昔を知っている人は、それはそのはず、上様は、お市様に対する恋を、その姫君によって遂げようとなすっていらっしゃるのだ、と言う。
 彼等は心得顔に言うのだ。
 秀吉は、お茶々様の母君お市様が織田家にいた頃から、お市様に対して胸をこがしていた。お市様を手に入れるためなら、すでに正妻に定まっていたお寧々(ねね)を離縁もしようし、あるいは正妻の地位を去らせもしようとまで思いつめた。事実、彼はその工作にかかりまでしたのだが、織田家が大を為すためには、どうしても浅井家と和親する必要があって、お市様は浅井家に嫁ぐことになった。秀吉はあきらめたが、十幾年の後、織田、浅井両家の和親が破れた。秀吉の胸の奥にひそんでいた恋の冷灰(れいかい)は、新たな火を得て燃え上った。彼が、その絶倫の智恵、絶倫の精力のあらんかぎりをしぼって、浅井討伐につとめ、小谷の攻囲にたいしては、特に乞うて自分の手勢(しゅぜい)のみを以て攻撃の任にあたったのは、恋敵たる長政にたいする復讐をなし、無事にお市様を奪い出し、更に進んで、己れの手に拝領せんがためだったと言っても過言ではない。
 彼は、見事に長政を自滅させた。また、見事にお市様と、その三人の娘を城中から奪い取ることが出来た。が、最も肝心な点、お市様を手に入れるという点では成功することが出来なかった。織田家の家臣中、出頭(しゅっとう)第一の柴田勝家が、横合から信長に乞うて、その妻に申し受けてしまったのである。
 柴田、羽柴の抗争はこの時からはじまった。信長の死後、二人が血みどろな抗争をつづけたのは、ひとり天下の争奪のためのみでなく、この絶世の美女をめぐる怨恨がさせたといってよい。

……冒頭より

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