「さなぎ」

ジョン・ウィンダム/峯岸久訳

ドットブック版 366KB/テキストファイル 185KB

600円

世界が致命的な大破壊にみまわれてから長い年月がたった。生き残った人々のうえには、科学と合理精神を喪失した中世的暗黒時代が訪れていた。幼いデイヴィッドが住んでいる村では、激しい労働と原始的な農業によって暮らしが営まれ、人々は、かつて祖先が高い文明を持っていたことすら忘れ去ろうとしていた。奇妙な植物や動物がはびこり、悪魔が住んでいるという 「外辺地方(フリンジ)」の恐るべき侵入者が、日夜、人びとを脅かした。なかでも、彼らがもっとも忌み嫌っていたのはミュータントだった。外形上ばかりでなく、普通人以上の能力、テレパシーをもつ者を彼らは恐れ、迫害した。そんなある日、デイヴィッドは自分もそうしたミュータントの一人であることを発見した……『トリフィドの日』の作者が未来の人類をリアリスティックに描いた文学的香気の高いSF抒情詩!

ジョン・ウィンダム(1903〜69)イギリスのSF作家。全寮制私立学校を卒業後、いろいろな職業についたあと、SFをパルプ・マガジンに発表しはじめる。第二次大戦中は情報省に勤務。戦後の51年、「トリフィドの日」を手がけて一躍、破滅テーマSFの第一人者に。この作品はペンギンブックスに収録された最初のSFという名誉に輝いた。他の代表作に「海竜めざめる」「さなぎ」などがある。

立ち読みフロア
 まだごく小さかったころ、わたしは時々ある都市(まち)の姿を夢に見た。それはおかしなことだった。というのは、都市(まち)がどんなものか、まだ知りもしないうちから、夢は始まっていたからである。だが、大きな青い湾の曲線なりに発達したその都市(まち)の姿は、わたしの頭の中に入ってきた。その街なみや、そこに立ち並んだ建物や、海岸通りや、港の中の船さえよく見えた。しかも、目が覚めて思うと、わたしは海や船など、まだ一度も見たことがないのだった……。
 そして、その建物も、わたしが知っているのとはまるで違っていた。街の中の往き来も変わっていて、引く馬もなしに車が走っていた。そして時には空に何か浮かんでいた。キラキラ光る、魚の形をしたもので、それはたしかに鳥ではなかった。
 大抵そのすばらしい場所を見る時は昼間の姿だったが、時には夜のこともあった。夜には明かりがホタルの列のように海岸沿いに並び、そのうちの幾つかは海上や空中に浮かぶ火花のように見えた。
 それは美しい、心を魅するような場所だった。そしてわたしがまだ小さくて、それ以上何もわからぬころ、一度一番上の姉のメアリーに、そんなきれいな都市(まち)は一体どこにあるのだろうと尋ねてみた。
 姉は首を振って、そんな場所はどこにもない――少なくともいまはどこにもないと教えてくれた。でも、もしかすると――と姉は説明してくれた――お前は遠い昔のことを夢に見ることができるのかも知れない。夢というのはおかしなもので、説明なんかつかないものだ。だからお前が見ているものは、昔の世界の一部――「昔の人間」が住んでいたすばらしい世界の一部なのかも知れない。神さまが「試練」をお与えになる前の世界の姿なのかも知れない。
 しかし、そう説明してくれたあとで、姉は続けて、そんなことは他の誰にもいってはいけないと、ひどく真剣にわたしを戒めた。あたしの知っている限り、そんなような光景を頭の中に持っているものは――夢の中でも覚めている時でも――他には誰もいない。だから、そんな話をするのは利口なことじゃないと……。
 それはいい忠告だった。そして幸いわたしもそれを受け入れるだけの分別は持ち合わせていた。わたしたちの地方の人々は、風変わりなものや異常なものに対して、ひどく厳しい目を持っていた。そのためわたしの左利きであることさえもが、軽い非難の的になっていたぐらいである。それでその当時、そしてそれからあと何年もの間、わたしはそのことを誰にもいわなかった――実際、わたしはそのことをほとんど忘れるくらいだった。というのは、大きくなるにつれて、その夢はだんだん現われないようになり、やがてひどく間遠(まどお)なことになっていったからである。
 だが、忠告はそのまま心にしみついた。それがなかったら、わたしは従妹のロザリンドとの間の奇妙な心の通じ合いを人に話してしまったかも知れないし、その場合には間違いなく二人とも、ひどく面倒な羽目に追いこまれるようになったに違いない――誰かがたまたまわたしのいうことを信じたとしたらの話であるが……。わたしも彼女も――とわたしは思うが――当時はそのことに大して注意を払ってはいなかった。ただ用心深くする習慣を身につけていただけのことである。わたしはもちろん自分を異常であるなどとは感じていなかった。わたしはごく当たり前の少年であり、当たり前に成長し、周りの様々な習慣を当たり前なこととして受け取っていた。そしてソフィーに出会う日まではそんな風な生活を続けていた。その問題の日でさえも、差異感は直接的にはやってこなかった。その日を最初の小さな疑いが芽生え始めた日として規定するとすれば、それはあとになってからの知恵である。
 その日、わたしはよくやっていたように、一人で遊びに出かけた。たしかもうすぐ十になるころだったと思う。すぐ上の姉のサラは五つ年上だった。年がそれだけ開いているので、わたしは大抵いつも一人で遊んでいた。馬車道を南へ下って畑の縁を幾つか通り、やがて高い堤防に突き当たって、それからその堤防の上をかなり長いこと歩いた。
 堤防は当時のわたしにとって、不思議でも何でもないものだった。あまり大きすぎて、人間が作ったりできるようなものとは思いもしなかったし、また時々耳にしていた「昔の人間」のすばらしい業績と、その堤防とを結びつけるような考えは、ついぞ浮かばなかった。それはただ堤防そのものであり、大きな曲線を描いて曲がり、やがて矢のように真直ぐ伸びて、遠い山々の方へ向かっているものだった。それはただ世界の一部であり、川や空やそれから山々自体と全く同じように、不思議でも何でもないものだった。
 わたしはよくその堤防の上へ行ったが、向こう側へは滅多に足を踏み入れたことはなかった。何となくそっち側は違う国のように思っていた。外敵の国というより、むしろ自分の縄ばりの外といった感じだった。だが、そこに一個所、前に見つけてあった場所だが、堤防の向こう側の斜面を、流れ落ちる雨が削って、砂地の溝が一本できているところがあった。その溝の一番上のところへ腰を下ろして、身体を強く一押しすると、かなりなスピードでシューッと下まで滑り落ち、最後は二、三フィート空中を飛んで、下の柔かい砂の山へ着陸するという芸当ができた。
 そこには前に五、六回ぐらい行っていたはずで、それまであたりに人がいたことは一度もなかったが、この時は三回目の滑降から立ち直って四回目の準備をしている時に、「こんにちは!」という声がした。
 わたしは周りを見回した。最初どこからその声がしたかわからなかったが、やがて灌木の茂みの小枝の先の揺れているのが目に止まった。大きな枝が分かれて顔が覗き、わたしの方を見つめた。それは小さな日焼けした顔で、黒い縮れた髪が周りを取り巻いていた。表情は幾らか真面目くさっていたが、目はキラキラ輝いていた。二人は暫く顔を見つめ合っていた。やがて――
「こんにちは」とわたしが答えた。
 相手はためらったが、やがて茂みを前よりも大きく押し分けた。見ると、わたしより背丈(たけ)が幾らか小さい、そして多分年も幾らか少ない女の子だった。その子は赤っぽい茶色の天竺(てんじく)木綿のズボンを履き、黄色いシャツを着ていた。ズボンの前のところにある十字の縫い取りは、何か黒っぽい茶色のものだった。髪は頭の両側に黄色のリボンで束ねてあった。その子は暫くじっと立ったまま、安全な茂みを離れたものかどうか、心が決まらない様子だったが、やがて好奇心が用心深さに打ち勝って、前へ踏み出してきた。
 わたしはその子の顔をまじまじと見た。というのは、その子は全く見たことのない顔だったからである。何マイル四方もの子供という子供が全部集まる集会やパーティが時々あったので、一度も見かけたことのない子供に出会うというのは、びっくりさせられることだった。
「君の名前は何というの?」わたしはきいた。
「ソフィーよ」彼女は答えた。「あなたは?」
「デイヴィッドだ」わたしはいった。「君のうちはどこ?」
「あっちよ」彼女は、堤防の向こうの違う国の方へあいまいに手を振りながらいった。
 彼女の目はわたしの目を離れて、わたしが滑り降りていた砂地の溝の方へ移った。
「あれ、面白い?」彼女はもの欲しそうな目つきで尋ねた。
 わたしは彼女に誘いをかける前にちょっとためらったが、すぐ、
「うん」といった。「来てやってごらんよ」
 彼女はまた注意をわたしの方へ戻してしりごみした。ちょっとの間、真面目な顔つきでわたしの方をじっと見つめていたが、やがて急に心を決めた。彼女はわたしの先に立って堤防の天辺によじ登った。
 彼女は巻き毛とリボンをなびかせながら溝を滑り落ちた。わたしが着陸した時には、その顔から生真面目な表情が消し飛び、その目は興奮に躍っていた。
「もう一回」彼女はいって、息をハアハアいわせながらまた堤防をよじ登った。
 不運な出来事が起こったのは、彼女の三回目の滑降の時だった。彼女は腰を下ろして、前のように身体を押し出した。見ていると、彼女はシューッと滑り落ちて、砂煙の立つ中へ着陸した。どういうわけか、いつもの場所から二フィートほど左手のところへ着陸した。わたしはあとへ続く用意をして、彼女が場所を明けてくれるのを待った。彼女は動かなかった。
「どいてくれよ」わたしはじりじりして言葉をかけた。
 彼女は動こうともがいたが、すぐ叫び返した。
「できないのよ。痛いの」
 わたしはとにかく降下を敢行して、彼女のすぐ傍に着陸した。
「どうしたんだい?」わたしは尋いた。
 彼女の顔はゆがんでいて、その目には涙がたまっていた。
「足が動かないの」彼女はいった。
 左足が砂に埋まっていた。わたしは両手で柔かい砂をかきのけた。靴が、先の尖った二つの石の間の狭い隙間にはさまっていた。わたしは靴を動かそうとやってみたが、それはビクともしなかった。
「ひねるか何かして出せないのかい?」わたしはいってみた。
 彼女は勇敢に唇をかみしめて、やってみた。
「出ないわ」
「手伝って引っぱってやろう」わたしが提案した。
「駄目、駄目よ! 痛いわ」彼女が反対した。
 あとどうすればよいのか、わたしにはわからなかった。彼女の落ちこんだ状態が苦痛を伴うものであることははっきりしていた。わたしは問題を一心に考えてみた。
「靴の紐を切った方がいいよ。そうすれば足を靴から引き出せる。結び目には手が届かないからね」わたしは結論を下した。
「いけないわ!」彼女はギクッとしていった。「駄目よ、あたし、そんなことしちゃいけないんだわ」
 彼女のいい方があまりきっぱりしていたので、わたしは途方に暮れてしまった。靴から足を引き出せるなら、あと靴は石でつつき出せばいい。しかし彼女が厭だというのなら、どうすればいいのか、わたしにはもうわからなかった。彼女は砂の上に仰向けになった。はさまれた足の膝が空中に高く突き出た。
「ああ、すごく痛いわ」彼女はいった。彼女はもう涙を押えることができなかった。涙が顔を流れ落ちた。しかし、それでも彼女は泣きわめかなかった。子犬の泣き声のような小さな声が、その口から洩れた。
「どうしたって靴を脱がなきゃ駄目だよ」わたしは彼女にいった。
「駄目よ!」彼女はまた反対した。「そんなことしちゃいけないの。絶対駄目だわ。いけないんだわ」
 わたしは当惑して彼女の傍に腰を下ろした。彼女は両手でわたしの手にすがりつき、泣いている間それをきつく握りしめた。明らかに足の痛みはひどくなっていっていた。ほとんど生まれて初めての経験といっていいが、わたしは決断を要する状況の責任者になっている自分を感じた。わたしは決断を下した。
「こんなことしてちゃいけないよ。どうしたって靴を脱がなくちゃいけない」わたしはいった。「そうしなけりゃ、君はきっとこのままここに釘づけになって、そして死んじまうよ、多分」
 彼女はすぐには折れなかったが、結局は承諾した。わたしが紐を切っている間、彼女は心配そうに見守っていた。それからいった。
「あっちへいって! 見ちゃいけないわ」
 わたしはためらった。しかし少年時代というものは、よく理解できない――重要ではあるにしても――約束ごとが一杯ちりばめられているものである。それでわたしは二、三ヤード離れて背を向けた。彼女の息づかいが激しくなるのが聞こえた。それからまた泣き出した。わたしは振り返った。
「できないわ」彼女は涙に溢れる目で、恐れるようにわたしを見つめながらいった。そこでわたしはひざまずいて、どうすればいいのかを見た。
「絶対人に話しちゃいけないわ」彼女はいった。「いいこと、絶対よ! 約束する?」
 わたしは約束した。
 彼女はとても勇敢だった。小犬のような声以外には何一つ音を立てなかった。
 足をうまく抜き出した時、それはおかしな恰好をしていた。つまり恐ろしくねじれ、ふくれ上がっていたという意味である――その時には、足の指が普通の数以上にあるということなど、気に留めもしなかった……。

……冒頭より


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