「砂の城」

アイリス・マードック作/栗原行雄訳

ドットブック 322KB/テキストファイル 301KB

600円

妻や家庭に倦怠をおぼえ、うんざりしている中年の高校教師、だが彼は議員への立候補という野心にも燃えていた。そこへ前校長の肖像画を描くために、若い魅力に富む画家がやってくる。彼は不条理な激しい恋のとりこになり、真実と自由の暮らしに生きようとするが……永遠の願望と挫折。

マードック(1919〜99) アイルランドのダブリン生まれの女性作家。オックスフォード大で古典を学び、のち同大学で哲学を講じた。作家としてはリアリズムと象徴的手法を巧みに用いて入り組んだ人間関係をおもに描いた。代表作「網の中」「鐘」「海よ、海」「愛の機械」など。

立ち読みフロア
「まあ、五百ギニーですって!」とモアの妻がいった。「あきれてものもいえないわ!」
「それが相場なんだよ」モアはいった。
「そのしけたような煙草、口からお離しになると、もっとはっきり聞きとれるんですけど」ナンがいった。
「それが相場だといったのさ」モアは煙草を放り投げた。
「ブレッドヤードに頼めば、ただで描いてくれるでしょうに」
「彼は、肖像画を描くのは罪だと思い込んでいるんだ。頭がどうかしているのさ」
「言わせてもらえるなら、頭がどうかしているのは、あんたがた教員や理事のほうじゃないかしら。どぶに捨てるほどお金があるんでしょうよ。前にはあんな投光照明をつけたと思ったら、今度は肖像画だなんて。それにしても投光照明とはねえ! 学校の建物なんて昼間見るだけで、もううんざりでしょうに」
「昼食、フェリシティが来るまで待つことにしようか」
「もちろん、そんな必要ありませんわ」ナンがいった。「あの娘ったら、帰って来る時はいつも不機嫌な顔ばかりしていて。どっちみち、食事なんかしたがりませんよ」
 娘のフェリシティは、ちょうどその日、学校の寄宿舎から帰って来ることになっていた。はしかの流行で、例年より早めに学期が終ったのだ。
 二人は向い合って食卓についた。食堂は狭く、家具だけが大きく、つやつや光っている。開き窓は、熱い乾いた午後に向っていっぱいにあけ放され、窓ごしに、せまい前庭と、酷暑にぐったり葉を丸めた金いぼたの生垣が見えた。庭の先は道路になっており、その向うには、同じような、こじんまりした棟割型の住宅が、鏡にうつった映像のように並んでいる。このあたりは最近開けた公営住宅地で、家のデザインは新しく、建物も非常にしっかりしていた。赤いタイルの屋根の上には、モアが勤めているセント・ブライズ校のネオ・ゴチック式の塔が、淡くかすんだ真夏の空に突き立つようにそびえているのが、うなだれた木の葉ごしに見える。食事は、冷たい料理だった。
「おひや、あげましょうか」ナンは青白色の磁器の水差しから水を注いだ。
 モアは椅子を傾け、サイドボードの上に並んだソースびんのうちから、好きなものを取った。この食堂の利点といえば、こうして必要なものがみな手の届く範囲にあることくらいだった。
「ドナルドは今晩、フェリシティに逢いに来るかしら」ナンがいった。ドナルドは彼らの息子で、セント・ブライズ高校の六年に在学していた。
「ドナルドはこのところ、下級生の予習をみてやってるんでね」モアがいった。
「下級生の予習をみてやっているんですって」ナンはおおむがえしにいった。「あなたなら、そんな役目を免除させることぐらいできたはずでしょう! あんたたちみたいな臆病者の親子には、お目にかかったこともないわ。人目につくことは何一つなさりたくないってわけね。何もセント・ブライズ校に忠誠を誓ったわけでもないでしょうに」
「ドンは、特権を利用するのがいやなのさ」モアはそっけなくいった。二人がいい争う種はいくつかあったが、これもその一つだった。彼は気乗りしない様子で、フォークを肉に突き刺した。「フェリシティが来るといいね」
「わたし、ドンにいっておくことがあるのよ」
「山登りのことだったら、がみがみいうのはよさないか」モアはいった。ドンは休日を利用して登山に行きたがっており、二人は反対していた。
「わたしに向って、そんないいぐさはないでしょ! 子供たちのすることに、誰かは責任を持たなくちゃならないのよ」
「じゃ、試験が終るまでそっとしといてやれよ。それでなくても、あいつはいろいろ悩んでいるんだから」ドナルドは近くケンブリッジ大学の化学科の試験を受けることになっていた。
「ほってなんかおいてごらんなさい。気がついた時には、登山の予定がすっかりできあがっちまってるわ。ドンはわたしに、もうきっばりやめたといったのよ。ところが、ミセス・プレウェットの話だと、昨日も友達と二人で山登りの相談をしていたらしいわ。あなたがいくら真実、真実とおっしゃっていても、あなたの子供たちは、両親に嘘をつくのがくせになってるみたいじゃないの」

……冒頭より


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