「三国志」(全6巻)

羅貫中作/村上知行訳

巻1 竜戦虎争の巻  ドットブック 1066KB/テキストファイル 235KB

巻2 孔明出陣の巻  ドットブック 844KB/テキストファイル 212KB

巻3 赤壁の戦いの巻  ドットブック 780KB/テキストファイル 210KB

巻4 天下三分の巻     ドットブック 1482KB/テキストファイル 220KB

巻5 南蛮討伐の巻     ドットブック 1478KB/テキストファイル 222KB

巻6 秋風五丈原の巻  ドットブック 1460KB/テキストファイル 230KB

各500円

 漢が滅びてのち中国は、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)が覇を争う激動の時代を迎えた。本書は、この三国の抗争に材をとった、波乱万丈の伝奇物語『三国志演義』の完訳である。従来日本では 『三国志』といえば、この『三国志演義』のことを指している。

 時は後漢王朝も崩壊直前の末期。暗雲全土をおおい、群雄が諸方に起(た)ち、戦機まさに野に満ちる。そのおり、劉備(りゅうび)・関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)が世に現われ、三英雄は桃園(とうえん)に会し、兄弟のちぎりを結ぶ。三国分立前夜の、息をもつかせぬスペクタクルの幕開きである。
 百将乱れ起つなか、ついに怪傑曹操(そうそう)が、劉備らを制し、天下一統を果たそうとする。だが、江南の雄孫権(そんけん)がそれを阻み、流亡の将軍劉備もまた、名将孔明を得て、曹操反撃に転じる。大長江の「赤壁の戦い」に孫権・劉備の同盟軍に敗れた曹操は、敗亡の身をいったん本拠地の魏にしりぞく。(巻1〜3)

 共通の敵を失って、孫権・劉備の角逐(かくちく)が始まる。一方、最後のあがきをつづける王朝一族の死命を制した曹操はふたたび起ち、劉備の蜀をうかがう。両者ゆずらず、孫権の呉と、三国相分かれての修羅場へと世は進展してゆく。
 栄枯盛衰は世のならい。かつての英雄・猛将らも、踵(きびす)を接して歴史の主舞台を駆けぬけてゆく。権謀術策に長けた曹操も、義兄弟をちぎった三英雄、劉備、関羽、張飛も。

◆ かくして時代は、いままた新たな戦機をはらみつつ暗転する。呉を併呑した魏の英主曹丕(そうひ)、南蛮を制して営々と兵馬を養う蜀の知将孔明、両雄の一大決戦は刻々に運命を賭して秒をきざむ。そしてついに、渭水(いすい)南岸の本営に孔明が起った。
 三国争闘の状態は、呉の脱落によって蜀・魏決戦の様相をみせはじめる。ともに天下ー統の野望に燃える蜀・孔明、魏・司馬懿(しばい)の両雄が、大軍を擁して五丈原(ごじょうげん)に対決する。だが、知謀のかぎりをつくすなか、稀代の英傑・孔明は、雄図をはたしえずして陣没。五十四歳の生をおえる。司馬は炎(えん)に至って晋を建て、天下統一を実現、さしもの乱世もここに終わりをつげる……。(巻4〜6)

作者紹介

一三三〇年から一四〇〇年ごろまでの元末・明初の乱世に生きた人、羅貫中(らかんちゅう)が作者とされる。だが、その伝記も不確かで生地は山西省の太原だとされているが、これさえいろいろの説がある。一時は銭塘(せんとう)に住み、施耐庵(したいあん)に協力して『水滸伝』の創作に参加したともいわれる。今日では、『三国志演義』は、ひとりの作者の手になるものでなく、五百年来の講談師や小説家の共同作品が羅貫中によって整理・編集・創作されたものだったと考えるのが妥当とみられている。

訳者紹介

村上知行(むらかみ ともゆき 1899〜1976)
福岡県生まれの中国文学者。昭和のはじめ北京に渡り、「読売新聞」などの特派員を務めながら、中国の歴史・風俗を紹介する著書を著すとともに、戦後に帰国後は、四大奇書の翻訳に一生をささげた。「ただ、おもしろく、広く読んでいただこうというつもりで、この翻訳を試みた」という言葉どおり、原文の雰囲気を濃厚に保ちながらも、親しみやすい訳文になっている。

立ち読みフロア
第一回

[政治は日に日に腐敗]

 もともと天下の大勢は、分れて久しいと必ず合い、合って久しいと必ず分れる。周(しゅう)の末には七国が分れて争い、それが秦(しん)に合わされている。秦(しん)はほろびて楚(そ)・漢(かん)に分れ、これもまた漢に合わされたものである。漢は高祖(こうそ)が白蛇を斬り、革命のいくさをおこして天下を合わせたものであるが、のちに光武帝(こうぶてい)の中興を経、献帝(けんてい)のときに至り、このときに乱がおきて三国に分裂した。分裂のもとは桓(かん)・霊(れい)二帝に萌(きざ)したと言えそうである。桓帝は正しい人の出仕を禁じ、宦官(かんがん)一辺倒。その桓帝が崩じ、霊帝が位につかれると、大将軍(大元帥)の竇武(とうぶ)、大傳(たいふ)〔天子の補導者〕の陳蕃(ちんばん)が後見の役についた。ちょうど宦官曹節(そうせつ)らが権をほしいままにしていた時である。ふたりはまず、かれらの誅戮(ちゅうりく)を計画したが、機密がもれて、返り討ちにあった。宦官(かんがん)という、男であって男でない、賤(いや)しいばけものどもが、これでいよいよ勢いを得た。
 建寧(けんねい)二年四月十五日。帝が温徳殿(おんとくでん)におでましになり、玉座にのぼっていかれると、殿内に突風がおき、おおきな青蛇が一匹、天井から落ちて玉座の上にとぐろをまいた。帝が気絶された。おそばの衆が、あわててお居間に抱えていく。百官がワーッと逃げだした。蛇は、まもなく見えなくなった。と、たちまちひどい雷雨となり、それに大粒の雹(ひょう)がまじった。ま夜中に、やむことだけはやんだけれど、そのときには多くの家屋が倒されていた。建寧(けんねい)四年二月。みやこの洛陽(らくよう)に地震があり、海の方でもたかしおがあって、海岸一帯の住民が大浪にさらっていかれた。
 光和(こうわ)元年には、めんどりがおんどりに化け、おなじとしの六月ついたち、十余丈の黒い霧が温徳殿にとびこんだ。秋の七月、宮中の玉堂(ぎょくどう)に虹(にじ)があらわれたのと同じときには、五原(ごげん)のほうでもたいへんな山崩れが起きた。よくないしるしの連続である。帝が、いったいどうしたわけか、と群臣にご下問になる。議郎(ぎろう)〔顧問官〕の祭※(さいよう)(※は巛の下に邑)が上疏文(じょうそぶん)をたてまつった。虹(にじ)・鶏(にわとり)の妖(へんげ)は、お女中がたや変性男子が政治に口をだすからでございます、と言うのだった。文意は適切をきわめていた。帝はそれをごらんになり、溜息(ためいき)をつかれる。まもなくお手洗いへたって行かれた。曹節(そうせつ)は帝のうしろにいて、上疏のぬすみ読みをして、すっかり仲間に知らせてやった。とうとうほかのことで祭※(さいよう)を陥(おと)しいれ、田舎に遠ざけた。こののち張譲(ちょうじょう)・趙忠(ちょうちゅう)・封※(ほうしょ)(※は「ごんべん」+胃−田+疋)・段珪(だんけい)・曹節(そうせつ)・侯覧(こうらん)・蹇碩(けんせき)・程曠(ていこう)・夏ツ(かうん)・郭勝(かくしょう)ら、この十人の派閥ができた。常に天子に侍奉(じほう)する十人という意味で「十常侍(じゅうじょうじ)」と号した。帝は張譲を尊(たっと)んで「お父上(ちちうえ)」と呼ばれる。政治が日に日に腐敗し、天下の人心が叛乱(はんらん)のおきることを望み、そこらじゅうが盗賊だらけとなったものだ。

[張角(ちょうかく)ことを挙げる]

 そのころ鉅鹿郡(きょろくぐん)に三人兄弟がいた。張角(ちょうかく)・張宝(ちょうほう)・張梁(ちょうりょう)という。張角はもと落第の書生だった。山に薬草をとりに入り、ひとりの老人にであった。碧目童顔(へきもくどうがん)、あかざの杖(つえ)を手にもつ人だ。洞窟に張角をよび入れ、三巻の天書を授け、教えて言ったのである。
「『太平要術』という本である。そなた、この本の主旨により、天に替って世をただし、ひろく人民を救ってつかわせ。もしまた、まちがった考えをおこすなら、必ず仕返しがあろうぞ」張角が、おなまえは、と聞いてみた。
「わが輩は南華老仙(なんかろうせん)」
 いいおわって、清風一陣、老人はみえなくなった。張角は、これより昼夜をとおしての勉強である。風や雨が自由につかえるようになった。太平道人と自称した。
 中平元年正月、疫病がはやりだした。張角はお水や病気よけの護符(ごふ)をくばって病人をなおしてやり、大賢良師と自分で名のるのだった。張角には使徒が五百余人もいた。それが四方をまわっていた。みなそれぞれに護符がかけた。咒文(じゅもん)をとなえ、おはらいができた。信者は日ましにふえていく。張角はそこで三十六の「方」〔地域団体〕をたてた。おおきな方には一万余人、小さな方でも六、七千人。方ではそれぞれかしらが選ばれ、それが将軍と称していた。張角はまた「蒼天(そうてん)すでに死す。黄天まさに立たん」とか、「歳(とし)は甲子(きのえね)にありて天下大吉」などととなえ、人々に命じ、白い土で「甲子(きのえね)」と家の表門にかかせた。青(せい)・幽(ゆう)・徐(じょ)・冀(き)・荊(けい)・揚(よう)・※(えん)(※は「なべぶた」に兌)・予(よ)の八州で、人々がみな「大賢良師張角」の牌(なふだ)をまつった。張角は徒弟の馬元義(ばげんぎ)に金(かね)だの絹布(けんぷ)をもたせ、こっそりみやこに遣わした。宦官(かんがん)の封※(ほうしょ)から内応の約束をとりつけさせたのだ。張角は、弟ふたりにむかって言ったのである。
「得がたいのは人民の心。それが今やわれらに属しているのだ。こんな時に天下を取らぬばかはないぞ」
 と、かくて旗挙げの用意に黄旗をつくらせた。同時に、弟子の唐周(とうしゅう)というものに手紙を托(たく)し、封※(ほうしょ)のところへ使いにやる。唐周は、これをそのすじに密告したものである。帝が大将軍〔大元帥〕の何進(かしん)に防備を命ぜられた。馬元義がつかまって斬られ、つづいて封※(ほうしょ)ら一味が投獄された。
 張角は秘密の漏洩(ろうえい)を知り、速急にことを挙げたのである。天公(てんこう)将軍と自称した。張宝が地公(ちこう)将軍、張梁が人公(じんこう)将軍。そして大衆にいってきかせた。
「漢朝は、もうだめである。大聖人が出現された。諸君、すみやかに帰順して太平を楽しむがいい」
 四方の大衆が黄巾(こうきん)で頭をつつみ、張角の叛乱(はんらん)に加わった。総勢四、五十万人だ。官軍はどしどし崩れ、どしどしつぶれた。何進が帝に奏上した。即刻詔(みことのり)をお出しいただきたい、各地で賊をふせぎ、討伐を行なうように、と言うのだ。一方では中郎将〔旅団長〕の盧植(ろしょく)・皇甫嵩(こうほすう)・朱儁(しゅしゅん)の三人に、三方から兵を出すように命じた。

[劉備・関羽・張飛の桃園(とうえん)の誓い]

 張角の一部隊が幽州のさかいへ前進したときである。幽州の太守〔地方長官〕に劉焉(りゅうえん)という人がいた。江夏竟陵(こうかきょうりょう)の人で、漢の魯(ろ)の恭王(きょうおう)の血すじであるが、賊兵きたる、との知らせを聞き、校尉(こうい)〔守備隊長〕の鄒靖(すうせい)をまねいて相談した。鄒靖が、
「賊は多勢(たぜい)、みかたは小勢(こぜい)です。兵をすみやかにお集めになりませんと……」
 劉焉(りゅうえん)、がそうだ、と思った。志願兵募集の高札(こうさつ)をだした。高札がやがて※県(たくけん)(※は「さんずい」+豚のつくり)へまわってくる。すると、ここでひとりの英雄を釣りあててしまったのだ。読書のあまりすきでない人。ひととなりがおうようで、口数がすくない。喜怒を色にあらわさない。大志を胸に抱き、ふだん天下の豪傑とまじわりを結びたがっている。 身長は七尺五寸。両耳が肩まで垂れ、両手は膝の下にとどき、我が目でじぶんの耳をみることができた。面(おもて)は冠玉(かんぎょく)の如く、唇は脂(あぶら)を塗ったよう。中山(ちゅうざん)の靖王劉勝(せいおうりゅうしょう)の血すじで、漢の景帝(けいてい)のとおい孫にあたっている。姓が劉(りゅう)、名が備(び)、あざな玄徳(げんとく)。むかし劉勝の子の劉貞(りゅうてい)が、漢の武帝のとき、※鹿亭侯(たくろくていこう)(※は前記※県の※)に封ぜられた。その後、宗廟(そうびょう)の祭祀(さいし)のときに献納の金(きん)の質が規格にあってなかったとかで、侯(こう)をしくじり、民間におとされ、その血すじの一族が※県(たくけん)に残っていたのだ、と言う。備(び)の祖父は劉雄(りゅうゆう)、父は劉弘(りゅうこう)。弘は以前、地方の学生仲間の特待生で、官吏にされたこともあるが、早く世を去った。備(び)は父(てて)なし子だ。母にはいたって孝行にした。家計が苦しかったので、藁(わら)ぐつ・麻のむしろなどを編んで暮らしている。家は※県(たくけん)の楼桑村(ろうそうそん)にあり、その家の東南におおきな桑の木が一本。高さが五丈あまり。とおくから見ると、車を蓋(おお)うやねのように、うつぜんと茂っている。家相をみるものが言った。
「この家からは、貴人(きじん)がでる」
 備(び)は幼時、村の子どもらと、この木の下で遊んだ。
「おれ、天子になるぞ。そしたら、この車に乗るんだ」
 と言った。おじの劉元起(りゅうげんき)が、こいつ、妙なことをぬかす、と思った。
「ただものではあるまい」
 と、まずしいかれの家に付けとどけをしてやっていた。
 十五歳。母がかれを遊学に出した。鄭玄(ていげん)・盧植(ろしょく)に師事し、公孫※(こうそんさん)(※は王へん+賛)らと友だちづきあいをした。劉焉(りゅうえん)の高札(こうさつ)がまわってきたとき、備(び)はすでに二十八歳。
 その日、高札を立ち読みして慨嘆(がいたん)していると、とつぜん、うしろから諮コ一番(れいせいいちばん)――。
「男のくせに、国のためになにもしねえで、なんだい、フーフー言ってやがる」備(び)が、あとを顧みた。身のたけ八尺、豹頭(ひょうとう)・環眼(かんがん)、つばめのあぎと、とらの鬚(ひげ)、声は巨雷、いきおいは奔馬、というような男だった。備は、そのかわったかっこうを見、その姓名をきいてみた。
「おれ、張(ちょう)ッてのよ、名は飛(ひ)、あざなは翼徳(よくとく)。先祖の代から※県(たくけん)にすみ、やしきもある、畑もある、商売は酒・豚肉だ。天下の豪傑がたとおつきあいを願っているんだが、時に、おめえさん、高札(こうさつ)をみてフーフーたあ、どうしなすった?」
 備が「わたくしは劉備といいます。漢の皇室の血すじのものです。黄巾の乱を、どうかしてしずめたい、とは思うけれど、力が足りず、それでつい嘆息したのでした」
「だったら」と張飛が「金はおれが少しは出す。それでもって兵を集め、いっしょに、どうだね、『大事(だいじ)』をやらかしちゃあ……?」
 備は、ひじょうな喜びだった。ふたりで村の居酒屋にはいる。飲んでいると、そこへ一人の大男が車をガラガラ押してきた。店の前まできた。はいってくる。そしてボーイに言うのだった。
「酒をよこせ。いそぐぞ。兵隊志願で城(まち)に行くんだから」
 見ると、それが身長九尺、鬚(ひげ)のながさは二尺もあろうか、という男だ。顔が熟柿(じゅくし)のように赤く、唇は脂(あぶら)を塗ったよう。丹鳳(たんぽう)の眼、臥蚕(がさん)の眉、堂々たるそのふうさいに凛々(りんりん)とした威風がみなぎっている。劉備がかれをじぶんらの座席にまねいた。まず姓名を聞いてみた。
「わたくし、姓は関(かん)、名は羽(う)、あざなは、もと長生(ちょうせい)、いまでは雲長(うんちょう)と呼びかえています。河東解良(かとうかいりょう)のものですが、あちらの金持ちめが人いじめをやるので、そいつを殺して逃げ、この五、六年は旅がらすの暮らし。こんどこちらで志願兵を募集ときき、わざわざ出てきた、と、かようなわけ」
 劉備は、この告白を聞き、はじめて我が志願を打ちあけてみたのである。関羽がおおいに喜んだ。張飛のやしきへ、いっしょに行った。「大事(だいじ)」の共同謀議である。
 張飛が「この裏庭はいっぱいの桃の木。しかもちょうど花盛りだ。あそこで、あした、天地をまつり、三人義兄弟となり、心を合わせた上で『大事(だいじ)』といこうじゃありませんかい」劉備と関羽が「好(よ)かろう」と言う。桃の園(にわ)には、その翌日、おまつり用の黒うし、白うま、ほかにもそなえものの準備ができた。三人が香をたいて再拝した。つぎに誓詞(せいし)の朗読である。
「劉備・関羽・張飛の三人は、みょうじこそ異なるけれど、兄弟の約束を結んだ以上、同心協力、苦しむものを助け、危うきものを救い、上(かみ)、国家にむくい、下(しも)、万民を安んずるつもり。同年同月同日の生まれではないけれど、願うは同年同月同日の死。皇天(こうてん)・后土(こうど)、この志を明察あれ! もしもわれらに忘恩不義の行ないがあれば、八つ裂きをも辞しませぬ」
 誓いがすんだ。劉備が兄、関羽がこれに次ぎ、張飛が弟ということにきめられた。ひきつづき三百余人の村の若いものを集め、その日は桃咲く庭で肉と酒との大ぶるまいだ。 

……冒頭より

購入手続きへ(巻1 巻2 巻3 巻4 巻5 巻6


*** 作品一覧へ *** ホームページへ ***