「猿飛佐助」

柴田錬三郎作

ドットブック版 227KB/テキストファイル 142KB

500円

「柴錬立川文庫」は、時代小説の第一人者が、数々の伝説上あるいは歴史上の有名人物を「あっと驚くような視点から」面白く再現した約50編からなる大好評シリーズ。一読、やめられなくなる痛快読み物! 「猿飛佐助」はその最初のシリーズ「真田十勇士」の巻頭の一編。佐助は武田勝頼の落し子で、戸沢白雲斎に育てられた忍者で、のちに真田幸村の家臣となって活躍したという、奇想天外・荒唐無稽の人物。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らが戦国の覇を競った時代が、虚実とりまぜて生き生きとよみがえる。本巻には他に「霧隠才蔵」「三好清海入道」「柳生新三郎」「百々地三太夫」「豊臣小太郎」「淀君」「岩見重太郎」の7編を収めた。

柴田錬三郎(1917〜78)岡山県生まれ。慶大支那文学科卒。在学中から「三田文学」に作品を発表しはじめ、「イエスの裔」で直木賞受賞。「眠狂四郎無頼控」で一躍、時代小説の第一人者、人気作家となった。代表作には「剣は知っていた」「赤い影法師」「柴錬立川文庫」の連作などがある。

立ち読みフロア

 天正十年三月十一日、武田勝頼は、天目山《てんもくざん》の麓の田野という村里の仮屋で、織田信忠の軍勢五千に包囲されて、屠腹《とふく》し、ここに武田家は、滅びた。
 ――もはや、これまで!
 と、覚悟した勝頼は、重臣某に、無言で頷《うなず》いてみせた。
 心得た重臣は、直ちに、不動明王の画像を描いた巨大な朱塗り太鼓を、摺《す》り搏《う》ちに、四十九打した。この太鼓は、戦国武将中屈指の仏教信仰者であった武田信玄が、曹洞禅《そうとうぜん》に参じた際、信濃の龍雲寺の北高全祝から、贈られた家宝であった。
 信玄は、北高全祝を来世首魁《しゅかい》の師として崇敬していたので、常に、傍《かたわら》に据えて、おのが運を、その鼓音に托した。すなわち、出陣にあたって士気を鼓舞《こぶ》する際には七打し、戦勝を祝う時には十三打するといったあんばいに、またその打ちかたも遅速自在に変えるように定めていたのである。
 そして、遺言の中にも、
「武田家が滅びる日には、摺り搏ちに四十九打せよ」
 という一条を加えておいたのである。
 その日が、ついに来たのである。
 その一打一打に合せて、仮屋にめぐらした柵に、つぎつぎと、燃えるような緋色《ひいろ》の幟《のぼり》が、立てられていった。
 太鼓が鳴りおわった時、仮屋は、四十九本の赤い雲罕《はたじるし》によって、包まれた。
 織田の軍勢も、これが、武田家の降旗と知っていたか、急に、矢弾を撃つのを止め、鯨波《げいは》を絶った。
 天地は、嘘のように、静寂に還った。
 勝頼は、重臣に、
「妻《うち》は、いかがいたした?」
 と、訊ねた。
 重臣は、俯向《うつむ》いて、
「侍女二人の供にて、恵林寺《えりんじ》へおもむかれました」
 と、こたえた。
 勝頼の妻蘭渓は、曾《かつ》て甲斐恵林寺の和尚快川《かいせん》に就いて参禅したことがある。快川は、信玄の請《しょう》じた名僧で、後日、織田信長によって寺院を焼かれるや、
「心頭を滅却《めっきゃく》すれば、火もまた涼し」
 とうそぶいて、紅蓮舌《ぐれんぜつ》になめられつつ、従容《しょうよう》として示寂《じじゃく》している。
 勝頼は、妻が、その実家である小田原へ帰らずに、禅寺に行ったことに、微《かす》かな満足をおぼえた。
 妻は、臨月の大きな腹をしていた。
 ――快川ならば、かくまって、生ませてくれるであろう。
 勝頼は、妻が生むのが、必ず男子であり、それが、将来武田家を再興してくれるような予感がしていたのである。
 かたわらに、今年十六歳の長子信勝が、坐っていたが、これは、病弱であり、気性も弱かったので、おのれに殉じせしめる肚《はら》であった。
「では、逝《い》こうか」
 三十七歳の勝頼は、六十歳の老爺のようにのろのろとした動作で、短剣の鞘を払うと、
「信勝、父が作法に倣《なら》え」
 と、云った。
 すると、生きた心地もない様子でいた信勝が、血の気のない顔面に、にわかに、慴怖《しょうふ》の色をあふらせて、
「父上! わ、わたくしは、死にたくありませぬ!…‥生かして下され!」
 と口走って、平伏した。
 勝頼は、叱咤《しった》しようとして、信勝の項《うなじ》の、女のように白く細いのを一瞥《べつ》すると、口をつぐんだ。
 終日、書物をひもといていれば、それで満足している少年であった。武将の子に生れたのがあやまっていたのである。学者としては一流になり得る頭脳をそなえているに相違なかった。
 ふびんさに、当惑している勝頼を、じっと瞶《みつ》めていた重臣が、
「殿――」
 と、呼んだ。
「それがしに、若をお救いするてだてがござる」
「あるか?」
 勝頼は、思わず、迂愚《うぐ》な父親の表情になった。
 重臣は、胴にはさんでいた鉄製の呼子を把《と》って、口にした。
 鋭い金属音を合図に、影のように音もなく、一人の人物が入って来た。
 黒衣で全身をつつんでいたが、その左腕と右脚は、無かった。黒光りする義手義足をつけていた。
「数年前よりやとい入れて居り申した忍者《にんじゃ》でござる。戸沢白雲斎と申し、秘術抜群なれば、若をお落し申上げることは、さほど至難ではござるまい」
 重臣とすれば、信勝のような臆病者を生きのびさせることに、なんの熱意もないので、口調は冷やかであった。

……「猿飛佐助」冒頭より

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